深紅の盃-6

赤い気配

「……チノ?」
 きょとんと呼びかけると、金網越しに校庭を俯瞰していたチノは、振り返った。今日は風が強く、チノのコートの裾は、舞うようにめくれる。下も暗色の服だ。
「待ってたよ」と微笑されて困惑した僕は、ひとまず後ろ手にアルミ製の戸を閉め、「何で」と言う。
「何が」
「だって、ここ」
「遊びにきたんだ」
「学校、勝手に入れたの?」
「授業中に」
「あのメモ」
「君の靴箱に入れておいてって、同じ学年の人にお願いした」
「同じ学年」
「一年生は、ネクタイが赤なんだよね」
 紺のブレザーの制服と赤いネクタイを見おろし、「まあ」とくぐもって答える。「何でわざわざここに」と歩み寄ると、チノは金網に背中を当てて一笑した。
 屋上はかなり寒かった。強い風が、白い呼吸をすぐさま奪い、僕は上着を羽織ってこなかったことを後悔する。チノは笑みだけ残した、透いた瞳をしたあと、「ゆっくり話したかったんだ」と言った。
「ゆっくり」
「立ち話ばっかりだったし」
「……はあ」
「迷惑?」
「えっ、い、いや」
「君に言っておきたいことがあって」
 言っておきたいこと。首をかしげると、チノは笑みを造った。チノの優しい所作には、皮肉っぽい軽蔑の色がつきまとう。その笑みにも偽善的な色があり、とまどっていると、「まだ怖い?」とチノは唐突に言った。
「えっ」
「俺のこと」
 こんなに寒くても、チノは唇に血をたたえているが、肌は普段より蒼白だ。仕草のひとつひとつを泰然とさせる彼は、迷宮のような貫禄があった。僕を正視したチノは、「怖がってるよね」と念を押す。
「………、何で」
「そう見えるから」
 やり場に迷った挙句、僕は視線を落とした。怖がっているか。まあ、そうだ。「だって」と僕は、言い訳じみて口を開く。
「チノが、何でこんな僕に仲良くしてくるのか分からないし。僕と友達になりたいわけじゃないでしょ」
 虚ろを帯びた笑みを浮かべたチノは、金網にもたれた。瞳が、風を泳ぐ。僕は、凍っていく頬を無造作にこすり、灰色の空に身をすくめた。チノは、髪を乱されても、コートをめくられても、寒風なんか気にせず息をついている。「俺も君が怖いよ」とチノは風の唸りに紛れそうに言った。
「えっ」
「君は闇だ」
「やみ──」
「俺は光を知ってる」
「………、闇って、僕の何が闇なの?」
「そういうふうに自覚がないところかな」
 僕は面食らったものの、その言葉は読めなかった。チノはただ咲って、「おいしそうだったね」と薄暗い空を仰ぐ。
「おいし、そう」
「うん」
「………、何が」
 チノは、僕におっとりと笑みを造った。赤い唇は肌に切れこんだが、黒い瞳は動かない。
「自殺させるぐらいなら、殺してやればよかった」
 まだ鈍感な僕に、チノはさらに敷衍する。
「地面を汚すぐらいなら、喉を詰まらせてほしかった」
 目を開いた。チノは含み咲った。
 とっさには、信じられなかった。だって、まさか、僕以外にそんな──
「俺もなんだ」と僕の混乱を無視し、チノは性急に解を出す。
「俺も君と同じだ」
「おな、じ」
「俺も血を飲む」
「……嘘、」
「嘘じゃない」
「何で、そんな……、こんなの、僕だけなんじゃ」
「そうめずらしいものじゃないよ」
 チノは声をもらして笑い、僕は硬い視線を下げる。
「俺は、昔から母親に血をもらっててね」
 顔をあげる。チノは、淡々と微笑んでいた。
「母親が死んで、こうしてふらつくようになったんだ。十二のときかな。今、十五だよ」
「おとうさんは」
「さあね。日本人じゃないことぐらいしか知らない」
「じゃあ……外国にいたの?」
「もっと遠いところ」
「遠いところ……」
「吸血鬼だからね。不思議だな。君だってそうなのに、何でこんなに違うんだろう」
「僕は人間だよ」
「君は吸血鬼だ。俺のほうが、よっぽど人間臭いよ」
 チノの口調は、確信に満ちていた。僕は吸血鬼で、チノが人間臭い。反対ではないだろうか。僕に妖怪的なものを嗅げる人なんていない。チノのほうが、生身の人間と遊離している。
「おかあさんに、血、もらってたの」
「うん」
「もう、死んでるって……」
「死んでるよ」
「じゃ、今は──」
 チノは微笑むだけだった。喉が凍って、背中までひんやり伝う。
「君こそ、どうしてるの」
「えっ」
「そうとう、飢えてるんじゃない? あの日の君の目、ものすごかったよ」
「………、飢えてないよ」
「人間の血、飲んだことある?」
「あるよ」
「めいっぱい」
「め、いっぱいじゃないけど。定期的には飲んでる。恋人が、理解してくれてるんだ」
「恋人って、こないだの」
「うん。僕は、攻撃的にはなりたくない。彼女がいて、理解して提供してくれたら、それで満足だよ」
「ほんとに」
「ほ、ほんとに」
 物笑いをもらしたチノに、「ほんとだよ」と僕は念を押す。チノは息む僕に咲いかけ、「よく生きてられるね」とあしらう。
「俺なら、我慢できないよ」
「………、チノは、どのぐらいで、満足するの?」
「致死量」
 致死、量──
 チノは黒いコートのポケットに白い手を入れた。取り出した何かを、僕のブレザーの胸ポケットに入れる。
「俺の友達になってくれるなら、そこにおいで」
 チノが言ったとき、予鈴が鳴った。無意識に視線を上方にやり、ついでチノを見る。風が追いやった前髪に現れた黒い瞳の笑みは、気高い残虐性を持っていた。
「僕──」
「あれで、授業が始まるんだよね」
「あれは予鈴……だけど」
「まだ時間あるってこと?」
「い、いや。ない……ね」
 僕は口ごもり、たどたどしい深呼吸をすると、後退った。チノはきびすを返す僕を見守る。のしかかる視線に、僕の背中は強直した。すっかり麻痺した指で戸を開け、校舎に逃げこむと、急に肩が軽くなって息をつく。ドアを閉め、たたずむヒマもなく、階段を降りながら努めて心の錯乱を鎮める。
 致死量。冗談かもしれない。チノの言動を鵜呑みにしていたら、翻弄されるばかりだ。それに、信じたところでどうしたらいいのか分からない。チノは、血のために、殺人を犯したことがあるのか。いや、犯し続けているのか。血のために。
 信じたくなかった。保身だった。自分自身にぞっとする。僕はどこかで、それに羨望を覚えるのだ。だから、信じたくなかった。
 生徒がうろつく廊下に出る前に、チノに渡された紙を取り出した。最寄り駅の改札口と、時刻が記されていた。
 一月三十一日、二十一時──
 無理だ。二十一時に出かけるなんて夜遊びは、いずれにしろ無理だ。いや、奈雪や友達の家に泊まると言い、外泊することもできる。それぐらい、僕の親は僕を信頼している。そう、信頼してくれているのだ。それを逆手に取って、チノとつるんでいかがわしいことをするなんてできない。
 そもそもチノは、僕を呼び出してどうする気なのか。メモを睨み、遅疑に足を取られていると、始業のチャイムが鳴った。はっと顔をあげた僕は、急いで教室に向かい、続きは授業中に考えることにした。
 チノはなぜ、僕に血を飲む本能をさらし、罪を示唆する発言をしたのか。じっとりした恐怖が思考を冒し、僕は手の中の紙を握る。
 その週の日曜日にも、僕は奈雪に血をもらった。血を飲むのが終われば、試験勉強をする予定で、まず奈雪は持参した勉強道具を折りたたみの卓袱台に置く。
 並んで腰かけたベッドには、レースカーテン越しに冬陽が射しこんでいた。そわつきをこらえる僕に、奈雪は苦笑いし、ふさがりかけた親指のつけ根の傷口にカミソリをあて、恵みの水源を肌にこしらえる。僕はねばつく口内を飲みこみ、奈雪と瞳を合わせたのち、身をかがめて傷口に唇をうずめた。
 一週間振りの、愛おしい味が口に広がった。早急に吸って飲むことはしない、そうしたい欲望はあっても。奈雪から血を摂取しすぎることになるし、味わったほうが余韻が残る。生温かいぬめりに舌をすべらせ、唾液を混ぜて、生臭い鉄分をじっくり染みつけ、そのあとで喉に許して軆の奥に取り入れる。
 弱い冬の陽射しのささやきが聞こえそうに、静かだった。僕が奈雪の血を飲む音と、奈雪が僕の頭を撫でる音だけが、鼓膜をくすぐる。
 たとえ弱くても、うなじにかかる陽射しが気になり、僕はいったん顔をあげて、奈雪に閉めるように頼んだ。奈雪はそうして、するとわずらわしく金色に溶けていた前髪や睫毛が落ち着く。
 僕は改めて血に集中した。奈雪の匂いも温柔もさしおき、血管から外気におろした生き血の味に夢中になる。
 他人の血と奈雪の血を舌先で識別できそうに、僕は彼女の血に敏感になっていた。奈雪の血は甘美で飽きない。すぐ口内の熱に飲まれる頼りない生温さ。強くぬめりを強調したあと、素直に唾液に裂かれてさらさらになる感触。味覚に馴染みつつも、消えない鮮烈な味。何もかも僕の欲望に寄り添っている。
 ゆいいつの不満は、それをたっぷり味わえないことだが、たっぷり味わって一度きりで終わるより、こうして三分間で切り上げ、いつまでも口づけられるほうがいい。
 唇を舐めて体勢を正すと、こちらを見つめる奈雪におもはゆく微笑み、僕は血を涸らした傷口に絆創膏を貼ってあげた。
「ねえ」
「ん」
「あたしのこと、好き?」
「えっ」
「好き?」
「……ん、まあ。好きだよ」
「そっか」
「どうして」
「………、たまに、不安なんだ。血を飲ませるから、しぐみはあたしのそばにいるんじゃないかって」
 僕は奈雪を見た。奈雪は、少しもろく微笑んだ。彼女の心を、猜疑だと罵ることはできない。僕の奇妙な欲望は、彼女をそんな不安に取りつかせて当然だ。
 でも、それは違う。僕は奈雪が好きだ。血と切り離したところで彼女を想っているからこそ、僕の舌に奈雪の血は希少価値なのだ。僕は奈雪を抱き寄せ、口の中に残る血を気にして、ひかえめな口づけをする。「奈雪が不安なら、血を減らしてもいいよ」と耳打ちすると、奈雪は僕を見上げて、かぶりを振ると抱きついてきた。
 そのあと、床におりて勉強会を始めた。黙々とやるわけでなく、奈雪が先生になって、僕が生徒になる。
 おやつ休憩のとき、チノの呼び出しについて話した。チノが血を飲むというのは、よく考えて、事実かも怪しいと思いはじめていたので言わなかった。カスタードタルトを切り分ける奈雪は、「行きたいの?」とむずかしい顔になる。
「分かんない」
「あたしは、あの人とは親しくならないほうがいいと思ってる」
「そうかな」
「うん」
「僕も、ちょっとそう思う。あっちが近づいてくるんだ」
「突っぱねればいいじゃない」
「そこまでは嫌じゃないし」
 奈雪は息をついてタルトを口に運び、僕はミルクティーを飲む。血の後味は薄れていて、ほかのものを口に入れることに抵抗はなかった。奈雪はフォークの先をカスタードにもぐらせると、「しぐみが行きたいなら止めないよ」と言う。
「うちに泊まるって協力してもいいし」
「近寄らないほうがいいんでしょ」
「あたしが口出すことじゃないよ」
「………、怖くて。ほんとに。優柔不断なんじゃなくて、呼び出して何なのか分かんないし」
「じゃ、やめれば」
「行かなかったら、それはそれで怖そうだよ」
「何なんだよ」
「行かないほうがいい、って何となく思う。なのに、行きたい感じもする。楽しいことじゃない気がする。きっと、行かないほうがいいんだ。行かないほうが賢いって分かってるのに」
 奈雪は芳しいコーヒーに口をつける。
「そういうので欲望に負けたら、ろくなことないのが常だよな」
「……うん」
「でも、後悔したくなかったら行けば」
「っ……」
「ひとりで受け止めきれないことがあったら、あたしはここで待ってるから」
 僕は奈雪に上目をした。結局、僕が欲しかったのは、その言葉だった。見通して咲う奈雪は、「試験前にハメを外しすぎないように」と忠告して、つられて笑った僕はうなずいた。

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