耐えがたい悪食
小屋の表に這い出ると、湿った土壌に思い切り嘔吐した。
頭が巨大な痛みにぐらぐらして、えぐれるように胸が悪い。引き裂かれた匂いが、噎せ返って喉元をにじり、圧迫感に息遣いが荒い。
たった今、見ていた光景が耐えがたくて、事実として受け入れられなかった。夢だったと思いたい。ひどい悪夢だったと──
でも今、僕は確かに風を肌に刺し、戦慄に冷気を重ねていっそう震駭している。足腰を崩してへたりこんでいる。ここが山の地べたであることなど、どうてもよかった。
ショックで涙も飛んでいる。嫌悪だろうか。そうだと祈りたい。恐怖は確かだ。それにたたみかけ、僕は嫌悪を感じているだろうか。分からない。感じていたい。あんなものに憧憬するほど、非人間的ではありたくない。
あれはひどすぎる。僕には血が必要だけど、何も、あんな地獄絵図にまみれてまで深紅を求めては……
──玄関の右手のドアから入った室内には、エアコンが設置されていた。暖房をつけたチノは、僕のことは奥のダブルベッドに座らせておき、事の準備を始めた。
壁にかかった黒い布を取り去ると、人を磔にする鎖が垂れさがっていた。「かあさんがSMプレイで使ってたんだ」とチノはベッドの下を探り、折りたたみのテーブルや、それに並べるさまざまな道具を引っ張り出していく。
ナイフ、ライター、アイロン、はさみ、ペンチ──名前も分からない器具も多く、僕はただ見ていた。床や壁に黒いビニールシートを敷き、カーテンを引く。そんな対策も終えると、チノは僕に微笑み、あの名状しがたい悪夢を開始した。
その人は、クローゼットにいた。女の人だった。若いけど、僕たちよりは年上だろう。髪が長く、キャメルのコートも着たままだ。薬を盛られているのか、瞳が混濁し、ガムテープやロープより効果的に虚脱に縛られている。
チノは優美な瞳を崩さなかった。彼女を引きずり、鎖の下に連れていく。そして僕を向いて、「手伝って」と普通に言った。僕はその女の人がどうなるのかという予断に、動けなかった。チノは僕の名前を呼ぶ。僕は泣きそうになって、暖房に溶けた指先が再び震え出すのを感じた。
「何で」
やっとそう言うと、「そのために呼んだんだ」とチノはすげなく答えた。僕はこわばった息を吐き、自分に危害を加えられたくないという保身で、ベッドを立ち上がった。
「こ、この人、どうしたの?」
「俺と寝たかったんだ」
「寝、る」
「俺は淫売の息子だよ。咲い方から嘘のつき方まで、人をたらしこむ術はじゅうぶん知ってる」
その人の弛緩は、全体重をこちらにのしかけてきた。手首に手錠をかけ、上に引っかけるとロックする。腰まわりと両足首も縛った。
チノは女の人を優しく見つめ、愛情をこめたような手つきで蒼い頬に指を這わした。不明瞭な声を垂らす唇に口づけて、まろやかにささやく。
「君を愛してるよ。約束する。ずっと忘れない」
僕には、心のこもらない儀礼的な文句に聞こえた。「魂へのお祈りなんだ」と咲ったチノは、僕にはさみを取るように言った。躊躇ったあと、僕は大きな裁ちばさみをチノに渡した。
チノはそれで彼女のコートを切り刻みはじめた。落ち着いた手つきで、服を断片にしては床に捨て、「ときどきはね」とチノはそれで彼女の服を脱がせていく。
「殺したあと、そのベッドに横たわらせて、ゆっくり飲むんだ。だけど、あんまり好きじゃない。死ぬと血のめぐりが止まるからね。飲みにくいんだ。抜き取る手間もかかる」
「………、これまで、どのぐらいの人の血、飲んだの」
「百人ぐらいかな」
あしらわれたのか、大ざっぱに計算されたのか、混乱する僕にはそれすら読めなかった。
「でたらめに他人の血を飲んで、病気とか怖くない?」
チノは声を出して笑い、「俺はとっとと病気にかかって死ぬべきなのに」と開き直った自覚を述べる。
服を切り裂き、チノは彼女を全裸へと剥いていく。奈雪の軆を見たことはあっても、気恥ずかしさに僕は目をそらした。「童貞なの?」と訊かれ、かぶりは振る。
「チノは」
「童貞だよ」
「ほんとに」
「女なんか嫌いだね」
女の人の服を奪ってしまうと、チノは僕にはさみを渡して、ひざまずいた。女の人の脚のあいだを探り、肩をすくめて立ち上がる。「何?」と訊くと、生理かどうかを見たのだそうだ。
「生理の血、飲んだことある?」
「……ないよ」
「俺が初めて血を飲んだのは、母親の生理の血だった。生理中は、どうせ仕事にならないしね、ベッドでぐったりしてるかあさんの股ぐらに顔うずめて、ずっと血をすすってたよ」
僕は黙っている。悪趣味に揶揄われているのか。すさまじい告白をされているのか。これも分からなかった。
僕が見つめる中、チノは血を味わいはじめた。彼が僕を仲間面で揶揄しているのではないのは、ここで証明された。ナイフで彼女の頸動脈を傷つけたチノは、緊密に軆を重ねてそこに唇をうずめる。
言うまでもなく、僕は激しい羨望に駆られた。チノに会いにいく協力を奈雪にもらったあの日が、最後に血を味わった日だ。
チノは睫毛を伏せ、あふれる血を飲んでいる。あふれすぎて、もったくなく口元に赤い液体がしたたり、チノの白皙にその鮮血はすごく綺麗だった。雪におおわれた地面に、薔薇の花びらが降ったみたいに。
僕の喉ははりつきそうにからからになる。チノは僕の様子に笑うだけで、分けてくれる気配はない。僕はその血を飲みたいと思いつつ、チノが進んでいくであろう行為に染まりたくない理性で、そんな血はいらないとも思った。でも、チノに見下すように笑われると、彼の首をつかんで自分こそその傷に口づけたくもなり──
心が揺らぎ、自分でもおさまりがつかなかった。そのあいだにも、チノは頸動脈で本能をたっぷりと癒やす。
いったい何の薬を打たれたのか、女の人は流出する血液に無関心に脱力していた。すでに死んでいるのだろうか。ぐったりした目は、生死すら見取らせない。チノはひとまず喉が潤うと唇を離し、赤く濡れた口元を雑にぬぐった。
女の人の肌には、どくどくと血が流れ落ちていく。まだ、生きているのだ。脈打ちのたび雫が生まれ、とめどなく、涙よりじっくりした速度で、血が垂れ流れていく。
肌にくっきり赤い軌道を残し、肩をすべり、鎖骨に溜まり、乳房にまといついて腹をくだり、陰毛に流れこんだり、脚を伝って床に血の池を作ったりする。僕はそれを猛烈に舐めたかったが、チノはそんな正統的な吸血にはもう興味もなさそうに、拷問のかたちでその人の血をむさぼりはじめた。
胸を穿つ恐怖に襲われはじめたのは、ここからだった。チノは微笑んでいた。動脈を切ってうっとり口づけても、爪を剥いで関節をちぎった指先をしゃぶっても、チノは極めて優しかった。
僕は次第に、道具を取るのを頼まれても動けなくなった。怖かった。しかし、満ちていく甘い血の香りに、陶酔するめまいも覚えていた。
視覚いっぱいに、血が乱れる。床に溜まる血、壁に飛び散る血、チノを彩る血、彼女を穢していく血──
それらにくらくらして、その自分の感覚が恐ろしかった。女の人はまだ生きていて、薬が切れはじめたのか、深い痛みが神経に至りはじめたのか、低く唸るようになる。
チノは、ジッポライターで彼女の肌を炙った。焦げた鼻につく悪臭がしたあと、肌は真っ赤に爛れ、血を滲ませる。チノは飴でも舐めるように、それにべったりと舌を這わせた。どれほどの激痛か、僕には測りかねるが、女の人は喉を喘がせて痙攣した。
チノは構わず彼女を焼き、浮いた血をすする。僕が昔、生肉から血を取っていた要領だろうか。果ては、じっくり熱したアイロンを素肌に押し当て、広範囲に腫れあがった水ぶくれを引き裂き、チノは血と膿のカクテルを飲んだ。
僕が耐えがたくなったのは、うめく女の人をチノが疎ましげに一瞥し、ペンチを手にしたあとに取った行動だ。僕の悪い妄想なら、どんなよかったか。でも現実だ。チノは、僕の目の前で、確かにやった。女の人の口をこじあけ、ペンチではさむと、ひと思いに舌を引き抜いたのだ。
女の人は、声を出せなくなった。血が奔流し、チノは女の人の首に腕をまわして深く口づけた。愛する恋人にするように口づけを贈り、血を飲み、それでも大量の血はふたりの唇の隙間からほとばしって、彼女の肌やチノの服をどす黒く染めた。
僕の膝は、がくがくになっていた。頭の中が、拒絶反応に白光している。吐きそうだった。吐きたい。吐かなくてはならない。半端な舌をしゃぶって血をすする卑猥な音に、肌にべとつく生臭く焦げた匂いに、無秩序に散乱する毒々しい色彩に、いろんなものに脳髄を殴られ、気がふれそうで、悲鳴があがりそうだった。頭ががんがんして、耳鳴りに足元がよろめいて、僕はそれに乗じて部屋を走りでて、こうして土にうずくまり、錯乱した息切れに沈んでいる。
何を、見ていたのだろう。何を聞いていたのだろう。この匂いや、あの空気は何だったのだ。
口の中が乾からびて、呼吸のたびに耳の奥がずきずきして、こめかみから眼球がひずんでいる。貪欲な口づけが鼓膜にべたつき、暖房と熱気が絡みあった混沌とした空気が頭にかぶさって取れない。
床に散った赤い池は黒い沼と化し、そこから立ちのぼる匂いは、地獄から噴き出してきたように生臭かった。受けつけない匂いほど残像するもので、それは、喉をゆがませる吐き気を呼び覚ます。
あったのは、生だった。とびきり皮肉な生だった。静寂な死ではなく、強烈な生が蔓延していた。もっと言えば、生を寸裂にした上での、命があってこその、死の光景だった。
土を手のひらにおさめて拳を作り、ねじれた喉元にもう一度吐いた。今度は、頬に汚物が飛び散った。もっと吐きたくなる匂いがしたけど、あの血の香りを立ち切りたくて、あえてそれを嗅いだ。涙をこぼしながら吐いて、胃が空っぽになるまで、それを繰り返した。
胃物が尽きると、内界に専念していた感覚が外界に流れ、急に森の冷気が肌を刺してきた。身をすくめそうになったものの、思い直して、あえてそれを受けた。
小屋の中で五感が受けたものを、自然の厳寒で癒やしてほしかった。指先や爪先から感覚を手離し、麻痺に侵蝕されていく。冷たい息吹に頬と髪をさらし、明かりのない空に視界を広げ、鬱蒼とした匂いに嗅覚を澄まし、風の唸りや草木のささやきを聴く。なだらかな白い深呼吸をして、抜いた力を柔らかな土に落とした。
嘔吐のような荒々しさはなく、自然は優しかった。渦巻く悪いものを、慰撫のうちに消して、生身の真冬に包まれ、僕はどうにか平静を取りもどしていった。
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