Sweet Home
「紗月と逢ったのは、二年ぐらい前なんだ」
「二年」
「紗月は外を追われてここに来た奴で、疑ったりはしなかった。俺に心開いてくれて、まあ実樹さんと俺の親友にも心開いて、でも、そこまでだった。友達って言える奴はいなかったんだ。お前と芽留はなれそうだな。人見知りしてないし」
「あなたって、バイなんでしょ」
「ん、まあな」
「紗月と知り合ってから、女と寝た?」
「寝てないよ」
「持つの?」
「誘ってんの?」
「素朴な疑問」
「持つよ。俺はセックスで軆じゃなくて心が欲しいんだ。軆は心の媒介で、だからまさぐるのは胸も竿も関係ない。俺は紗月を紗月だから抱くんだ。男だからじゃない」
美しいのね、と皮肉ろうとしたけど、あたしは黙っていた。
今のあたしにとって、男と寝るのはあくまで肉体的なものだ。精神なんて情緒的なものは存在しない。気持ちよくなっておしまいだ。ただし、初めてのときは、この行為によってこの人に愛されていると幻想的に目をむいていた。
「うらやましいな」と素直に言う。
「あたし、初恋をダメにして以来、本気の恋ってダメなんだ。初めてだからさ、バカみたいに本気になっちゃったの。終わったとき打ちのめされた。子供なりにね」
「相手、大人だろ」
「うん。すっごい年上で、父親ぐらいの人」
「……父親じゃねえよな」
「父親と呼んでもいい人だったわ」
あたしと弓弦くんは顔を合わせた。にっこりしたあたしに、彼はすくんだ顔になる。「おまけだったの」とつけたすと彼はうなずき、コーヒーをすする。
「あいつにも本気じゃないのか」
「あいつ」
「来夢。俺の親友」
「興味ってとこね」
「なら、やめといたほうがいいぜ。まじめな話。お前もあいつも傷つくだけだ。俺としては、あいつが恋愛してくれたら嬉しいんだけど、無理もしてほしくない。あいつは過去が厄介でさ」
「紗月も言ってた」
「あいつも初恋をダメにした。それで本気じゃない恋もできなくなってる。どこまで言ったらいいのか分かんないけど──あいつは昔、恋人を亡くしたんだ」
「死んだの」
「ああ。だから、うまく想いを断ち切れてない。もしあいつとつきあうなら、半端じゃない度量がいる。責任がいるんだ。捨て身の本気じゃないなら、そっとしててくれよ」
黙ってクラッカーを噛んだ。
後ろを通った若い男が弓弦くんに挨拶し、弓弦くんは軽く流している。彼は隣のあたしに興味深そうにしたが、後ろに紗月のすがたも認め、浮気ではないと判断したようだ。「こいつは実樹さんの妹分」と慣れた口調で男を追いはらう弓弦くんに、ようやく彼がこの街でそれなりの権力者であるのを信じられてくる。
外は真っ暗になり、急速にネオンが灯りはじめていた。時刻は十八時をまわって、もう帰宅は二十時を過ぎてしまう。そろそろ回収しなきゃ、とコーヒーを飲みほすと、「芽留」とあたしはスツールを降りた。
「んー」
「帰るわよ」
「えー」
「ひとりで帰れるのね」
「えーっ」
「また来たらいいでしょ。二十一時前に帰さなきゃ、あたしがマリカさんに怒られるわ」
「またって、僕、ひとりで来れないよ。乗り換えとか憶えてないもん」
「あたしがついてきてやるよ。それとも、家族捨てて、ふたりのおうちに居候でもする?」
芽留は紗月と顔を合わせた。弓弦くんは頬杖をついて眺めている。芽留はしぶしぶ立ち上がり、「またお話しようね」と紗月に約束を取りつけた。あたしは弓弦くんを見る。
「弓弦、でいいんだよね」
「俺も杏里ちゃんなんて呼ばねえよ」
「けっこう楽しかった」
「俺も。ちょっとあつかいにくかったけど」
「どうせ、紗月にハマって女のあつかい方忘れただけなんでしょ。引っぱたいてごめんね。あなたに認めてもらえないのは、ちょっと悔しかったの」
「………、俺も悪かったよ。偏見だった」
「ふふ、あれで顔がつぶれなくてよかったね。取り柄がひとつなくなっちゃう」
面食らう弓弦くん──改め弓弦に、あたしはからからとした。「慣れなきゃいけないわよ」と通りがかりの実樹ねえさんに言われ、「ですね」と弓弦は気弱に咲う。あたしは店員に代金をはらい、「また今度話そうね」と紗月に言うと、名残惜しがる芽留の細腕を引いて、暖かい〈POOL〉からぐっと冷えこんだ夜の外気に触れた。
「寒ーいっ」
芽留が白い息とわめいても誰も振り向かないほど、通りは喧騒で混雑していた。飛んだ服装の人間に芽留は怯え、あたしの腕をつかむ。この状況で迷子になられても困るので、好きにさせておいた。
昼には春がちらつきはじめていても、夜は断然に冬だ。吹き抜ける風に頬がかすれ、軆の端々が体温を取り逃がす。
「どうだった、あの店」
「楽しかったっ。あんないいとことは思わなかった」
「あんた、同年代の男と話すのって久しぶりだったんじゃない」
「うん。ほぼ五年ぶり」
「誰がお気に入りですか」
「紗月くんですっ。いい子だねえ。僕のが年下なのか。話合うの」
「惚れるなよ」
「男としては弓弦くんのほうが」
「あんたが邪魔者になったら、あたしまで顔つぶれるのよ」
「邪魔なんかしないよ。いいよね、あのふたり。男同士であんな普通につきあえるもんなんだね。いいなあ。いいなあ」
思えば芽留は、教師にゲイであることを否定されて以来、部屋に閉じこもってきた。あのふたりの自然な様子は、ずいぶん勇気をくれるものだっただろう。
「ママに話さなくちゃ」と言う芽留に、「急成長に泣かせない程度にね」とあたしは忠言しておく。
「ところでさ、弓弦くんの親友の来夢くんって杏里が気にしてた人でしょ」
「ああ。まあね」
「すごい美少年だね。弓弦くんもだけど。杏里とぜんぜん接点なかったじゃん。弓弦くんとのほうが仲良くなかった? あ、弓弦くんから接近していこうという魂胆」
「あの来夢って、近づいたところでややこしそうなんだもん」
「男娼なんだって」
「恋愛もしないんでしょ」
「小梢さんにアドバイスもらったら」
「………、そうね。うん」
二月も末で春も近くて、本物の春になるまでママは束の間のゆとりが出てくる頃だ。あたしもママも、男ができたら報告しあう。都合がつけば相手を紹介もする。今回のこれは、恋になるかも分からない段階だけど。
「実樹さんって人、小梢さんに似てたね」
「妹だもん」
「ほんとに妹いたんだねえ」
「あんたの子供の頃も知ってたじゃない」
「馬乗りしたの?」
「憶えてない」
「ママが、杏里は僕にたくさん悪戯してたって言ってた」
「やらしいことはやってないわよ。歩けるようになったとこを、クッキーで釣って追いかけさせて、最後にあたしがそれ食べちゃうとか、そんなのよ」
「やめてよお」
「今言ってどうすんのよ」
芽留はふくれたあと、「杏里のパパってどんな人かな」とつぶやく。あたしは凍った息を白く流して、芽留を見返る。
「ひどい男だったんだって」
「ひどい」
「実樹ねえさんに娼婦やらせたの、あたしの父親だったって」
「………、パパにいてほしいと思うことない? その人じゃなくても」
「あんたこそ」
「僕はどこにいてもパパが僕を想ってるの知ってるもん」
「っそ。あたしはいなくてよかったよ。いたら違う人間になってた」
「そうかな」
「うん。父親がいないぶん、あたしは自分を作るのに自由があったの。今の自分、すごく好きってわけじゃないけど、悪くもない」
「僕はパパとママにぬくぬくでも自由だよ」
「ほんとはそれが理想的なのよね」
あたしは咲って、けれど芽留はめずらしく憂鬱そうにした。「紗月くんたちは親がバカだったみたい」と芽留は雑音に消え入りそうに言う。
「僕、鬱陶しくなかったかな」
「何で」
「僕ばっか親に恵まれてさ。嫌味って思われたかも」
「んなことないよ」
「弓弦くんも来夢くんも、中学生で家出して自分で食べるようになったんだって。それって、死んでも家に頼りたくなかったってことでしょ」
「まあ、ね」
「僕にはおうちは、いつでも自分を迎えてくれるとこだよ。紗月くんたちには違うんだ。僕が家に持ってる安心感、みんなには目障りだったかも」
芽留は不安げにあたしの腕を握りしめ、「大丈夫よ」とあたしは落ちこむ芽留の頭を撫でる。
「あたしだって家が大切よ」
「パパがいない」
「ママがいる。そっちのが強いわ。それに、あの来夢とやらは分からなくても、紗月と弓弦はお互いの存在で芽留の家族への気持ちを理解できると思わない?」
「そう、かな」
「うん。あの三人、自分が恵まれなかったからって、頭ごなしに家庭を否定する男たちでもなさそうだったでしょ」
「……うん」
「仮に嫌がられたって嫉妬よ。仲良くするために、ほかの大切なもの捨てろとか言う奴だったら、はなからつきあわないほうがいいわ。平気。紗月たちと対等になるために、マリカさんたちを嫌いになったりしたら、あんたこそバカよ。あんたの家庭ってすごいんだ。自信持てよ。な」
芽留はあたしを見つめ、こくんとした。あたしは微笑んで、芽留の頭をぽんぽんとする。「分かってくれたよね」と芽留は言って、「分からなかったら、あいつら口もききそうにないじゃない」とあたしは返す。芽留は入り組むイルミネーションに月や星が紛れる天を仰ぎ、「そだね」ともう一度こくんとした。
街を抜けながら、「来夢くん、今頃男の人に抱かれてんのかな」と芽留は通りを振り返る。「さあね」とあたしは時間を気にするふりで受け流す。
あいつのことをママに相談する。名案ね、と全身が豹柄の女にぎょっとしている芽留に内心あたしは礼を述べ、ママに遭遇できる日を待つことにした。
【第十二章へ】
