預かった手紙
翌日の晴れた月曜日、あたしは紗月に預かり物を託されてひとりで〈POOL〉に行った。
出迎えてくれた実樹ねえさんによると、惜しいことに弓弦が出ていったばかりだという。十五時過ぎで、また来るのは明日だろうということだ。一応夕方まで弓弦か来夢を待ってみて、逢えなければ実樹ねえさんにそれを預けることにする。
「預かり物って」と手ぶらのあたしに実樹ねえさんは怪訝そうにし、「これよ」とスツールに腰かけたあたしは、ジャケットのポケットから封筒を取り出した。
「手紙」
「そう。顔合わせたら冷静に訊けそうもないことをね」
「紗月くんは文章を書くものね」
「〔こもりうた〕、か。実樹ねえさんは、紗月のこと知ってる? 過去というか」
「さあ。ゲイなのに、弓弦以外の男には何だか怯えてるみたいね。彼にはだいぶ怯えなくなったかしら」
「彼」
「来夢くん」
「実樹ねえさんって、あいつをその名前で呼ばないね」
「昔、元の名前で呼んでたのよ。だから言いにくくて」
「弓弦は来夢って呼んでるよね」
「それ以外、どうしたらいいのか分からないんじゃないかしら。あの子はいつも、彼の一番近くにいたわ。彼の傷のすべてを知ってる。知ってるからこそ、対応にとまどってるのね」
「あいつの過去って、そんなにすごいの」
「生きてるのが不思議だわ」
「知ってるんだ」
「詳しくじゃないけど」
「死んだ女、会ったことある?」
「見たことはあるわ。弓弦たちと同い年だった」
「あいつ、その女が死んだってだけじゃないの?」
「何もかも失ったの。残ったのは弓弦ぐらいね。弓弦がいるから、生きてられるんだと思うわ」
「過去にしがみついてる奴って厄介」とあたしはコーヒーをすすり、「過去に取り憑かれてるのよ」と実樹ねえさんは訂正する。「私だって杏里の父親に関してそうだもの」と実樹ねえさんは微笑み、暗い過去なんてないあたしは、仏頂面で頬杖をついてしまった。
長くなった日に夕暮れもずいぶんあとを引いて、徐々に紺に分解されていった。店内の客層も変化して、あたしは仕方なく手紙を実樹ねえさんに預けて、帰ろうとした。
コーヒーと、今日はケーキも食べたので、いつもと違う料金に手間取っていると、「あら」と実樹ねえさんが親しい声を出した。あたしは深い意味もなくその声に顔を上げ、「あ」と声をもらす。自動ドアを抜けてきたのは、リュックを肩にかけた来夢だった。
入口のそばの席の男に声をかけられて、それを軽くかわした彼は、こちらに気づいて、「よお」と言った。あたしは同じ言葉を返し、実樹ねえさんを向く。実樹ねえさんは手紙をさしだし、あたしは受け取って代金を払う。来夢はこちらに歩み寄ってきて、「何か朝飯ください」と実樹ねえさんに言った。実樹ねえさんは奥に伝えにいき、「これ」とあたしは彼に手紙をさしだす。
「何」
「ラブレター」
「いらねえよ」
「紗月から弓弦へのなんだけど」
来夢はばつが悪そうにむっとして、乱暴に手紙をもぎとった。あたしは笑い、「なるべく早く弓弦に渡してほしいの」と頼む。彼は承知し、「弓弦の部屋に行ったとき渡すよ」とも言い添えた。
「弓弦、最近どう?」
「死んでる。昨日会ったけど、めちゃくちゃへこんでた」
「かわいいとこあるのね」
「一週間ぐらい経つだろ。紗月くん、どういうつもりなんだ」
「そこに書いてあるんじゃないの」
来夢は手紙に睫毛の角度を落とし、「弓弦は後悔してるよ」とつぶやく。
「何でキスしてたか、訊いた?」
「ああ。聞きたい?」
「そりゃあね」
彼はいつものテーブルを顎でしゃくった。あたしはカウンター側に座り、来夢は向かいに腰かける。あたしにコーヒーをおごった来夢の朝食は、トーストとバターのきいたスクランブルエッグ、コーヒーだ。夕方に嗅ぐ匂いじゃないな、とあたしは砂糖をそそいだコーヒーをかきまぜる。
「お前、紗月くんの昔のこと知ってる?」
「聞いたわ」
「よかった。それ通じてないと、わけ分かんないんだ」
「もしかして、何日か前にうまくいかなかったって奴が関係してる?」
「当たり。つっても、紗月くんが考えてるだろうことではないよ。それでいらついたり、満たされなくて女に手え出したとか、そんなのではない」
あたしはほっとして熱いコーヒーを飲む。いつ頃からアイスコーヒー頼むようになるかな、とふと思う。
「弓弦としては、そのことがショックだったんだ。バスルームにまで追いやられたんだぜ。あ、ここ聞いた?」
「紗月も気にしてた」
「そっか。弓弦は無力感って奴に弱いんだ。紗月くんを癒してやりたいのに、あのとき自分ができたことといえば、バスルームに身を隠して気配を殺すだけ。失敗の名残がある部屋から、切り離してやることもできない。あさっての二十八日が、紗月くんの誕生日だって知ってる?」
「え、知らない。そうなの?」
「ああ。弓弦は紗月くんが十六歳になるのを機に、引っ越そうかって考えてたんだ。紗月くんがそういうことになったとき、何もなかったベッドで休めるように、もうひとつベッドを置ける部屋がある、広いとこに」
拍子抜けてしまう。紗月の話では、あいだにある傷ですれちがいも避けられないように感じた。傷にすくんだ紗月の心の錯覚なのだろうか。話の限り、弓弦の紗月の心のすくい方は深くて正確だ。
「広いとこにベッドで、金がいるだろ。弓弦は金なんてうんざりするほど稼いでんだけど、それ削ったってやっつけっぽいから、引っ越すための金をきちんと用意しようとしたんだ。それで弓弦は例の女に軽いキスをくれてやった。で、ホテルの一室で商談することになってたんだ。だから、引っ張られても逆らえなかった。そうしたら折角の商談を折ることになっちまうからな」
「あんたそれ、信じる?」
「弓弦が浮気する、なんて話よりはるかに信憑性あるじゃないか」
そうかなあ、と合点をいかせないあたしに、「お前は弓弦をろくに知らないからな」と来夢はトーストをかじって笑う。
「俺は八年も一緒にいるんだ。あいつのことはよく分かってる」
「……ふうん」
「後悔してるよ。あいつも必死なんだ。セックスはそばにいることの延長線に過ぎないって、どうしたら分かってもらえるんだろって言ってた」
なるほど。その表現はうまいなと思った。「頭では分かってるのよ」とあたしはスプーンでコーヒーの水面をいじる。
「できないから負い目に感じて、気にせずにいられないんだわ。愛しすぎるの。一歩間違えたら足が早いわね」
「お前って、ぞっとすること平気で言うよな」
「口だけよ。弓弦、キスを引き換えにしたこと、紗月に黙ってるつもりだったのかしら」
「話したと思うって言ってたよ。その女が変なかたちで流したらこじれるし、紗月くんに隠しごとする度胸もないって」
「そんなのでもらったお金で尽くされて、紗月が喜ぶと思ったのかしら」
「………、反省してたよ。あいつも万能ってわけじゃないんだ。紗月くんの心にいい環境を作りたかったんだよ。紗月くんが自分なんかのために泣くのはつらいって言ってたし」
弁解の作り話のようにも思うけど、心情的には辻褄が合っている。最後までできなかったときに弓弦がする哀しい目が怖い、と紗月は言っていた。その哀しい目はどうやら、紗月をむさぼれなかった不満ではなく、自分への不甲斐なさによるものであるらしい。いじらしい奴ら、とため息をつきたくなるあたしに反し、来夢は深刻な表情をしている。
「紗月くん、戻ってくるよな」
「戻らなくてどこに行くのよ」
「………、死ぬとか」
「やめてよ」
「弓弦はそれが怖いんだ。死ぬ、というか、自分のそばから紗月くんを失うのが」
「迎えにきたらいいじゃない」
「拒否されたら」
「そういうの女々しいって言うのよ」
来夢はあたしを見た。くせ毛の隙間で、瞳は重かった。「お前には分かんないよ」と彼は指先のパンくずをはらう。
「かけがえのないものを失くすって、猛烈な恐怖なんだぜ。お前は、恐怖っていうのがどんなに圧倒的かも知らないんだろうな」
「喧嘩売ってる?」
「別に。確かに俺たちは女々しいよ。何でも怖がる。俺に関して言えば、もうそっけなくいられるのは死ぬことだけだ」
「例の女があんたをそういうふうにしたの?」
「俺を殺したくないなら、彼女のことは話さないでくれ。他人にはバカバカしく聞こえるだろうけど、俺は彼女を想うと死にたくなるんだ」
情熱的ね、と皮肉のひとつも投げてやりたかったけれど、ここで何か言えば首を絞められてもおかしくない何かは感じた。それに、そう言ったってただのその女への嫉妬だ。表に出さないに越したことはない。
コーヒーで気を鎮めた来夢は、「お前が俺に気があるのは分かってる」とゆっくり吐き出す。
「俺はやめておいたほうがいい」
「あたしの勝手だわ」
「俺に惹かれても、傷つくのはお前だ」
「じゃあ、その理由ぐらい教えなさいよ。理由によってはあきらめるわ。あたしだって人並みの保身はあるもの」
「聞かないほうがいい。感受性が傷つくだけだ。お前、悪い奴じゃないんだろ。紗月くんの友達だし、芽留くんいい子だし。弓弦も許してる。俺を男として求めないんなら、つきあってもいいよ」
「友達としてってこと」
「ああ」
席を立った。来夢は睫毛に縁取られた大きな目であたしの動作を追う。彼の淡白な瞳には、ちっとも心が映らない。あたしはその瞳にママ譲りの瞳を映すと、「もっと上手に振られなきゃあきらめないわ」とすっかり暗くなった空にイルミネーションが明るい通りに出ていった。
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