ゆめがたり-17

苦しい恋

 その夜は、芽留の家に泊まった。芽留の部屋で、芽留と共にあたしの弓弦に関する報告を聞いた紗月は、困惑したようにうつむいていた。
「よかったんじゃないの」と椅子にまたがる芽留は単純思考で言ったけど、「複雑よね」とあたしはベッドにもたれて隣の紗月に咲う。紗月としては、事実より心情に目がいくようだ。「弓弦の気持ちぜんぜん分かってない」と膝を抱えていた。
「邪推ばっかり。僕、弓弦のこと信じてないね」
「でも、いきなりキスシーン見ちゃ揺らぎもするんじゃない」
「ん……、弓弦、僕のこと嫌になってないかな」
「死んでるってよ。失くすんじゃないかって怖がってるって」
「今もそう思ってるかな」
「思ってるわよ」
「………、僕、弓弦のこと傷つけたんだね。被害者ぶって。弓弦が無力感に怯えるのは知ってる。キスなんて、そんなの──何でこんなに気にしちゃったんだろ」
 あたしと芽留は顔を合わせた。「明日、弓弦のとこ帰るの」と問うと紗月は顔を上げ、首をかたむけた。
「ずるずるしてたら、ほんとに捨てられちゃうわよ」
「いや、手紙に書いたんだ。僕のことまだ好きなら、誕生日に〈POOL〉に来てください、って」
「あ、そうなの」
「早く帰ったほうがいいかな」
「ん、紗月がそう決めたならそっちのほうがいいかな。ね」
 芽留を向くと、「うん」と同調される。
「紗月くん、弓弦くんに想われてる自信もなくなってたの?」
「ちょっと。僕にはできないものを、あの女の人が弓弦にしてるなら、身を引いたほうがいいかなとか」
「そお。ま、結局その女の人は何でもなかったんだね」
「みたい。手紙の内容、事実とずれちゃったな。恥ずかしい」
「ふふ、そのぶん愛情が弓弦くんに伝わったんじゃない? きっと来るよ。で、誕生日っていうと、僕、来月なんだよね。またパパに見せる脚本なさそう」
 嘆いて背凭れに顔を伏せる芽留に、あたしと紗月は咲う。「弓弦のお門違いは許すのね」と訊くと紗月はうなずいた。
「僕も自分勝手で弓弦を苦しめたし」
「そう」
「弓弦がそういうふうに気遣ってくれたのは嬉しい。そばにいてくれるだけでいいのに」
「弓弦も同じなのよ。紗月がそばにいたら、セックスなんてどうでもいいんだわ」
「うん。ねえ芽留、いつかここに、弓弦連れてきていいかな」
「ん、もちろん。弓弦くんが外出るかな」
「分かんないけど。弓弦には、ここの空気知ってほしいんだ」
 芽留はよく分からないように首肯し、あたしは以前弓弦が語っていた家庭環境を思い返す。母親は子供の頃に出ていって、父親はクズの見本で──飄々としてるけれど、彼も何かしら背負っているのだろう。捻くれてはいないし、彼はこの家の空気に何か目を開くかもしれない。
 来夢はどうだろう。あたしは彼の過去について、女が死んだという以外何も知らない。あたしは紗月のあくのない横顔を盗み見て、この子はあいつのこと知ってるかしら、と思う。
 芽留が入浴しているあいだの芽留の部屋で、あたしはその疑問を紗月にぶつけてみた。芽留の前に入浴していた紗月は、ボディソープの匂いをさせて髪が潤いを残している。フードパーカーにソフトジーンズというなりの彼は、あたしの質問に瞳をまばたかせた。
 どう答えたらいいのか迷うふうに、ベッドサイドに腰かけて曲げる膝に目を落とす。コンポの乗ったチェストに背中を預けるあたしは、「知ってるか知らないかでもいいわ」と譲歩した。
「………、よくは、知らない。どんなことがあったかは知ってる」
「教えてもらったの」
「うん。弓弦の恋人になったあと、何で恋人を失くしたんですか、って訊いたら教えてもらえた。大切な人を失くしたっていうのは前から聞いてたんだ」
「〔こもりうた〕には載ってないよね」
「うん。載せてって言われても、どう小説にしたらいいのか分からないよ。たまにそういう、きつい手紙も来るよ。そういうのは、ボツじゃなくてきちんと断る。他人が感情を測って表すべきじゃない、描写が食い違って傷つくだけだって。手紙くれるってことは、吐き出したいってことだから、載せない代わりに僕が責任持って読んで、返事出すんだけどね。来夢さんのもそういうの」
「すごいんだ」
「並みの人なら耐えられないよ。来夢さんには、並みじゃない弓弦との友情があって、それで生き延びれたんだと思う」
 友情とはそんなに強いものなのだろうか。というか、あたしは強いつながりというのを体感したことがない。いや、ママとはけっこうつながっているか。芽留も。紗月はこれからだ。
「紗月は、その女と会ったことないんだよね。失くしたって聞いてたんだし」
「僕が弓弦に出逢ったときには、跡形もなくなってた。来夢さんの心以外には。来夢さんがたどってきた道って、ひどいよ。ぎりぎりで、いつ死に堕ちてもおかしくないって感じ」
「文章書く人っぽい表現ね」と揶揄うと紗月は照れ咲いしてから、睫毛を陰らせて息をつく。
「杏里は、来夢さんのこと好きなの」
「惹かれるべきじゃないのは分かってるわ」
「本気?」
「に、なりそうで怖い。あいつに言われなくたって分かってるよ。こっちだってお友達に成り下がりたい」
「杏里は、失恋して以来、本気が怖いんだっけ」
「本気になるだけバカを見るのはあたしだって、そのときも分かってた。分かれば分かるほど、本気になってさ。同じね。学んでないのよ」
 紗月はあたしを見つめ、あたしは微笑んだ。
「紗月は、弓弦以外の男好きになったことないの」
「ん、まあ」
「純愛ね」
「そ、そうかな。僕は、誰かに惹かれて、欲しいと思えるので精一杯ってだけだよ」
「そっか。あいつも、恋愛経験ってその女ひとりだけなのかな」
 紗月は口をつぐみ、伸ばした膝をさすった。たぶん、そうなのだろう。あたしだって似たようなものだ。初恋以降はすべて本気じゃなかった。「あのね」と紗月が声をかけてくる。
「来夢さんは、自分の昔のことを夢みたいって言ってた」
「夢」
「ひどすぎて現実感がなくて、今思うと夢みたいだって。いっそ全部夢だったらよかったのにとも言ってた。でも、そう思いこむには、確かに心が痛むんだ」
 心が痛む、という感覚があたしにはよく分からない。放っていても治る風邪のような傷ならともかく、そんな癌のような心の傷なんて。あたしは傷つくには恵まれている。
「僕、杏里が来夢さんに惹かれるのは、悪くないと思うよ。来夢さんを真剣に想う女の子って、すごく大切だと思う。来夢さんがその想いに応えられるかは分かんなくても、見返りを欲しがらない本気の想いなら、来夢さんを何か変えるかもしれない」
「そうかな」
「うん。でも、来夢さんの過去はほんとにきついよ。癒して愛されようとしたら、ものすごく努力しなきゃいけない。脅しじゃなくて」
「……そんな勇気ないわ。なのに惹かれちゃう」
「ほんとに好きならできるよ。僕もそうだった。弓弦は子供の頃にすごくつらいことがあったんだ。で、手当てしようにも血で指がべたべたして、嫌になりそうな傷がある。厄介だけど、僕は弓弦が好きだから頑張ろうと思った。自分にも似たような傷があるくせに、治せるあてもないくせに、それでも弓弦を支えてあげたいって。愛してるならできるよ。だって、そういう傷には愛されることが一番効くんだもん」
 あたしは紗月と見つめあった。「強いね」と言うと、「まだ口だけだけど」と紗月は照れ咲いしてジーンズの生地をいじる。
 愛されることが一番効く。見返りは欲しがらず。そんな、本気どころか全霊かけた恋が、あたしにできるだろうか。自信はないのに、やばいと思っているのに、どうしても来夢が気にかかる。この気持ちがどうなっていくのか、あたしにも予測がつかなかった。
 その後、言うまでもなく紗月と弓弦は仲直りした。四月二十八日、紗月の誕生日、あたしと芽留に付き添われ、紗月は恐る恐る昼下がりの〈POOL〉に行った。そこでは早朝から待ちわびていたという弓弦が、待ちくたびれて最悪を予期しながらテーブルに伏せっていた。
 実樹ねえさんが悪戯心で変哲のない「いらっしゃいませ」という呼びかけをしたので、紗月が来ても弓弦は顔を上げなかった。一週間も離れていただけに、弓弦のすがたを映すだけで紗月の瞳は濡れる。かたわらに歩み寄った紗月が、「弓弦」とそっと声をかけると、弓弦ははっと顔をあげ、目を開いた。「紗月」と言ったきり言葉を失う恋人の隣に腰かけ、紗月は彼に微笑む。
 途端、弓弦は瞳を子供のようにひずませ、「来ないかと思った」と紗月を抱きしめた。「ごめん」と紗月が言うと弓弦は首を振り、謝り返す。「弓弦が僕のこと好きならいいよ」と紗月は彼を許し、軆を離した弓弦は久しぶりの恋人を見つめた。
 やっとあたしたちに気づきはしても、すぐ紗月を見つめるのに戻って、「手紙読んだよ」と言う。紗月は頬を染め、「変なことばっかり書いちゃった」とはにかむ。「嬉しかったよ」と弓弦は愛おしそうに紗月の頭を撫でる。紗月はおもはゆそうに咲い、「うん」と弓弦にもう少しくっついた。
 あたしと目配せしあった芽留は、「こういうの大団円って言うんだよ」と言った。
「紗月、芽留たちのとこで〔こもりうた〕進めた?」
 あたしと芽留を正面のカウチに落ち着かせた弓弦は、淹れなおした湯気の立つコーヒーをすすって紗月に訊いた。弓弦が贈ったミルフィーユを食べるのに苦戦していた紗月は、首を振る。
「何かあったの」
「いや、手紙が来てるから。部屋に置いてる」
「読んだの」
「読んだら紗月怒るじゃん」
 紗月は咲い、「じき出そうと思ってる」とミルフィーユを食べた。「僕もあれ食べたい」と芽留が言って、「自分ではらうならね」とあたしは請け合わない。芽留にまじまじとされて臆する紗月に、弓弦が仕方なく同じものを注文する。
「ところで、紗月くんと弓弦くんってどうするの」
「どうって」
「引っ越すとか引っ越さないとか」
「あ──どうする。俺は、そのほうがいいかと思って」
 紗月は考え、「弓弦がバスルームとか行かなきゃいけないのが嫌なら」と言う。
「俺はいいんだ。紗月はどうしたい?」
「僕、は──あの部屋がいい」
「つらくないか」
「新しいとこ行ったら、今まであの部屋で頑張ったのも消えそうだし。初めからやり直しになっちゃう。逃げずにできなかったって事実と向きあうのもいいと思う。つらいけど、無駄なつらさじゃないよ」
「……そっか」
「弓弦がそういうふうに考えてくれたのは嬉しいよ。ごめんね、僕がちゃんとできないせいで。弓弦は悪くないんだよ」
 弓弦はかぶりを振り、「紗月も悪くないんだ」と言った。紗月は曖昧に咲い、ミルフィーユをいじる。「じゃあ引っ越さないんだね」と芽留が結論を出して、弓弦はうなずいた。
「それなら、プレゼントってそのミルフィーユだけなの?」
 ウェイトレスが芽留のぶんのミルフィーユを持ってきて、「こいつとお揃いの」ともあたしはつけくわえる。弓弦は紗月を見る。
「何か欲しいのあるか」
「今日、弓弦とずっと一緒にいたい」
「ん、まあ、それは当たり前というか」
「じゃ、いつか、一緒に芽留の家に遊びにいこう」
「芽留の」
 上からはがして食べていく、という品のないことをしている芽留を弓弦は見る。「パパの未発表の映画たくさんあるよ」と芽留が言うと、「行く」と弓弦は即答した。
「って、俺が楽しんでどうすんだよ。紗月が──何かアルバムでも買ってやろうか。小説のがいいか」
「弓弦が楽しいのが一番嬉しい」
 弓弦は紗月と見つめあい、「好きなアルバムぐらい買わせて」と言った。紗月はうなずき、「弓弦のごはんも食べたい」という。「買い物して帰ろ」と弓弦は約束し、こいつ料理するのか、とあたしは面食らってしまう。紗月が料理を担当していると独断していた。
「杏里は料理下手なんだよねー」と芽留がからからとして、あたしはその頭をはたく。「そうなの」と紗月はまばたきをして、「悪かったわね」とあたしはコーヒーを飲んだ。

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