雨音に想う
それからしばらく、紗月は〔こもりうた〕の制作にかかりきりになった。弓弦の話によると、〈POOL〉に来てあたしや芽留に逢うとおしゃべりになってしまうので、部屋で頑張っているそうだ。芽留は家で紗月にならって脚本に取り組み、実樹ねえさんはお昼時でいそがしい。
その日は弓弦と並んでカウンターに着いていた。〔こもりうた〕をどう思っているかを訊いてみると、「いいんじゃない」と彼は言った。
「初めは、そんなもんこの街では嫌がられるだけだって思ったぜ。ここの人間はすでに心ぼろぼろなんで、主観のリアリティで過去語られたってうんざりするだけなんだよ。だからどうしたって。言われなくても心の痛みは我が身で知ってる。でも、紗月がしたいならってさせたら、けっこう受けて」
「何でだと思う?」
「小説に書き直すからじゃないか。完全に客観的に塗り替えて、気軽に読めるものにしちまう。あと、紗月はカウンセラー気取りで意見とか述べないだろ。ただ載せて勝手に吐き出させるだけ。書き直さずにそのまま載せたり、お悩み相談室だったりしたら拒否されてたと思うぜ。外は反対だと思うけど」
「気軽に読めるかしら」と首をかしげると、「俺たちはな」と弓弦は笑う。
「外の奴は無理だろ」
「ここの人でも気軽に読めないものを、紗月はあえて断るわけね」
「ああ。しょっちゅう来るもんじゃないみたいだぜ。そこまでひどいのは少ないっつうより、そういう奴は不特定に吐き出すなんて怖いんだろ。心を許した奴にしかさらしたくない」
来夢はあたしに、過去を話したがらない。よく考えれば、彼はあたしを気遣っているのではなく、話す強さを持てないのかもしれない。弓弦や紗月にほど、心も許していないだろう。そこをこじあけようとして──あたしってずうずうしかったんだわ、と自覚は羞恥につながる。
「どういうのが断られるのかしら」
「さあ。載せる奴さえ原文は読ませてもらえねえもん。ま、救いようがない奴じゃないか。パートナー失くすとか」
「パートナー」
「俺にとっての紗月」
弓弦は深い香りのコーヒーをすすり、「そういう相手を失くすのは死に直結するしな」と頬杖をつく。昼食のデザートのたまごタルトを食べるあたしは、「あいつにとって死んだ女はそうだったのかしら」とつぶやく。「そりゃあな」と弓弦はカップを置いた。
「弓弦は、その女に会ったことあるのよね」
「ああ。俺たちとタメで、美人だった。お前とぜんぜんタイプ違うな。男っぽくて気丈。来夢にしか弱みを見せなかった」
「あいつとどんな感じだった?」
「さっぱり、してたかな。いつも一緒なんだけど、恋人同士の甘ったるさはなくて、俺と紗月ほどべたべたしてない。友達って感じか。ま、やることはやってたぜ」
「いつ死んだの」
「俺が十五の冬──いや、春か。うん、春。ちょうど三年前だな。この頃だよ」
「五月」
「そう。紗月はあいつの経験も小説にしないだろうな。パートナー喪失だし、むごいし」
「むごい」
「生きていく極限超えてる。いや──そろそろ凡庸と化してきてるか。似たようなのたまに聞くし」
「似たようなの」
「大人が赤ん坊を捻り殺すとか」
眉を寄せた。弓弦は咲い、「普通に生きていきたければ、知らないほうがいいぜ」とコーヒーを飲み干した。昼食はこれから帰る部屋で紗月と取るそうだ。
「芽留によろしくな」と彼は行ってしまい、あたしはタルトをつついて釈然としない大息をしてしまった。
結果的には、紗月と弓弦のしばしの別居で変わったのは、来夢があたしと口をきくようになったことだった。仲直りのあとに〈POOL〉で逢ったとき、彼は純然なお友達の態度であたしに接した。口説こうにも彼は過去で壁を置き、壁を説かせようにもこちらを心遣った発言でしらばくれる。
「そういうことされるほど気になるんだけど」と言うと、「外の奴の悪いくせだな」と開き直っていた。芽留の誕生日も過ぎた梅雨入りの六月初め、あたしが手に入れた情報といえば、女の名前が“ミカ”であるのと、死の理由が自殺だったことぐらいだった。
雨はロマンティックだなんて言うけれど、それは恋愛しているときの小雨の話で、馴れあった幼なじみとの土砂降りでは鬱陶しいだけだ。「雨の轟音嫌い」と芽留は部屋にロックをかけて、あたしは上段のベッドにいる。
かかる音楽は、空気や家具の震動が分かる音量だ。芽留の気持ちは分からなくもない。屋根裏のここはたたきつけられる雨の音がやたら生々しく、子供の頃の芽留は、怯えて別室に避難していた。
「なめくじうぞうぞしてんのかなあ」と原稿用紙と格闘する芽留は恐ろしげに窓を一瞥し、「さあね」と腹這いのあたしは教科書をめくって勉強している。じめじめといらつく雨につぶされてまで遠出したくないし、紗月も〔こもりうた〕が追いこみらしいので、あたしも芽留も、最近は〈POOL〉に通うのを小休止していた。
「杏里ー」
「んー」
「寂しくなーい?」
「何がー」
「来夢くんに会えなくてー」
反応せずにいると、音楽で聞こえなかったと思ったのか、芽留は同じ言葉を繰り返す。「聞こえたわよ」とあたしは芽留の匂いがするシーツから身を起こし、ベッドの足先に這って、つくえに着く芽留を見下ろした。
「寂しくない?」
「別に」
「好きなんでしょ」
「さあね」
「僕に隠しごとするなんてひどいよ」
「あのねえ。だってあいつ、どうやってもこっち見そうにないんだもの」
「また失恋を杞憂してえ」
「杞憂じゃないわよ、あれは」
「やってみなきゃ分かんないじゃん」
「やってるわよ、じゅうぶん。ぜんぜんダメなの」
「杏里、優しくないからねえ」
「まくら落とすわよ」
「えー」
あたしはベッドの囲いに前膊をつき、「むう」と芽留は頬杖をつく。
「来夢くんは、これまでの恋と違うんでしょ」
「まあ、ね」
「だったら、今までと同じやり方じゃダメなんだよ。もっとさ、あるでしょ」
「例えば」
「軆目当てにしないとかさー、心を尊重するとかさー、愛を信じるとかさー」
「うわあ」
「振り向いてもらえないに決まってんじゃん。杏里って軽薄なんだもん。身を預けたって、いたわってくれそうにない」
「いたわるだけが愛じゃないわ」
「でも、来夢くんが求めてるのはそれなんだから、好きなら自分を犠牲にすべきだと思う」
あたしと芽留は見合った。「言うわね」とからかうと、「杏里が一生あの人を引きずるのはやだよ」と芽留はシャーペンをいじくる。あたしはうつむいた芽留の柔らかそうな髪を見つめ、「あいつは例の女しかダメなのよ」と言う。
「あきらめるの?」
「あきらめたいのに、うまくいかないから困ってるの」
「来夢くんが好きなんだね」
「分かんない。実感ないの。ただ、何か気になる」
「歌詞が思いだせないメロディのように」
「そう。何だろうなあ。いらつく」
「ほかの人、好きになったら?」
再びあたしと芽留は見合った。「名案ね」と言うと、芽留はうなずく。「ほんとにできたら苦労しないわ」とあたしはベッドの中に戻り、「もお」とおそらく芽留は頬をふくらませた。
芽留に言ったとおり、あたしは来夢に惹かれている実感がなかった。やたら気になるだけで、それで余計、この想いは真剣な恋愛感情ではなく、単なる興味のように思えて自信がない。
別に彼を欲しいと思うわけではない。恋人同士になる想像もしないし、そもそもあたしは彼にどうされたいのだろう。押し倒されたいわけでも、好きだとささやいてもらいたいわけでもなさそうだ。そうされたら気持ちいいだろうとしても、彼を前にしたとき、あたしはそうなりたいという夢想にうっとりしたりしない。
彼に何をしてほしいのか。あえていえば、心を開いてほしい。けれど、心を開いて、その先は分からない。やっぱ野次馬かなあ、と仰向けになり、雨が突き抜けてきそうな音を響かす間近の天井を見つめる。
ちょっと、感づいている。あたしは彼に本気になりかけている。肉体関係をあとまわしにするほど、心にかけた想いを持ちはじめている。
ぞっとする。あの喉がつぶれる喪失感がよみがえり、たまらなく怖くなる。あと一歩で切れそうに神経がじりじりして、いたたまれなくて、何かをする気力が浪費される。原理はよく分からなくも、来夢に本気になれば、それらが現実としてあたしに流れるのは確実だ。
うまくいくわけがない。紗月や弓弦の忠告で、よく分かっている。ダメになるのが明白な恋には、本気になるものではない。とっとと失恋するほうがマシだ。あきらめて、忘れて、ほかの軽い恋に身を浮わつかせていたほうがいい。なのに、心はバカみたいに先走って──やばいよ、と泣きたくなる。
雨音と音楽がぶつかる沈黙が置かれている。うつぶせに戻り、シャーペンを取った。物音を聞き取ったのか、「消しゴムのカス落とさないでね」と芽留が三度目の注意をしてくる。なおざりに返事し、あたしは教科書を読んでは用紙の空欄を埋める作業を続けた。
雨を縫って、芽留のでたらめな英語のラップが聴こえる。雨よりそちらに耳を澄ましたあたしは、ごちゃごちゃ思いながら、指先だけで勉強した。
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