お向かいにいるのは
すっかり暗くなった十七時過ぎ、坂道に面した十字路の角にある自宅に着く。明かりはついていない。背後の例の幼なじみの家は、明かりをもらしている。着替えたらあっち行くか、と駐車場の隣の門扉を開け、階段をのぼってポケットから鍵を取り出す。
ドアを開けると玄関は冷えこんでいて、それでも風が当たらないだけでずいぶん寒さがやわらぐ。ブーツを脱ぐと、型崩れ防止と消臭のきりんのぬいぐるみを入れた。フローリングに上がり、すぐ左手のリビングを覗く。
真っ暗で、寒くて、誰もいない。廊下の行き当たりにある階段で二階に上がると、自分の部屋の板張りのドアを開ける。
明かりをつけると、コートを脱ぎ、それをベッドに放り投げたついでにカーテンを閉めた。フローリング、窓はふたつ、本棚、チェスト、コンポとクローゼット。チェストの前にクッションが転がっているのは、そこに座って、ドレッサー代わりの鏡を覗きこむからだ。白い壁には、服やリュックがかかったり、風景写真が貼られたりしている。あたしなりに、居心地のいい部屋だ。
つくえには、学校に関するものがわずらわしく散らかっていた。明日は学校だ。やだ、とは思っても、あと二ヵ月だ。
登校拒否のように学校をサボるあたしは、学校に行くと教師に進路についてとやかく言われる。高校なんか行きたくないのだけど、行かないでどうするということもないので、あたしは逃げている。第一、勉強なんかちっともしていないこの状態で、どんな高校に受かるのだろう。
将来の理想像がない。このままでいられないのは分かっていても、このままが一番いい。自分にあてはまるものが極端に少ない。学校はダメ、勉強もダメ、人間関係もダメ──父親似なのかしら、とうんざりして髪をほどく。
オフホワイトとオレンジのパーカーにカーキのパンツ、それにフリーツのジャケットを羽織ると、鍵をつかんで部屋を出た。そして玄関で、ブーツでなくスニーカーを履くと、「いってきまあす」と沈黙に投げて家を出る。
車がぎりぎりすれちがう幅の道路を横切れば、もう到着だ。チャイムを押すと、マリカさんの応答がある。あたしだと名乗ると、毎度のことなのでもちろん招き入れてもらえた。門扉を開けて階段をのぼると、ちょうどドアを開けてくれたマリカさんと顔を合わせる。
「いらっしゃい」
「お邪魔します」
ドアをくぐると、その家庭特有の匂いがする。けれど、ここをほぼ毎日訪ねるあたしに、違和感はない。どこの家も玄関から暖まっていることはあまりなくて、「今日は冷えるわね」とマリカさんもドアを閉めて吹きこむ風を止める。
「小梢は男の人といるのかしら」
「仕事がいそがしいとは言ってましたけど」
「そう? 確か、恋人はいたわよね」
「シュンイチって人ですね」
「好きな人がそばにいるのはうらやましいわ」
「ママだって、マリカさんがうらやましいんですよ」
マリカさんはたおやかに微笑んだ。「上がって」と言われてあたしはスニーカーを脱いでふかふかの絨毯に上がる。
緩く波打つ肩までの髪、おっとりした瞳、細い眉や甘そうな唇は若々しく、とてもこの人を三十台後半に見せない。軆つきもほっそりと淑やかで、さすが元女優だ。
このマリカさんはママの親友で、世界を放浪しては気に入った土地で映画を作る、映画監督の妻だ。妊娠と結婚を機に女優を引退し、現在はここで、夫の年中の不在から家庭と息子を守っている。その息子が、あたしのひとつ年下の幼なじみというわけだ。
「芽留います?」
「部屋にいると思うわ。呼んできましょうか」
「邪魔じゃなければ。リビング行ってていいですか」
「ええ。今日は明け方からばたばたしてたから、寝てないといいけど」
芽留の部屋は屋根裏の三階で、一階から呼びかけても届かない。マリカさんは階段をのぼっていき、あたしはひと足先にリビングに踏みこんだ。
暖かく、体温がほぐれて救われていく。カウチが座卓を囲い、その奥に大きなテレビがあり、その隣の棚には本やビデオテープが並んでいる。カウチに腰かけ、背凭れに頭を反らせて脱力した。
お腹空いたな、と胃の空白を覚え、改めて実樹ねえさんに再会したのを思い返しているといると、騒がしく階段を降りる音が響いてきた。
「ちーすっ」
軆を起こしたのと同時にドアが開いて、芽留が駆け寄ってきた。「よお」と返したあたしに、グラティックトレーナーにインディゴブルーのジーンズを穿く芽留は、いつもののんびりした瞳でにっこりする。
芽留の瞳は、マリカさんに似ているけれど、眉の描きがゆったりしているせいでちょっと印象が違う。柔らかい髪や白い肌、男にしては華奢な体質はマリカさんに似ている。豪快な笑みが合う口元や常識とずれた性格は、父親のトモキさんから譲り受けている。
「どうだった?」と芽留がわくわくした面持ちであたしの隣に座ったとき、「駆け降りちゃダメって言ってるでしょう」と現れたマリカさんが芽留に眉を顰める。
「ごめんなさーい」
「はい。杏里ちゃん、ごはんは食べてきたの?」
「いえ。お昼にここで食べたっきり」
「じゃあ、杏里ちゃんのぶんも作るわね。泊まるんでしょう」
「はい」
「ママ、ココア淹れてよ」
「自分で淹れなさい」
「えー」
「塩入れようかしら」
芽留はふくれっ面になって、「杏里もいる?」とカウチを立ち上がった。うなずくと、芽留はカウチをまわってマリカさんを追いかけてキッチンに行く。
「塩のココアってどんな味かな」という芽留の声変わりの成果があがりきっていない声に、「作ってみたら」というマリカさんの伸びやかな声が続く。「杏里飲んでみない?」と言った芽留に、「飲ませたら殺す」とあたしはテーブルの新聞を取ってテレビをつける。「杏里ならやる」とつぶやいた芽留は、おとなしく甘いココアを作ってきて、「どうも」とあたしは受け取る。
「塩、入れてないでしょうね」
「命は惜しいもん」
「っそ」
「で、どうだったの。ほんとにいたの」
あたしはココアをすすり、「甘すぎ」と芽留を睨んだ。「塩よりいいじゃん」と甘党の芽留はおいしそうにココアで軆を温める。チャンネルをころころとさせるあたしに、「日曜の夕方はこれに決まってんの」と芽留は取りあげたリモコンでアニメをつけた。
「いたの? 何だっけ。マキさん」
「ミキよ」
「いた?」
「いた。会ってきた」
「わーお。ね、どうなってた。僕、その実樹さんとやらの記憶ってないんだよねえ」
「あったほうが怖いよ。あんた、まだ一歳だったでしょ」
「ママは実樹さん憶えてる?」と芽留はカウチに背を反らせて、キッチンを覗く。「ええ」とマリカさんは返し、エプロンで手をぬぐいながらこちらに顔を出す。
「杏里ちゃん、ほんとに見つけちゃったの」
「見つけちゃいました」
「元気そうだった?」
「はい」
「そう」と感慨深げなマリカさんに、「美人だった?」と芽留は割りこんでくる。
「かなり」
「その、何とかって喫茶店はどうだったの。怖い。いかがわしい。路地裏にひっそり」
「普通の喫茶店。明るい通りに面した優良物件」
「えー。まだ娼婦してた?」
「足洗ったみたい」
「じゃあさ、杏里のパパは?」
「五年前に別れたって」
「何だよお。つまんないよお」
芽留は脚をばたつかせ、ココアをがぶ飲みする。「別れてたの」とマリカさんは頬にすらりとした指をあてる。
「駆け落ちってわけじゃなかったみたいです。事情があるみたいですね。今度来いって言われました」
「小梢も心配はしてるのよね。生きてることは教えてあげたほうがいいわ」
「ですね」
マリカさんはキッチンに戻り、すっかり興味をなくした芽留はアニメに没頭している。あたしもココアをすすってそれを眺め、ふと思い出して芽留を向いた。
「ねえ芽留」
「んー」
「あたし、その喫茶店で、ゲイの男の子と遭遇しちゃった」
「えっ」と芽留はこちらに向き合う。
「そんな人、普通にいたの」
「うん。かわいい男の子でさ、あんたがこないだ読んでた本読んでた」
「へー。へー」
「でも恋人いるって」
「何だ」
「いるもんだねえ」
「ねえ。そっかあ。ふうん。いいなあ。僕も恋人欲しいなあ。かっこいいのー」
あたしは実樹ねえさんに、ゲイの友達ぐらいいる、と言ったけれど、あれは流れに合わせた嘘ではない。こいつがそれだ。というか、あたしの友達なんてこいつぐらいだ。
芽留はマリカさんにもトモキさんにも、ゲイであることを尊重されている。だいたい芽留は、ゲイだと自覚した場面からして変わっている。
「そのゲイの人とさ、お話したの。あ、ナンパしたらそう言って振られたんだあ」
「違うわよ。実樹ねえさんに教えられたの」
「ふうん。その実樹さんって人、死んでなかったんだね」
「娼婦してたってのに行きついた時点で、ある程度、それも覚悟してたけど」
「何で娼婦したのかな。ていうか、売春って犯罪じゃなかった?」
「あってないような法律よ。駆け落ちなら自業自得だよね。でも違うみたい」
「また聞かせてね」
「ネタにするの」
「つまんなくなかったらね」
芽留は脚本家志望で、トモキさんに書き上げた脚本を監督してもらうのが夢だ。年末年始にも帰ってこないトモキさんだけど、芽留とマリカさんの誕生日にほぼ確実に帰ってくる。そのとき、芽留は書きためた脚本をトモキさんに見てもらうものの、今のところお眼鏡にかなう傑作が出たことはない。息子のものとはいえ、トモキさんも惚れたものしか監督したくないらしい。トモキさんに認めてもらって越えない限り、芽留は世にも出たくないそうだ。
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