ゆめがたり-20

温かい家

 紗月たちはまだで、芽留がわがまま言ってんだろうなあとあたしはテーブルに向き直る。来夢はオムライスをスプーンにすくっていた。
「来夢」
「ん」
「あんたっていい男じゃない?」
「さあな」
「あたしみたいな女って初めてなの」
「………、お前ほどしぶといのは初めてだ」
「口説かれたことはあるんだ」
「俺にその気がないの分かったら、身い引いていったよ」
「あたしにもその気ないの?」
「ない」
「あたしのことどう想ってる?」
「友達としてなら、つきあってやってもいいのに」
 あたしは頬杖に沈み、来夢を横目で眺めた。長い睫毛、それに縁取られた瞳にかかるくせ毛、染みもない白い頬、柔らかな顎の線にほっそりした首──
 綺麗だなあ、と思う。真っ先にあったのはその麗容だけど、今は違う。その容姿も好きだけれど、そればかりではない。こう彼をそばに意識してみても、やはりつながる欲望は情交ではない。発情したときめきより、彼と時間を割いていることに喜びがある。
 つまりあたしは、彼の中身とか性格に心を奪われているのだ。本気っぽいわ、とあたしは泣きそうに蒼ざめ、「何だよ」と彼はやや疎ましげに睨みつけてくる。
「あのさ、正直な話、あたしも同じ気持ちなのよね」
「は?」
「あたし、あんたのこと好きになりたくないの」
「じゃあなるなよ」
「できるもんならそうしてるわ。あんたって面倒そうだし厄介そうだし、本気になったとこでないがしろにされて、あたしばっかり傷つきそうじゃない」
「まさしく」
「頭では、友達でいいのよ。心では何か気になるの。あたしだって本気の恋なんかしたくないわ。初恋でたくさんだもん」
「………、」
「口説いてるんじゃないよ。あんた、惹かれたくないならその魅力どうかしなさいよ。あたしだって、あんたに惹かれるのはいい迷惑だわ」
「魅力は俺の商売道具なんだよ」
 あたしと来夢は見合った。あたしは息をつき、来夢はチキンライスが隠れたオムライスを飲みこむ。
「何でこんなに気になるのかな。恋じゃなかったらいいけど。違うよね。あたし、あんたのこと好きなんだわ。最低」
 来夢はスプーンを皿の上で躊躇わせ、「本気ならもっと重いよ」とケチャップをつぶす。
「俺はお前の気持ちがどんなに真摯で純粋でも、踏みつけることしかできない。応えられないんだ」
「そうね」
「俺のことが好きなのか」
「みたい」
「俺なんかのどこがいいんだ」
「同感」
「やめとけよ。お前には、ほかにいい男がいる。見つかるよ。俺はどうせミカのものなんだぜ」
 あたしは死んでもういない女に勝てないのか。言ってやりたかったけど、嫉妬の負け惜しみだし、何となく彼の心を傷つけそうだったのでやめておいた。
 アイスコーヒーをすすり、まだ明るい外を確かめる。芽留も紗月も、弓弦も来ない。
 弓弦は、親友が過去の女を引きずっているのをどう想っているのだろう。女はともかく、そこにある傷口をえぐるのを回避するのは尊重していた。来夢にとって、新しい恋は傷をえぐることになるのだろうか。
 紗月は弓弦に傷があると言っていた。子供の頃につらいことがあって、血で指がべたついて嫌になるような傷があると。紗月は弓弦が好きで、愛ゆえにその愛でそれを癒そうと思った。
 あたしは来夢を癒したいだろうか。目先に走っている気もする。けれどそれ以上に、来夢には過去を癒す気がない気もする。彼は生身の現実を歩いていくより、過去という赤い沼を泳いでいるほうがいいのだ。
 彼に癒す気があれば、あたしは手を貸したいと思う。でも、きっと手をさしのべるだけ無視されるのだろう。女も深みには寄りつかないよな、と得心する。来夢に惹かれるには責任がいる、と弓弦は言った。
 この男に本気で惹かれるのは、いわゆる物好きだ。あたしは酔狂と化しつつあるのか。やだ、と思っても、こちらに怪訝そうな目をする彼にどうしても心を切断できない。
「弓弦はどう思ってるのかしら」
「え」
「あんたがミカとやらに執着してるの」
「………、よくは思ってないだろ。俺がほかの女に目を向ける気力がないのも理解はしてる。新しい恋愛をしないまでも、ミカに男としての権利をすべて捧げてるのはどうかって、そんなとこじゃないか」
「弓弦に言われても、彼女が好きなの」
「言われはしないよ。あいつまじめだし、そのぐらい思ってるとは思う。言わないのは、理屈こねても責任取れる自信がないのかもな。自己投影できる紗月くんもいるし」
「弓弦のこと、よく分かってるのね」
「弓弦がいて、俺はミカが死んでも死ななかったんだ。弓弦は俺の生きてる理由だよ」
 すごい友情だな、と思う。来夢と弓弦を見てきて友達が欲しかった、と言った紗月にもうなずける。友情にもこんな強い結びつきが生まれるのだ。
 それでもあたしは、こいつと友達でもいいとは思えない。友達になろうとすれば、彼の傷に甘んじたという所感がまといつく。少し瞳を入り組ませて朝食を食す来夢に、「弓弦がいてよかったと思う?」と問うてみる。
「は? 当たり前じゃん」
「弓弦がいなかったら、あんた、死ねてたのよ」
「………、」
「弓弦に感謝するってことは、生きたいって欲望が多少はあるってことなのよ。その女を過去にする気力もね。まさか、感謝しなきゃ義理が立たないとかであいつを必要としてるわけじゃないでしょ」
 来夢はあたしを見て、何も言えないようにコーヒーを飲んだ。「口説き文句じゃないからね」と言っておくと、「分かってるよ」と彼はカップを置いてスプーンを持ち直す。あたしは笑って、通りがかった実樹ねえさんにコーヒーのおかわりを頼んだ。
 夕暮れが深まって人通りが増えてきた十八時前、来夢が出ていったのと入れ違いに芽留と紗月が帰ってきた。来夢を想って複雑になっていたあたしは、「涼しーっ」というのんきな芽留の声にちょっと救われる。
 なぜかうちわを手にする芽留は、汗の伝うこめかみをあおいでいつもの席にもぐりこむ。ほかのテーブルに着く客に声をかけられた紗月は、彼らに〔こもりうた〕を渡したあとに芽留の正面に腰かけた。だいぶ仕事したみたいね、と思っていると、カウンターの実樹ねえさんにアイスココアとアイスミルクティーを渡され、あたしはそれを連れてテーブルに移る。
「わあい」と飛びついた芽留の隣に座り、「こいつ迷惑かけなかった?」とあたしは紗月に訊く。紗月はうなずき、「ひとりでまわるより楽しかった」と笑顔で言う。よく晴れたその笑顔を信じたあたしは、「これどうしたのよ」と芽留のうちわを取り上げる。「もらったの」と一気にグラスの半分を飲んだ芽留は説く。
「けっこうこの街、怖くないんだね。いい人ばっかりだったよ。割引券とかたくさんもらっちゃった」
「動物は観衆受けするものね」
「脚本家目指してるって話したら、針金で作った鉛筆立てくれたの。紗月くんはブリキのペンケースもらったんだよね」
「紗月、こいつほんとに荷物じゃなかった?」
「うん。芽留が行きたいって言って、今まで行かなかったとことか行けて、いつもよりたくさんの人に渡せた。行ったことないとこでも、見たことあるって人がいて、それはちょっと恥ずかしかったけど嬉しかった」
「そう。こいつのわがままも、たまには役に立つのね」
 芽留はうちわを取り返して、「杏里はここでひとりだったから僕を妬んでるんでしょ」と頬をふくらます。あたしは鼻で笑い、「あんたがいなかったおかげで来夢とふたりで話せたわ」と言い返す。
「えー。いつ来たの。僕、ずっと逢ってないよ。告白した?」
「振られた」
「もお。まじめに告白しないからだよ」
「真っ向から言ったって、真っ向から切られるだけよ」
「ねえ、杏里。弓弦は来なかった?」
「え、弓弦──は、うん。来なかったよ」
「そっか」と息をつく紗月に、あたしは笑ってしまう。すれちがわなかったことにほっとしたみたいだ。紗月はあたしの反応に頬を染め、ミルクティーのストローに口をつける。
 クーラーと飲み物で芽留と紗月が疲れを軽くすると、本日は解散となった。紗月は実樹ねえさんに夕食のお弁当をもらう。弓弦がいなければ、部屋にはジャンクフードしかないので、よくもらうのだそうだ。代金はつけで、弓弦がはらうと言う。
「かわいがられてるのね」と別れ道まで喧騒を縫って並行しながら言うと、紗月ははにかんで咲っていた。「暑ーい」と日中よりはのんびりと言う芽留は、うちわでみずからをやすんじている。
 紗月と別れて街を出た頃に、空は夜に横たわりはじめた。それでも昼にしっかり熱されたアスファルトの反射で、空気はむっとして、汗もべとつく。帰ったらシャワー浴びなきゃな、とあたしはもつれた髪を指でほどいた。
「今日ママに話すこといっぱいある」と嬉々とする芽留を、人間でぐっちゃりする駅に引っ張りこみ、あたしたちは混雑した電車につぶされていつもの街に帰宅した。
 夏休みに突入した七月の末には、用事で外に出た紗月と弓弦が、芽留の家に来たりした。元女優のマリカさんはトモキさんの処女作に出演しているので、「あっ」とマリカさんと顔を合わせた弓弦は声を上げていた。
 五年以上芽留の友達なんてあたし以外見なかったマリカさんは、先日の紗月に引き続いた出来事にかなり感動していた。「芽留ならいい友達がたくさん持てると思ってたわ」と芽留の頭を撫で、芽留は得意気にうなずく。
「トモキに連絡しなきゃ」
「え、連絡つくの」
「さあ。三週間音沙汰ないわね。あのアマゾンみたいなはがきが最後だわ」
「また鰐に食べられそうになって腰抜かしてんじゃない」
「熱帯には二度と行かないって言ってたわよ」
 芽留とマリカさんのずれた会話はあたしは慣れていても、紗月と弓弦は仲良くまばたきをしていた。「あんな家族って存在するんだな」と弓弦は恋人にささやき、「僕も思った」と紗月は返す。
 弓弦はトモキさんの未発表の映画を観始め、隣の紗月は過激な場面のたび目のやりどころに困っていた。髪を撫でたりで弓弦はその紗月をなだめ、「芽留にもいつかああいう男の子ができるのね」とマリカさんは感慨深そうにする。「できたらママに一番に紹介するよ」とカウチで小説を読むあたしの隣の芽留は約束し、マリカさんとにっこりしあっていた。
 家庭に恵まれなかったらしい弓弦は、マリカさんが振るまった夕食にわずかに放心していた。紗月以上にこの空気が信じられないようで、彼の家庭はそうとう絶望がはびこっていたようだ。十三であんな街に家出するんだもんなあ、とあたしは視線を放ってイカの天ぷらをかじる。来夢の家庭もよくなさそうだった。〔こもりうた〕を想い、虐待とかされてたのかしらと思ってしまう。まさかね、と言い切れないのがあの街に生息していることの怖いところだ。
 来夢を想っていると、芽留にえびを取られてしまった。ムカついたので、先日カスタードパフェをおごってやったのをあたしはマリカさんに言う。「まあ」とマリカさんは芽留を見て、「来月のおこづかいからさしひいて返すわね」と愛する息子を蒼ざめさせていた。そのやりとりに紗月は咲い、弓弦も何かがやわらいだように咲っていた。
「すごいな」
 芽留の部屋にも行った弓弦は、腰をかがめて天窓に望める月と星を仰いで言っていた。
「俺、家族とか家庭はくそくらえだって思ってた。そんなもん、血のつながりでつきあい強制されてる寄せ集めだって。こういう家もあるんだな。ていうか、こういうのが本来の家庭なんだよな。すごいよ」
 帰り際の玄関先では、「また来ていい?」と芽留に訊いて、「もちろん」と芽留は咲っていた。「紗月くんもね」と芽留はつけくわえ、靴を履いていた紗月はうなずく。「じゃあ」と手を取り合って帰ったふたりを見送り、あたしと芽留は顔を合わせる。
「弓弦くんって、おうちつらかったんだよね」
「どんなふうにつらかったかはよく知らないけど」
「僕んちみたいなの、痛くなかったかな」
「かもね。でも、ここの空気って知って損はないものだと思うわ」
 芽留はあたしを見て、あたしは微笑む。考えた芽留は、「うん」とちょっと誇らしげに咲い、「そうだよね」と噛みしめるように言った。

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