ゆめがたり-23

心の傷が流すもの

 芽留の頭のそばには、ノートとシャーペン、消しゴムが転がっている。あたしはそのかたわらに腰をおろした。
「ここんとこ、ずっと悩んでたわね」
「うん。来たの。書きたいって思うの。こういうとき書くと、パパにあとひと息って言ってもらえるのが書けるの」
「書けばいいじゃない」
「書いていいか分かんないの」
「何それ」
「書いたらダメかもしれない」
「やばいテーマなの」
 芽留は唸ってデッキに顔をうずめ、木と木の隙間に下を見た。「涼しそー」というつぶやきに、「虫もそこで涼んでるでしょうね」と言うと芽留は悲鳴をあげて飛び起きる。そしてあたしと顔を合わせ、らしくない吐息をついた。
「何なのよ」
「書きたい」
「書けよ」
「今逃したら、もう半年ぐらいこんなん来ないの。神様が書けって言ってるの」
「書いてみればいいじゃない。どうせ発表できるって決まったわけじゃないでしょ。怖かったらトモキさんに見せなきゃいいし」
「そんなんじゃないの。書きたいの。すごく、書きたいけど」
「………、うまく書けるか分からない」
「そおっ。僕が書いていいのかも分かんない。書く資格なさそう」
「資格」
「僕、幸せなんだよね。そんなんが書いても嘘臭くなっちゃいそうで。あと、僕のものじゃないし」
「盗作はやめといたほうがいいよ」
「盗作じゃないよっ。盗作──盗作かなあ」
 芽留はノートをたぐりよせ、表紙に落書きをした。変な猫だ。と思ったら、犬なのだそうだ。「盗作なの?」と訊くと芽留は首をかたむけ、日光が一瞬その髪を金色に透かす。
「紗月くんたち、いるでしょ」
「うん」
「紗月くんとか弓弦くんとか、〔こもりうた〕とか。来夢くんとか。苦しいことあるんでしょ」
「うん」
「そういう、人たちの話なの。心の傷、みたいな。でも分かんない。書けないよ。心の傷なんてどんな感じなのかも分かんない。こないだ、紗月くんここに来たじゃない。で、すごく落ちこんで悪いことばっか考えてた。悲観的すぎるって思わなかった?」
「まあ、ね。弓弦が紗月を愛してるのなんて瞭然なのに」
「僕もそう思った。だけど、心の傷ってそんなふうに、健康な人には焦れったく思わせるほど、弱くなることなんだよね」
 芽留は落書きを消しゴムで消した。ガラス戸を振り返ると、カーテンの隙間でマリカさんがキッチンに立っているのが見える。
「弓弦くんは、僕とママ見て泣きそうにびっくりしてた。来夢くんは〔こもりうた〕読んで笑ったんでしょ。みんな、日常の自然なものが僕には分かんない感覚でできてる。極端というか、おかしいというか。壊れて、独学で作りなおしたからだと思うけど」
「……そうね」
「僕の心は壊れてない。パパとママがいっぱい愛情くれて、それに守られて、僕もそれを信じて受け入れて、まあいい感じなんだ。愛されてるのが嫌ってわけじゃないよ。でも愛されてきたから、そういう、孤独とか絶望っていうのに表現力が働かない。仮に痛みが分かったって、それをどう視聴効果で表せばいいか、またきっと分かんない。内的すぎてむずかしいんだ。無理にやったって単調になりそうだし、単調なんて痛みの混乱には一番遠いものだろうし。どうしよう。どうしたらいいのかな」
 芸術家的苦悩だな、と腕に止まりかけた蚊をはらう。日焼け止めクリームの努力もあえなく、今年もしっかり焼けてしまった。引きこもりがちの芽留は毎年夏が過ぎても白かったが、今年はわりと焼けている。
 芽留はノートを置いて膝を抱え、軆を揺する。
「書かないほうがいいかな」
「書きたいなら書いたほうがいいんじゃない」
「でも」
「紗月たちに、話聞かせてもらったら? 紗月はあんたになら話すんじゃないかしら。あたしが邪魔なら席外してるし、ここに来てもらってもいいし」
「………、うん」
「できあがってない作品さらすの、つらい?」
「ん、うん。それもある。あのね、盗作って言ったでしょ」
「うん」
「僕が書きたいのって、紗月くんのことなんだ。紗月くんを主人公にした話が書きたい」
「紗月の」としばたくと、芽留は真剣な瞳でうなずく。
「ゲイで、男に性的虐待されてさ。すっごくむずかしいことを、弓弦くんと出逢ってゆっくり切り抜けていってるわけでしょ。かっこいいなあって思ったの。ゲイの人にも、性的虐待されてる人にも、勇気とかあげられるんじゃないかって」
「そっか」
「でも、それって紗月くんのものでしょ。紗月くんのこと勝手にさらすなんてできないよ。紗月くんの気持ちを僕が勝手に書くってのもひどいし。で、どうしようって」
「紗月に承諾もらえば」
「嫌って言われるに決まってんじゃん」
「じゃあ書くなよ」
「書きたいよお」
「じゃあ、ダメ元で訊けば」
「うう」と芽留がうめいたところで、「ごはんできたわよ」とガラス戸を開けてマリカさんが顔を出した。クーラーのひんやりした空気が肌にすりよって、空腹よりそちらに惹かれたあたしは、「もらいます」と立ち上がった。
 芽留もノートを取って中に這いずり、あたしは一度庭におりて靴を履き、改めて玄関からお邪魔する。リビングでなくダイニングで、マリカさんも入れてあたしたちは炒飯の昼食を取る。
「ねえママ」
「ん」
「ママはどうして女優さんになろうと思ったの」
 芽留の正面で炒飯をすくっていたマリカさんは、息子の不意の質問にまばたきをした。あたしも右隣の芽留を見て、マリカさんはしばらく考える。
「自分以外の人になりきるっていうのに惹かれたのかしら」
「自分以外の人」
「私は自己愛と自己嫌悪を持ち合わせてたのよ。自分を嫌って、でも消してしまうには愛おしくして、それで自分以外の人として存在しようとしたの。主体性をなくして、プライドを捨てることをプライドがあることにしたのね。ふふ、女優と売春婦はよく似てるって思ってたわ」
「ママは自分が嫌いだったの」
「そうね。男の人に振られてばかりだったの。私は追いかける女なのよ。いつも追いかけられてる小梢がうらやましかったわ」
 マリカさんはあたしに微笑み、あたしは肩をすくめる。
「ママは寂しかったんですよ。親が実樹ねえさんのことばっかり気にして、男はそれに構いたくなっただけで」
「小梢もそう言ってたわ。嫉妬ってわけじゃないのよ。私のこと好きになってくれる男の人もいたわ。すぐ終わっちゃうのよね」
「パパとは続いてるよね」
「ええ。初めは同じだったのよ。惹かれたときは、いつ終わってしまうのかしらって怖かった。彼はほとんど私のそばにいてくれなくて、でも、それがかえってよかったのよ。私は好きになるとその人と一緒に過ごしすぎるって気づいたの。時間を惜しんで執着するのね。いくらでも彼を待てたわ。彼も自分の映画を理解して、待っていてくれる女を欲しがってた。私にとって女優は心のなぐさめで、トモキができて自分を好きになれたら必要なくなったわ。他人より自分にプライドをかけようって、それで芽留ができたのを機に引退したの」
「ふむ」と芽留は炒飯を食べ、マリカさんとトモキさんの馴れ初めを初めて聞いたあたしも、なるほど、と麦茶を飲む。
「ママはパパに逢うまで、いっぱい傷ついてたんだね」
「そうね。ふふ、どうしたの。脚本の題材にするの」
「んー、ちょっとね、考えてるのがあるんだ。けど僕にはおっきくてむずかしいの。心の傷というか」
「あら、芽留にもあるじゃない」
「ないよお。傷ついても、ママとパパが治してくれるもん」
「そう言ってくれると嬉しいわ。だけど、治っても消えないものもあるのよ。たとえば、芽留は学校の先生に性指向を否定されたでしょう。心の傷の血は感情だと思うの。先生にイジメられるって言われたとき思い出すと、どう?」
「ムカつく」
「じゃあ、それは芽留の傷なのよ。たぶん、流れるものが虚しさや痛みだと、大変なことになるのね」
「ほお」と芽留は勉強になったふうに感嘆し、あたしも複雑にスプーンをふくむ。思い出すと感情が流れるものが、心の傷──とっさにあの人を想い、そうなのかな、と内心首をかしげる。
 心の傷なんてないから、来夢の心が分からない。そう思っていた。もちろん彼の傷に較べれば、あたしにあるものなんてかすり傷だろう。でも、傷は傷に変わりなくて──そこから彼を深く理解できたりするかしらと期待したくなる。
 あたしは来夢に、自分を細かく語ったことはない。話したって厭われると推しているのだけど、それが彼の心を閉ざしているのもありうる。さらさなければ、信頼するか否かも測れない。彼は、開かれた心の傷口からしか相手に踏みこめないのだ。
 弓弦も、紗月も、例の女にだって傷があった。彼が弱いところをさらしてくれる信頼から信頼を築くとしたら、あたしは彼に自分を見せないといけない。
 泣きたくなってしまう。はっきり言って嫌だ。自分をさらすなんて冗談じゃない。そうしたところで、大半が傷つくのは分かりきっている。心なんてさらすだけ徒労だ。そんなことをしたって、穴が空くまで引き裂かれるだけだ。
 あたしはそんなに打たれ強くもない。冷静になれば、自分をさらして心を預けるなんて、しないに越したことはない。でも、あいつはそういう真摯なことにしか興味をしめさない。直哉に言った通り、高級品なのだ。もし彼を知りたくて、欲しいのだとしたら──
 午後も芽留はデッキで物思いにふけっていた。あたしはそばで小説を読み、芽留の愚痴や不安を聞く。「あんたに脚本化されるなら紗月もいいって言うかもよ」と言うと、「そうかなあ」と芽留は自信なさそうに白紙のノートをぱらぱらとさせ、陽射しに息をついていた。

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