今、ここで
「俺はあのことで、自分が悪かったなんて少しも思ってない。そう思うには重すぎる」
「あんたも悪かったの」
「さあ。悪くない、と思う。弓弦とかもそう言うし。彼女とは別れたくて別れたんじゃないよ。いろんなものに引き裂かれたんだ。法律とか常識とか──現実にな」
「……そう」
「引き離されて、俺には弓弦がいたけど、彼女には何もなかった。だから死んだ。俺は彼女を守れなかった。打ちのめされて絶望に気を取られて、彼女だけじゃなくて何もかも守れなかった。あのことでのゆいいつの光なんて、弓弦に守ってもらったことぐらいだ。情けないよな。俺も悪かったのかもしれない。子供で弱かったんだ。大人に勝てなかった」
「………、」
「俺も、そうだよ。恋愛が怖いんだ。というか、愛が怖い。幸せなんか欲しくない。これ以上堕ちなくていいどん底にいるのがいいんだ。光なんかいらない」
背後を雑音をすりぬけていく。来夢は爪先でもう消えた煙草をにじる。路地裏に面したそこは暗く、来夢の表情は窺いにくかった。それでも、彼が顔をあげて、あたしを見つめてきたのは分かる。
「俺にもそうなのか」
「……え」
「本気じゃないのか」
「興味本位で、こんなの話すわけないじゃん」
「……そうか」
「本気だよ」
「何で俺なんだ」
「そんなの、あたしだって訊きたいよ。ただ、あたしがあんたに求めてるのは軆じゃない」
「俺の心なんか、触るだけ指が腐るよ。嫌なんだ。お前が嫌いってわけじゃないけど、そういう、愛とか関わってるものとは二度と接したくない。俺のことは忘れてくれ」
「できない」
「お前に俺の過去はあつかえないよ」
「過去に何があっても構わないわ。あたしは、今ここであんたが好きなのよ」
来夢はあたしを見つめた。見つめ返すと、彼は顔を伏せ、歩き出そうとする。追いかけようとすると、「この先は淫売の巣窟なんだ」と彼はあたしを止めた。
あたしは彼の細い手首をつかむ。細いけれど、女のあたしがつかむと男のものだ。「あんたが応えてくれなきゃ、もっと恋愛できなくなるわ」と言うと、来夢はあたしを見た。あたしは背伸びして、来夢に口づけた。煙草の匂いが味覚に流れた。彼は受け身で応えなかった。ただ、瞳はひどく重苦しく、顔を離すと、優しくあたしの手を手首からほどく。
「俺はお前を愛せないよ」
そしてその綺麗な手を、ジーンズのポケットに突っこんで守る。
「愛したくないんだ」
あたしは、来夢の前髪の奥に虚ろに凪いだ瞳を見た。「でも、ありがとう」と来夢は言い、あたしの頭に手を置くと背を向けた。追いかけなきゃ、と思ったときには、そのすがたは夜の混雑と彼の習性で見分けられなくなっていた。あたしは髪に触れ、「ガキあつかいかよ」と小さく毒づき、唇を噛んだ。
〈POOL〉に帰ると、芽留はまだ紗月たちと話し合っていた。あたしのすがたに声を上げた芽留に、「ゆっくり話してな」と言うと、あたしはカウンターに直行する。
カウンターにいた実樹ねえさんにコーヒーを注文すると、あたしはテーブルに伏せった。「どしたのー」と芽留が不安げに声をかけてきて、あたしはだるく身を起こしてテーブルを振り返る。紗月と弓弦もこちらを見ていて、「男には分かんねえよ」とあたしはそっぽを向いた。
背中に面食らうような空気がしたあと、しばらく置いて、話し合いが再開される。あたしはそれを漠然と聞きながら十九時が近いのを確認し、「どうぞ」と実樹ねえさんがさしだしたコーヒーを受け取った。
「失恋してきたのね」
「……分かる?」
「分かるわ」
「………、愛したくないから愛せない、でもありがとう、だってさ」
実樹ねえさんは笑い、「傷つけないようにされるほうが傷つくわよね」と言う。「ほんと」とあたしはコーヒーに砂糖を落としてスプーンでかきまぜる。
「実樹ねえさんも、失恋ぐらいしたことあるよね」
「一回だけね」
「すごい。今いるの」
「いないわ。私は恋愛ができないのよ。するヒマがなくて、そのままコツをつかみそこねたのね」
そこで来客があり、実樹ねえさんはその客の注文を伝えにいったん奥に行ってしまう。するヒマがなくて。あたしの父親のせいか、と頬杖をつく。
紗月はまだ脚本化を承諾していないらしく、芽留はやんわり友人を口説いている。
弓弦の前のフレンチトーストの皿はなくなっていた。あたしを眺める弓弦は、事の次第を察しているようだ。鋭すぎるのも考えものだな、とコーヒーを飲んでいると、ウェイトレスに飲み物を渡した実樹ねえさんがあたしの前に戻ってくる。
「ねえ、杏里」
「ん」
「あなたの父親は憶病な男だったわ」
「……うん」
「ねえさんと同じように、彼もねえさんと結婚する気なんてなかった。なのにねえさんはあなたを生んで、彼は娘をだしに結婚を迫られるんじゃないかって怯えて、ねえさんの元を逃げ出したのよ」
「そうなの」
「ええ。杏里を出産したことでねえさんの真意が読めなくなった彼は、その頃から私に触れてくるようになった。怖かったわ。私はねえさんのように開放的じゃなかったし──だからこそ、彼は手を出したんでしょうけど。私は彼に、あの場所にいるのが息苦しいのを深い意味もなく話したわ。そうしたら、彼が一緒に出ていこうって。断ったのよ。彼はねえさんの恋人だし、出るときは自分で出ていくって。そうしたら、彼は私をさらっていった。ひとりが怖かったのね」
実樹ねえさんのつかみどころのない瞳を、あたしは久しぶりに見る。考えてみれば、ここでの実樹ねえさんはその瞳をほとんどしない。ここで弟分たちに囲まれていると落ち着けるのだろう。
「この街に来て、彼はしばらく私を養ったけど、酒や薬に溺れていくうちに私を売って娼婦として送り出したわ。悪夢みたいだった。大したことない店だったから、客も頭がおかしいのが多くて。お酒に溺れそうになったり、薬を強要されたり、子供も堕ろしたわ。ただ客と寝るだけじゃない、見世物にもされた」
「弓弦が助けたんだっけ」
実樹ねえさんはうなずき、芽留と紗月の話し合いに口を出している弓弦を優しく見つめる。
「出逢ったとき、あの子は十三にもなってなかったわ。私は二十三だけど、ずっと老けこんでた。明らかにこの街に慣れてないあの子が、新鮮だったのかもしれない。自分へのなぐさめみたいな感じで弓弦に声をかけて、いろんなことを教えたわ。女も、この街のことも」
「もしかして、一回の失恋って」
「ふふ、あの子には内緒よ。紗月くんができたからじゃないわ。私を縛る男のことを聞いて、あの子が助けてくれたときね。あの子はどんどんこの街で立場を強くしていったわ。男のことは、知り合いの娼婦に協力を頼んで騙して、お店なんか、弓弦が顔出しただけで私と手を切っちゃって。私の気持ちが落ち着いたら、こんなお店までくれて、私が新鮮に感じた子供だった弓弦はもういなかった。それで、この子は私の慰み物じゃないって気づいて、男として見るのはやめたのよ」
弓弦を見た。実樹ねえさんも見つめて、女ふたりの視線を感じたのか彼は顔を上げてきょとんとする。「何」と言ってきた彼に、「昔話してるのよ」と実樹ねえさんは笑う。
あたしは店内を見まわし、ここは弓弦が提供したのかと驚く。思うよりあいつの権力は来ているらしい。来夢の話が思い返り、実樹ねえさんを見る。つまり弓弦は、実樹ねえさんを引き上げて居場所をあてがえば何とかなる──舐めれば治ると判別したわけだ。実際、実樹ねえさんは癒されている。怪訝そうに話し合いの輪に戻る弓弦を瞥視して、すごいんだな、とあたしはコーヒーに口をつける。
実樹ねえさんは接客にいそがしくなり、あたしは電話を借りて芽留の家に連絡を入れた。時刻は十九時半だ。芽留が脚本のことを紗月たちに話しているのと合わせ、「帰るの遅くなりそうです」と伝えると、『危ないことにならないでね』とマリカさんは寛容にしてくれた。あたしはそれを芽留に伝言してカウンターにつき、ちょうど実樹ねえさんもひと息つく。
「このまま、あきらめるの?」
「え」
「彼のこと」
「………、絶望的だし」
「頭でそう思って片づくの」
「そこが問題なんだよね」
実樹ねえさんは咲い、「弓弦のことは恋じゃなかったのかとも思うわ」と肩におりていた黒髪を後ろにやる。
「恋というには甘さがなかった。あきらめたときもあっさりしたものだった。この子は弟分と思おうと決めて、すぐにそうできた。私の弓弦への気持ちは、彼が弟で満ち足りるものだったのね。男であることに執着しなくても、そばにいればよかった。杏里は彼に、男を感じる?」
「どうだろ。セックスばっかりは考えてないよ。でも、お友達もやだ。肉体関係なんか考えもできない、芽留とみたいに馴れあうのは嫌」
「恋愛みたいね」と実樹ねえさんは苦笑し、「どうしようかな」とあたしは肩をすくめる。
「愛してもらわなくてもこっちだけ勝手に愛してるとか、そんな強いことできないだろうし。そんなの、鬱陶しさに嫌われそうだな」
「分からないわよ。彼には新しい恋愛が重要なのは誰だって思うわ。私が弓弦をあきらめたのは、彼への気持ちがその程度だったのと、彼にとって私が姉であるべきだったからよ。彼──来夢くんね、彼にとっての杏里は何なのかっていうのも大切よ。やっぱり友達かもしれないし、何年も待ち侘びたあとで応えてもらえる恋人かもしれない」
「あたし、そんなに忍耐強くないわ」
「好きならできるわよ。彼を想ってる分量だけやってみるのが大切だわ。私は恋愛する気力がないの。杏里はあるでしょう。使うのを惜しんでたらもったいないだけよ」
あたしは実樹ねえさんを見つめ、「うん」と歯切れ悪くカップに口をつけた。そこで声がかかり、実樹ねえさんは仕事に戻り、あたしはため息をつく。
テーブルを振り返ると、話し合いはなおも続いていた。「一回、時間置いて考えたら」と口を挟むと、三人はこちらを向いた。ついで顔を見交わし、そうすることになる。
考えこむ紗月と代金をはらった弓弦は手をつないで出ていき、芽留はため息をついてノートをリュックにしまう。「決裂しそう?」と訊くと芽留は肯定の下がり眉をした。
「何かね、さらすのどうこうより、公開とかなって親に見つかるのが怖いんだって。さらすのもさ、自分には弓弦くんがいるし、ほかの人と共有したくないって」
「むずかしいか」
「うん。ドキュメンタリーっぽくするのはやめるしかないかな」
「え、どういう意味」
「ゲイでそういうのされたっていうのは使わせてもらっても、僕のオリジナルストーリーを作るの。で、この場合どう思うかって紗月くんに訊けば、リアリティも出るでしょ」
「なるほど」
「今度それ言ってみよ。まあ、無理強いはしないよ。紗月くんは誰が思ってるより傷ついてるんだろうし、これで紗月くんと友達になれたのが壊れたら一番やだしね」
「そっか」とあたしは微笑み、代金をはらうと〈POOL〉を出た。
夜更けが近づくごとに狂騒していくこの街は、夕方より光景を過激にしている。口づけを交わしたり、突飛な格好をしたり、イルミネーションが点滅や回転したり。睫毛をぱちぱちとさせてそれを眺める芽留に、「ガンつけたって因縁つけられるわよ」と忠告しつつ、あたしは来夢への想いに心を暗中に逃がしながら街をあとにする。
報われない恋なのだろうか。直感している。来夢があたしに──というか、次の恋愛に目を向けることはない。
彼は絶望に足を取られすぎている。あたしに丁重に礼を言ったことで、それは分かる。あたしの来夢への想いは、彼に挫折感を痛感させ、みじめにさせるものなのかもしれない。
だとしたら、好きだからこそあきらめる、という美しい選択もありだろうか。そう、あたしは彼を好きでいていいのか分からなくなっている。自分のためにも。来夢のためにも。
