ゆめがたり-26

失恋を選べない

 数日憂鬱に悩んで、あたしはその日、芽留を置いて街に出かけた。〈POOL〉に行くかどうか分からなかった。来夢にかちあったりしたら、あんなにきっちり振られたあと、どんな顔をしたらいいのか分からない。実樹ねえさんはああ言ってくれたけれど、あきらめるのが最善なのだろうか。そんなのを思って、危なくない程度に街をあてもなくぶらつく。
 昼間の陽射しは依然として強く、服も半袖だが、街並みが閑散としているので真夏ほど不快ではなかった。風も生温い贅肉を徐々に削ぎ落とし、軽やかに澄んできている。秋や春は、じゅうぶん意識していないと気づかずに去ってしまう。
 乾いた喉に自動販売機でスポーツドリンクを買った。そのかたわらの壁にもたれてタブを抜き、晴れた天を仰ぎ、そろそろ変わりめの雨の季節だな、と中身を飲んでいたところで、あたしは直哉に再会した。
 先月逢ったときとほとんど変わらなかったが、髪が雑に短く切られ、色が黒くなっていた。「落ちこんでるじゃん」と彼はあたしと同じスポーツドリンクを買い、隣にもたれてくる。
「そう?」
「目が挑発してこない」
 笑った。直哉はスポーツドリンクを飲み、「まずい」と顔を顰める。「酒ばっかり飲んでるからよ」とあたしはスポーツ飲料特有のつかみどころのない味を飲みこむ。
「髪切ったのね」
「ん、ああ。うざったくなってさ」
「金髪やめたの」
「切ったついでに」
「次は七色にでもするの」
「茶色にしとくよ。お前に言われた通り」
「そっか。それがいいね」
 直哉はあたしを見つめた。「何」と見上げると、彼はあたしの頬に触れる。
「挑発しなかったらしなかったで、お前の目って構いたくなるな」
「………、やな女よね」
「失恋してくれたのか」
「くれた、って何」
「お前がほかの男にうつつ抜かしてるのなんか、見てたくないよ」
 ふと、来夢にほかに女が現れ、そちらには応えたらどうだろうと思う。想定するまでもない。直哉と同じだ。見ていたくない。嫉妬に支配される。
 紗月は弓弦が女と口づけを交わした一件のとき、その女が自分にはないものを弓弦に与えるなら身を引く、と手紙に書いたという。来夢に惹かれるなら、少なくともそのぐらいの、幸せを願ってあきらめるぐらいの度量はないといけないのだろうか。
「失恋したのか」
「したほうがいいかとは思ってるわ。振られたのよ。応えたくないって。恋愛恐怖症の奴なのよね」
「もったいないな」
「ほんと」
「俺の気持ち、分かる?」
「え」
「俺はお前にそんな気持ちだ。失恋したほうがいいって分かってるのに」
 あたしと直哉は見つめあった。直哉は中身がたっぷり残る缶を脇のゴミ箱に捨て、あたしにもそうさせた。そして抱きしめ、口づけてくる。
 突き放すことはできた。そうしてもいいように、直哉も力をこめなかった。でも、あたしは逆らわなかった。彼の舌や瞳に、何か、拒絶してはいけないものを感じた。
「こないだ、久しぶりに家に帰ったんだ」
 直哉はあたしのうなじに顔をうずめ、ささやいてくる。
「そしたら、誰もいなかった」
「……いつもそうなんじゃないの」
「違う。ほんとにいなかったんだ。引っ越してた」
「………、」
「俺には何の連絡も、書き置きもなしにな。もう、かあさんがどこ行っちまったのか分からない」
 直哉は、ようやくあたしをきつく抱きしめた。子供っぽく、孤独な、しがみつく力だった。
 あたしは直哉の震える肩に頬をあて、黙りこむ。彼は親に捨てられたのか。置き去りにされた。あたししかよりどころがなくなった。
 多少同情もあったけれど、どうせあたしは、片想いに貞操を誓うほど貞淑ではない。身動ぎし、あたしの首筋で泣いている直哉の頭を撫でた。
「場所変えよう」
「……え」
「立ったままって落ち着かないの」
「………、男の代わりだろ」
「抱かれたらね。大丈夫よ、あたしがあんたを抱いてやる」
 直哉はあたしを濡れた瞳に映す。あたしは彼に口づけ、「ここで逢ったのも縁だわ」と涙をはらってやる。
「どこか、いいとこない?」
 彼は鼻をすすって考え、「モーテル街が近くにある」と言った。モーテル。まあ、それなりの金は持っている。「安いとこ案内して」と言うと直哉はうなずき、あたしの手を引いた。
 行きずりじゃない男と寝るのは、久しぶりだった。ベッドがやっと置かれた粗末な部屋は、嗅覚が過敏なら前夜の客の精液の臭いも嗅ぎ取れそうだ。
 きしむベッドに直哉を仰向けにして、あたしはその浮いた鎖骨や肋骨をたどる。最後に見たときより、不健康が加速していた。薬なんかやって、食欲がないのだろう。痩せたというより、やつれたといったほうがいい。
 口の愛撫はそのまましたけど、上になって中に導くときはゴムをつけた。昔のような急激なものではなく、ゆっくり長続きするセックスで、痺れるような絶頂にたどりついた。
「あたし、あんたのものにはなれないけどさ」
「……うん」
「ほかのもっといい女が見つかるまで、都合のいい女でいてあげる」
「………、うん」
「見つかるよ。泣けること忘れなきゃね」
 直哉はあたしを抱き寄せ、あたしも彼に体温を分けた。「お前がいてよかった」と言った直哉にあたしは微笑み、来夢にそう言われたらどんなにいいかしらと思ってしまう。
 直哉はあたしの生身を感覚に取りこんでいる。あたしがどんなに言っても、来夢は振り向かない。あたしが軽薄なのも悪いけれど、あいつの捻くれ具合だって悪い。来夢の精神はひずんでいる。見ためは直哉のほうが捻くれているけど、本当に捻くれているのは、一見堅気みたいなあいつのほうだ。
 ホテルを出たときには、夕暮れが始まりかけていた。ネオンが点々とついて、人混みが増えている。腕時計を見ると、十八時前だ。夜にこのへんをうろついていれば、娼婦と思われてしまうのは予想できる。
 直哉を見送り、このまま帰ろうとしたとき、いきなり背後から結び直したポニーテールを引っ張られた。
「あいつのこと、あきらめたのか」
 頭を抑えながら振り返ると、階段の数段上から弓弦が見下ろしてきていた。あたしは眉を寄せ、自分が今出てきた彼の背後の建物がモーテルなのを確認する。弓弦は肩のリュックをかけ直すと、にやにやとしてあたしの隣に降りる。
「ここであの男とおしゃべりしただけ、ってことはないよな」
「関係ないじゃない」
「まあな。でも残念だ。あいつのこと本気かと思ってたのに」
「引っぱたきたきゃ引っぱたけば」
 肩をすくめる弓弦の脇を、ラメいりの黒いニットワンピースを着たそれっぽい女が通りかかる。「ちーす」と弓弦に声をかけられたその女は、「よお」と黒いハイヒールの足を止める。
「ラズに逢ったら、フロントに伝言あるって伝えといてくれよ」
「あたしには」
「ない」
 舌打ちしたその女は、ウェーヴのかかった長い髪を後ろにはねやり、あたしをまじまじとした。「浮気?」と彼女は弓弦に訊き、「バカ」と弓弦は三十に届いているだろう相手にタメ口を使う。
「紗月の友達だよ」
「あ、来夢にモーションかけてるって奴」
「知ってるんだ」
「有名だよ。へえ、この子。こんな建物利用してんなら無理だね。あいつをたぶらかしたかったら、こいつのハニーちゃんぐらい愛だのうぶだのに満ちあふれてないと」
 弓弦を小突いて大笑したその女は、きつい香水を残してモーテルに入っていった。あきれて息をついた弓弦は、「来夢に入れこんだ人のひとりなんだ」とあたしを向く。
「入れこむ」
「素人に淫売の技術たたきこむって意味」
「……ふうん」
「あの人の言う通りだよ」
「え」
「ちょっと振られたからってほかの男と寝るなら、お前にあいつは無理だ」
 弓弦は歩き出し、何となくあたしはその隣を追った。「これから帰るの?」と訊くと、弓弦は煙草に火をつけながらうなずく。彼が煙草を吸うのは初めて見たけど、来夢以上に似合っていた。
 通りかかる人に、弓弦はしょっちゅう声をかけられる。挨拶、立ち話、肩をとんとたたいたり──性別にも年齢層にも偏りがない。弓弦に頭を撫でられ、無邪気に咲ってすれちがっていった小学生ぐらいの男の子を見返り、ほんとに顔役なんだな、と実感する。
「さっきのところって、モーテルだったじゃない」
「ああ」
「何で、あんたがそんなとこから出てくるの」
「あそこを縄張りにしてる淫売に用があったんだ。逢えなかったんで、フロントに伝言残してきた」
「あんたの商売って、いまいち分かんない」
「すぐに裏切る奴に教えるわけにはいかねえよ」
 あたしは肩をすくめ、「顔は広いみたいね」と言う。
「そういう仕事なんだ。信頼されるために信頼しなきゃいけなくて、この街じゃ大変だよ。ま、楽しくやってる」
 直哉のようなチンピラっぽい男が弓弦に挨拶する。弓弦は傲慢でない程度に受け流し、「行きずりの奴なのか」とあたしを見た。
「何が?」
「さっきの男」
「この街で行きずりするほど、あたし強くないわ」
「知り合い?」
「中学のときのね。落ちこぼれ同士だったの。今日あいつを抱いたのは、そうしたほうがよかったからよ」
「抱いた、ですか」
「そう。可哀想だったの」
「同情」
「親に捨てられたのよ。グレて家に帰らずにいたら、親に黙って引っ越されたんだって」
「………、ありきたり」
「そうね。でも、傷ついてたわ。あいつにはあたししか帰るとこがなかったのよ」
「しょっちゅう逢ってるのか」
「別に。来夢に見られたことはあるわ。あいつ、気にも留めなくてね──あんたには悪いけど、もう分かんない。あきらめるかも」
 長い前髪と暗くなる空に見取りにくい鋭い眼で、弓弦はあたしを見る。「ごめんね」と言うと、「俺に言われてもな」と弓弦は居心地悪そうに煙草を吸う。
「あたしが迫るほど、あいつはつらいかもって思うの。恋愛ができないとか、過去が焼きついてる事実を突きつけられて」
 弓弦はまたあたしを見て、すぐに正面に向き直る。流れた煙の匂いは、来夢が吸っていたものと同じだ。
「あいつのこと、ちっとも分かんない。つかませてもらえない。あいつには意思とか欲望っていうのがない。あたしは求められてないものを与えるほど寛大な女じゃないし、絶望的な努力をはらうほど優しい女でもない。あたしばっかり悪者にしないでね。あいつだって悪いんだ」
「……まあな。でも──」
「あたしね、言ったの。あたしは今ここであんたが好きなんだから、過去は引き合いに出すなって。そう言ったら、愛したくないから愛せないって断られた。でもありがとうって。あいつ、あたしがまじめなのはよく分かってんのよ。それでも応えられなくて、あたしがこれ以上求めたら、あいつはみじめになるだけなんじゃないかしら」
 弓弦は口をつぐみ、ゴミに汚れつつある地面に視線をやる。
「好きだけどね。あたしの気持ちだけ、問題として残るの。悔しいよ、何にも教えてもらえないの。あいつはあたしに自分の過去はあつかえないって言った。あたしに話したくないのもあるんだろうけど、気遣ってるならお節介よ。そんなの、教えてもらって試さなきゃ分からないじゃない。実際受け止められなかったら、不相応を弁えてあたしも身を引くわ。何にも分かんないで、漠然とした理由で頭ごなしに拒否されるからムカつくの。あいつには、もしかしたらってものがない」
 弓弦はしばらく喧騒に沈黙し、「それは違うよ」と静かに言う。
「あいつは絶望を知り過ぎてるだけだよ。あいつは、忍耐とか嫌悪の限界を越えたことを体験してきた。あいつは強いよ。俺が知ってる人間の中で、一番強い。希望を持つには冷静なんだ。精神と感情が麻痺してて機能しない」
 弓弦の見ていて飽きない端正な横顔を見つめる。「それで納得すると思う?」というと、「しないのか」と弓弦はわずかに不愉快そうに眉を顰める。
「するわけないじゃない。あたしとあんたを同じにしないで。あたしは、あんたみたいにあいつを知らないのよ。そんなの言われたって、何がどうでそうなのか分かんない。あたしに自覚してほしかったら、あいつはその過去とやらをあたしに話すべきよ。分かんないんで、あたしも無知にずぶとくなるんだわ」
「言葉にできるものじゃないんだよ」
「あんたと紗月が言葉にしなくても分かりあえるのは、愛情が通じてるからよ。あいつとあたしは何にもつながってないの。言われなきゃ分かんないよ」
「じゃあ、お前にはあいつとの縁がなかったんだ」
「そうでしょうね。どんな女ともあいつは縁が持てないわよ。あんな状態で以心伝心望むなんて、甘ったれんのもいいとこだわ」
「本人に言える?」
「殴られるだろうな」
 弓弦は出し抜けに笑い出した。夜の騒音に周りが振り返ることはなくも、あたしは面食らい、バカにされてるのかなと一瞬猜疑する。

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