ゆめがたり-28

実らない恋ほど

 バイトに精を出しているうちに、すっかり寒くなっていた。外を出るには上着がいるし、風は涼しさから刺すような冷たさに変貌していっている。
 その日は天気が悪く、寒さもひとしおだった。空がくすんだ雲に犯されていると気重になるのは、神経質な女の性だろうか。秋に向けてママに買ってもらった白いファーコートの毛をなびかせながら、「寒い」とぶつくさする芽留と共に、あたしは〈POOL〉に逃げこむ。
 うっすら暖房のきいた店内にいた顔見知りは、紗月と実樹ねえさんだけだった。今日の紗月は、方眼紙を広げてレイアウトに集中している。「〔こもりうた〕だ」と芽留が声をかけて初めて顔を上げ、「夏以来、出してないしね」と咲う。
 あたしに気づくと、「久しぶり」とまた咲い、笑みと同じ言葉を返したあたしはカウンターに行った。「いそがしくなるの?」と芽留は紗月の正面に座り、「載せる小説はできあがってきてるよ」と紗月は定規の焦点を合わせ直す。あたしはスツールに腰かけ、「ご無沙汰です」と実樹ねえさんに挨拶した。
「またバイトのお休み?」
「ううん。終わったよ」
「彼が気にしてたわよ」
「え、あいつが」
「ひと月も見ないから。そこまでされるほどきつく振ったかって悩んでる」
「バイトのこと知らないの」
「どっちにしろ同じよ。もうここに来ないんじゃないかって弓弦に揶揄われて、ばつが悪そうにしてたわ」
 あたしはちょっといい気持ちで、「弓弦に用があるんだ」と声をひそめた。「弓弦?」と実樹ねえさんは怪訝そうにする。
「乗り換えるの」
「見こみのない恋愛は来夢でじゅうぶん。弓弦が来そうな時間って分かるかな。できれば来夢には逢わずにすむ」
「恋の相談でもするの」
「そんなとこ」
「そうね、昨日の夜中に朝ごはん食べていったから、今日の夕方に来るかもしれないわ。でも、彼にも来そうな時間帯ね。伝えておいたら、待ち合わせられるわよ」
「そこまでしなくていいけど」
「じゃあ、彼の来ない昼間に地道に待ち伏せるしかないわね。あの子の生活は、時間がめちゃくちゃなの」
 あたしは息をつき、「分かった」とおとなしく承知した。実樹ねえさんはわずかに鼻白み、「やけに素直ね」と言う。あたしは微笑み、「今年中にはケリつけたいの」とコーヒーを注文した。実樹ねえさんは追求せずに奥に行き、あたしは芽留と紗月の〔こもりうた〕に関する雑談を聞き流した。
 それから、来夢にかちあわないのを祈って弓弦を待ち、ようやく逢えたのは金曜日の夕方直前だった。紗月を迎えにきたとかで、夕食は一緒に部屋で取るという。
 芽留はいなくて、紗月は〔こもりうた〕の製作をキリのいいところまでやりたくて、都合よくあたしは弓弦と話す機会を持てた。「話があるの」と言うと、「乗り換えるなよ」と弓弦まで顔を顰め、「また引っぱたくよ」とあたしは天下の弓弦様を脅す。不思議そうな紗月はテーブルに置いて、あたしは弓弦をカウンターに連れこんだ。
「来夢がお前のことちょっと気にしてたぜ」
「ちょっとですか」
「『最近来ないな』ってつぶやいて、『まあいいけど』でおしまい」
「虚しくなるから報告はいいわ」
「あいつがそんなふうに関心持って、しかも口にするってめずらしいんだぜ」
 あたしは弓弦と顔を合わせ、ため息をつくと、時間もないので端的に話に入った。
「あいつを買いたいの」
「は?」
「来夢よ。あんた仲介してんでしょ。売ってよ」
 弓弦はとっさに理解できないようにあたしを凝視した。「十万で足りる?」と財布をちらつかすと、弓弦は「ちょっと待て」と財布をテーブルにおろさせる。
「バイトしてるとか聞いたけど、まさか」
「これ稼いでたの。自分の金で買いたかったんだ。春にあんたが紗月のために、きちんと分けて資金使ろうとしたのがやっと分かった」
「お前、基本的なこと忘れてるだろ」
「何」
「あいつは男娼だ」
「そうね」
「男娼って分かるか」
「ホモ相手の淫売」
「お前、女じゃねえか。男買いたきゃ、ホストクラブ行ってろ」
「そういう目的で買うんじゃないのぐらい分かるでしょ。これぐらいしか合わせる顔ないの。今だって、いつ来るか焦ってるわ」
「見えない」
「胸、触ってみる?」
 弓弦は臆面し、ついで眉を寄せると、何とも言えないようにコーヒーを飲んだ。あたしはそれには咲いつつ、本当に不安にざわめく心臓は持て余している。
「いつものずぶとさで会ったらいいじゃねえか」
「ずっとそうやってずるずるしたくないの。ダメならダメだってケリつけたい。あたしにも、自由の権利はあるのよ。もっといい男ができて、そっちに愛される権利はね」
「………、」
「失恋したいの。あいつの過去を買う。どうせあたしには耐えられないでしょうね。それで自覚持ってあきらめるわ」
「あいつの過去は十万じゃ足りないよ」
「じゃあ、いくら」
「あいつの過去が買いたいなら、必要なのは金じゃない。愛情だ」
「そんなん分かってるよ。だったら十万ぶんだっていいの。とにかくあいつを断ち切りたい。あたしが勝手に絡みついたのは分かってるけど、はさみがいるのよ」
 弓弦は顔を伏せ、前髪で表情を陰らせた。スツールの実樹ねえさんが、雑誌を読む手を止めてこちらを観察している。あたしがコーヒーの湯気と香りを吹いたところで、「どうしてもか」と弓弦は顔を上げる。
「何が」
「あいつをあきらめるって」
「あきらめなくていいなら好きでいたいよ。あいつ、迷惑がってるじゃない」
「迷惑に思われたら、思ってられない?」
「セックス欲しがるとかうんざり、って紗月に思われたらどう?」
 弓弦は黙り、紗月を見た。偶然聞こえたのか、紗月もこちらを振り返り、弓弦は彼と見つめあう。あたしに向き直った弓弦は、「身い引きそうだな」とつぶやく。
「でしょ。あたしはそれを塗り替えるほど強くないし、ましてこっちの邪推にすぎなくてあいつに愛されてるってことはない。あんたは愛されてると思うよ」
「ね」と紗月を向くと、紗月はすぐさまうなずく。弓弦はそれに決まり悪げに咲ったあと、あたしには真顔を向ける。
「あいつをあきらめるのか」
「あきらめてほしくないみたいね」
「当たり前だよ。俺はずっと、一番近くであいつを見てきた。あいつのそばには、誰かいるべきだと思ってる。ミカじゃないことにあいつは苦しむだろうけど、その拒否も許して包まれたら、糸口が見つかるかもしれない」
「………、悪いけど、あたしはそんなにできた女じゃないわ」
「……そっか。まあ、こういう考えが無神経なのは分かってるよ。性急すぎるのも。あいつはまだ、生きてるのでやっとなんだよな」
 あたしは弓弦の深刻な横顔を見つめた。彼の容姿は陰ると美しさが際立つ。「あいつが大事なのね」と言うと弓弦はあたしを見て、弱く微笑んだ。
「俺が強制することでもないか。確かにお前はお前だし、お前よりいい女がどっかにいるのかもしれない。そしたら、ここであいつをお前とくっつけたら、最悪のお節介だよな。お前がそう思うなら」
「ごめんね」
「いいよ。ちょっと待ってな」
 弓弦は紗月に声をかけ、自分のリュックを取ってほしいと頼んだ。紗月は手を止めてこちらに来て、「はい」と弓弦にリュックを渡す。「ありがと」と弓弦は一笑して紗月を返し、中をあさる。
「来夢はあたしが嫌いじゃないって言うわ」
「うん」
「友達としてならつきあってもいいって。失恋するっていうか、その希望に添おうと思ってるだけだよ」
 弓弦はあたしを見、「そっか」と安堵を混ぜて笑んだ。リュックからケータイを取り出した彼は、「来週の木曜の十九時空いてるか」と操作しながら訊いてくる。
「え、うん。空いてると思う」
「早いほうがいいだろ」
「何が」
「あいつを買うんだろうが」
「仲介してくれるの」
「ああ。あいつ売れっこなんで、早くてもその木曜の夜だ」
「そう。大丈夫よ」
「落ち合う時間は」
「お好きに。あ、場所はここってできるかな」
「もちろん」
「三日前に振りこむんだっけ。いくら」
「一万円」
「ぼったくり」と眉を寄せると、「良心的なほうだぜ」と弓弦は返す。
「俺に渡す金は、仲介料であり保障金だ。客にとって安全なお買い物、淫売にとって安全なお仕事」
 ケータイに手早く何か打ちこむ弓弦に、仕方ないか、と財布を広げかけると、「いいよ」と弓弦はあたしを止めた。
「お前は特別に後払いにしてやる」
「いいの」
「あいつの過去の値段なんて、俺たちが測るべきじゃないだろ。あ、時間は一時間半な。延長考えて二時間取っとくけど」
 弓弦はまたもリュックをあさり、今度はメモ帳とペンを取り出す。それに何か書きつけると、「あいつが来たら」とちぎった紙切れを実樹ねえさんに渡した。
 後ろでは紗月が片づけを始めている。外では短い夕暮れが終わって、夜に飲みこまれそうになっていて、ネオンを横目に確かめると時刻は十七時半だ。
 弓弦は紗月の隣に移動し、「夕飯、何食べたい?」と愛おしげな指先で恋人の髪を撫でる。あたしは実樹ねえさんに代金をはらって恋人たちに挨拶をすると、来夢に逢わないうち、冷えこむ街に紛れこんだ。
 週末に泊まった芽留の部屋で事を話すと、「あきらめちゃうの」と芽留は残念そうにした。「あいつのためよ」と言うと、「そうかなあ」と芽留はおもしろくなさそうにノートに向かう。
 考えれば芽留は受験生なのだが、勉強はいっさいしていない。学校はどうなのかを問うてみると、電話はよく来るのだそうだ。引き継がれることはないらしい。「ママが僕いそがしいの理解してくれてるし」と芽留は言い、あたしはうなずく。
 脚本にはまだ手をつけていなくて、構想をまとめている最中なのだそうだ。いつもより、組み立て方が丁寧だと思う。紗月のものなので、慎重になっているのだろう。
 あたしは小説を読むふりで、木曜日の午後十九時に不安を覚える。
 来夢が好きだ、と思う。相変わらず肉欲の欲望が目覚ましくないので実感は薄くても、考えごとから来夢が離れないのは事実だ。あたしにも、軆を目当てにしない愛の甲斐性があったなんて──本気の恋は自分を再確認させる。
 でも、こんな不覚な自己発見もおしまいだ。あたしは木曜日に失恋する。過去を教えてもらうにしろ、教えてもらえないにしろ、それは分かっている。何となく。あいつの過去で心から恋心を切断する。
 嫌だし、怖いし、それで友達なんて成り下がりたくなくても、彼への想いをゆがませたくなければそれしかない。新しい恋ができるかも心配だ。いよいよあたしは尻軽な恋しかできなくなるのではないか。
 ちゃんと来夢を忘れられるかも分からない。言い寄ったりはしなくなるとしても、秘かに想うというひどい状態になる気もする。木曜日が過ぎた金曜日、どう考えても自分が幸福だったり清々しかったりしないのは確かで、それが憂鬱だった。

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