煙たい未来
家族の一員みたいにマリカさんの手料理をいただくと、お風呂に入って、この家に常備してある服に着替え、あたしと芽留は上に向かった。
二階へは階段で上がっても、三階の屋根裏にははしごで上がる。三階から二階に降りるとき、芽留はよくはしごを途中で投げ出して飛び降り、マリカさんにしかられている。
三階は、少し天井が低い。右の小部屋はトモキさんの書斎で、左の広い部屋が芽留の部屋だ。ちなみに奥には階段があり、そこから屋根にも行ける。乾かしたばかりで余計髪をふわふわさせる芽留に続き、あたしは幼なじみの部屋に入った。
ログハウスっぽい造りになっている。床や壁、斜面の天井も明るい色の木が剥き出しだ。今は芽留の匂いがするけど、芽留たちがこの家に越してきた新築の八年前は、木の匂いがしていた。
本棚やクローゼット、勉強でなく創作のためのつくえがあり、ベッドは二段ベッドだ。芽留はいつも上に寝て、下はマットレスをはずして物置にしている。
CDが散らかるコンポのかたわらにはスペースがあり、雪や星が降る夜、芽留はここにふとんを敷いて寝る。天窓があるのだ。あたしが泊まれば、ここがあたしの就寝スペースだ。
暖房をつけた芽留は、原稿用紙やノートが散らかるつくえを片づけた。
「何かおもしろい話、できた?」
「ぜんぜん。断片的にはおもしろいシーン思いついても、全体的な構成にはうまく組みこめないんだよね。浮いちゃったり、それがどうしたに成り下がっちゃったり。流れがうまくできないんだ」
「流れ、ねえ」
「テーマから広げれば、核が通じるからずいぶんまとまるんだろうけど。ついシーンに走っちゃう。才能ないのかなあ」
「一応、どの話もラストにはこぎつけるんでしょ」
「そりゃね。基本だもん。途中で放り出すって登場人物に失礼だよ。その人たちの人生の一部を預からせてもらうのに」
「最後まで書けないって人もいるんじゃない」
「そうなのかなあ。でも、最後まで書けたっておもしろくなきゃ意味ないし。僕、好きになってもらおうって媚売るのやなんだ。自然と人を惹きつけるってむずかしいね」
芽留はノートや原稿用紙をまとめる。あたしは芽留の脚本を読んだことはない。自分が納得しないものを人にさらすのは嫌なのだそうだ。
あたしは奥のオーディオに歩み寄り、CDをあさる。芽留は邦楽も洋楽もロックしか聴かない。適当にかけてみたものも、ギターが思い切りゆがんでいた。「よくこんなんで耳おかしくならないわね」と隣に来た芽留に言う。
「すかっとするでしょー」
「しないよ」
「えー。がつんと来るじゃん」
「頭から離れないメロディっていらつく」
「僕は鼻唄するけどなあ」
洋楽だからどうか、芽留は歌詞はたどらず、ハミングする。
あたしは下のベッドに腰かけ、トモキさんからの世界中のおみやげを眺める。異国の本や楽器、置き物、人形、おもちゃみたいな時計や文具、お菓子に似たアクセサリー。トモキさんのおみやげは、持っていてどうする、というようなものばかりだ。でも、芽留はそういうがらくたみたいなものほど喜ぶ。読めない絵本の物語を挿し絵で想像したり、気に入った置き物は窓辺に飾ってあるし、文具は活用せずに大事に保存してある。童話作家などには、このベッドはイメージの宝庫だろう。
機関車の鉛筆立てをいじりながら、「明日学校行かなきゃいけないわ」とあたしはつぶやく。
「え」
「学校」
「まだ行くのお」
「そろそろ行かなきゃ、家庭訪問されちゃう」
「僕んとこもにね、おととい電話が来たよ」
「出た?」
「ママがね。三年生になったら理解してる先生を担任にするって。先生が分かってたってねえ」
芽留はリズムに乗って軆を揺すり、あたしは機関車をベッドに走らす。芽留は十歳のときから、両親の勧めで登校拒否をしている。同性愛者だからという理不尽な理由で、無意味に中傷を受けないためだ。
小学四年生の春、芽留は学校の性教育で男と女について習った。その前から男にときめく自分の本能に感づいていた芽留は、同性同士というかたちが授業で行なわれなかったのにとまどい、マリカさんに相談した。マリカさんは賢かった。芽留にきちんと同性愛を教えた。五月の芽留の誕生日に帰ってきたトモキさんも、同じく誇りを見失わないよう励ました。
家族会議の結果、押し殺すのは心に悪影響だと、芽留はマリカさんに付き添われて担任教師にカミングアウトした。この担任教師は賢くなかった。生徒たちには隠したほうがいい、イジメになると言ったのだ。芽留よりマリカさんが怒って、トモキさんも異国から同意し、そのときから芽留は登校拒否をしている。
逃げているだけだと言う人もいるかもしれない。けれど、現在の世間の様子を見ていると、同性愛者には逃げこめる場所があるだけで大きな救いだ。だいたい、家族に飛びこんだのだから、いまどき希少に健康でもある。
芽留は高校に行く気もない。たぶん、せっせと書いている脚本でも、同性愛をあつかっているのだろう。まだむずかしい問題なので、それで芽留も作品をうまくまとめられないのだと思う。今は逃げているとしても、いつか芽留は、映画でゲイとして社会と闘う気でいる。
暖房が広がった室内に芽留は音楽を止め、「杏里ってどうするの?」とこちらに這ってくる。首をかたむけると、「中学終わっちゃうでしょ」と芽留はベッドに肘をつく。
「高校に行くの」
「行きたくないけど。勉強もぜんぜんしてないし」
「行かないんだ」
「分かんない」
「小梢さんは何て言ってるの」
「勝手にしろって。ママは高校行ったんだよね」
「男の子のためでしょー」
「まあね」
「杏里の将来の夢って、聞いたことないね」
「んなのないよ。ほんと、何してんだろ。怖いな。芽留みたいに行き先をはっきりさせられてるってうらやましい」
芽留はあたしを見つめ、「でも保証はないもん」と膝を抱える。
「学校出ればなれるってものでもないでしょ」
「まあね」
「一番大事なのは、自分なんだよね。もし僕がつまんない奴だったら、表現者の資格はないってこと」
「あんた、おもしろいよ」
「そお?」
「変だもん」
「へへ」と芽留は嬉しそうに咲い、脚を伸ばした。あたしは機関車を宝箱のような箱の上に置き、床に降りて芽留の隣に座る。
「あんたの映画、観たいって思うよ」
「ほんと」
「うん。あんたならいけそうな気がする」
芽留ははにかんで含笑して、「頑張る」と言った。あたしも咲い、けれど、自分を思うと憂鬱になった。本当に、どうしているのだろう。高校に行かなかったら。働くか。あたし協調性ないしなあ、と膝に頬杖をつく。
「実樹ねえさんを捜してたのは、現実逃避だったんだ」
「言ってたね」
「どんどん大人が近くなって、現実が迫ってきてさ。のんきでいられなくなって、その直視から逃げてた。見つからなければよかった。突き当たっちゃったんだ。別にそこに、新しいドアがあったわけでもなかった」
「……うん」
「あたし、明日からどうしよう。何にもすることない」
芽留は正面に視線を放って、「無関心は怖いよね」とつぶやく。
「自分が空っぽみたいで」
「うん。高校行けば、何か別のことあるかな」
「ないとは言い切れないよ。高校ってそういう場所だし。社会に出る前のじっくり考える猶予というか。僕は映画やりたいんで、高校はいらないんだ。猶予より突き進むのが大事なの」
「そっか」
「高校って、人生考えるゆとりのはずだったんだ。いつのまにか、学歴のノルマになっちゃったけど。したいこと見つからないなら、高校行くのもいいかもね。未来をゆっくり考える。成績は、留年とか退学しない程度にやっときゃいいんだ」
あたしは微笑み、「いい視点ね」と言った。芽留は照れ咲い、「よく分かんないけど」とつけくわえる。「そういうのもあるって考えてみるよ」と言うと芽留はうなずき、にっこりとした。
その夜はすごく寒かったけど、雪は降らず、芽留はベッドに上がって、あたしはひとりで天窓の下にふとんを敷いた。空中を通してしばらく雑談していたけれど、芽留が眠って、部屋には不穏な風音が残った。マリカさんが、芽留は明け方からばたばたしていたとは言っていた。
あたしは体温が頼りのふとんの中で、月も覗けない空を暗い天窓から見ている。
あたしが父親に捨てられたのは、二歳の秋だ。ママは二十二で、デザイナーの見習いだった。初めから父親とは暮らしていなかったし、認知もなかった。ママが仕事でいそがしいときも、あたしは父親でなくママの実家か、マリカさんに預けられた。マリカさんに預けられたときは、あたしは一歳になった芽留を意地悪な姉のように揶揄うのに夢中だった。
実家に預けられたときは、おじいちゃんにもおばあちゃんにも甘やかされ、血筋上は叔母にあたる中学三年生のママの妹にも遊んでもらった。それが、実樹ねえさんだ。当時は実樹おねえちゃんと呼んでいたけれど。
その頃から実樹ねえさんは大人びた美少女だった。しょっちゅう男からプレゼントを贈られ、手紙や呼び出しを受けていた。だけど、実樹ねえさんはどんな男にもなびかず、ひとりだった。
気候が冬にかたむいた秋の日、実樹ねえさんは学校に行ったまま二度と帰ってこなかった。そして、同じ日にはたちだったあたしの父親も消えた。連れ立つ背中を誰かが見たわけではなくも、共に消えたのは明らかだった。
臆測が飛び交った。みんな駆け落ちだと信じていた。あたしも半分、そう思っていた。でもどこかでは、物静かに寂しげだった実樹ねえさんの行動とは思えなかった。おじいちゃんとおばあちゃんは困却し、とうとう現在、おばあちゃんは軆を壊している。
ママは最後まで、自分の感情を外に出さなかった。あたしを抱きしめ、考えこんでいた。ママは実樹ねえさんを憎んでいないと思う。憎めば簡単だったのに、ママは事実を失恋の一形態として受け入れ、埋葬した。
あたしの父親については何も言わなくても、実樹ねえさんについては酔うと口にする。「会いたい?」と問うと、「咲えるか分からないからいいわ」とママはストレートで酒をあおる。渦中にいた人は今も心に何か残していても、騒げるだけ騒いだ周りはすべて忘れていた。
あたしは私生児として偏見の中で育った。ママは仕事をするかたわら恋を捨てなかったので、あたしはこれまで、たくさんママの恋人を見てきた。年下だったり年上だったり、妻子持ちだったり学生だったり──あたしは、みんな名前で呼ぶ。どうせ、パパと呼ぶにはめまぐるしい。
ここに越してきたばかりの頃、どこでそんな言葉を憶えたのか、「淫乱の娘」と同級生に言われた。あたしはその頃からプライドが高く、何を言われても澄ましていた。虚栄心かもしれなくも、嫌いな人間に弱みをさらすのは嫌なのだ。今のところあたしの精神を直観する同世代は芽留だけで、彼にしか心を許していない。
初恋は十二歳だった。小学生のときだ。処女も失くした。生理は始まっていたから避妊もした。その人を十三になった夏に失ったあと、あたしはヒマつぶしの実樹ねえさん捜しを始めた。
手がかりはないし、実樹ねえさんの顔も憶えてないし、見つかるわけがないと思っていた。そもそもあたしは、捜索を言い訳に学校に行きたくなかっただけなのだ。出かけた先で男と愛し合い、捜索を中断もした。そんな中の男に、いかがわしい家出なら天鈴町を探るべきだと教わり、あの街に行きついた。
あの街は、小さい頃にママに連れられて出入りしたことがあった。今日行ったあたりでなく、北区だ。そこに偏在しているブランド店に、ママは自分のデザインを売りこみにいっていた。街の空気を知るあたしは、普通の人間より怯えず歩きまわれた。
実樹ねえさんの消息をつかんだのは、実樹ねえさんにも言った通り、実樹ねえさんの昔の客に遭遇したからだ。艶やかな黒髪や挑発的な瞳、瑞々しい唇という実樹ねえさんに通じるあたしに、男が懐かしさで声をかけてきた。そうしてあたしは、達成不能と思われたこのゲームをクリアしてしまった。
受験は逃げ切りたかった。今は一月の中旬で、三学期が始まって一週間だ。こんなときに学校に舞い戻らなくてはならなくなるなんて、ついていない。
実状としては、こんな状態ではどんな高校にも受かりっこない。ママは進学をとやかく言わないけれど、あたしをいつまでも甘やかす気はない。寄生虫になろうとしたら、たたきだすだろう。
進学以外でもいいから、中学を卒業したら、何をするか決めないと──吐きそうな憂鬱に胸をもやつかせ、あたしは睫毛を伏せて微睡みに隠れた。
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