まだ好きなのに
数日、部屋でぐったりしていた。食欲もなくて、一日の九割を横たわって無駄に過ごした。
三日目にはこの家の合鍵を持つ芽留が来て、「生きてるー?」とあたしの眼前で手を振った。「死んでる」とうつぶせになると、「もお」とそれから芽留が世話を焼いてくれるようになった。マリカさんが作ったお弁当を食べさせようとし、洗濯物を家に持っていって、ばたばたと掃除をする。
「脚本いいの?」と一週間ぐらい経ってやっと訊くと、「脚本よりこっちのが今しなきゃいけないことでしょ」と芽留はカーテンを開けてあたしに光に当てた。あたしは久しぶりに咲って、「ごめんね」とまくらに頬を埋める。
「来夢くんに失恋したんだね」
「うん」
「昔のこと聞いたの?」
「聞いた」
「すごかった」
「ひどかった」
「責任取れないと思ったの」
「うん。でも、頭でそう思ってもダメね。やっぱり、気持ちって心のものなんだ。好きは好き」
「そお」と芽留はベッドサイドに腰かけ、あたしの髪を撫でる。「もうあの店行けないかも」ともらすと、「えーっ」と芽留は抗議した。
「あんた、ひとりで行けるでしょ」
「そおだけどー」
「今のあんたには、あたしがいなくても紗月がいるじゃない」
「杏里は杏里で、いなくなったら寂しいよ。いつかは行こうよ。僕も一緒に行くからさ」
「………、そうね」
「紗月くんに迎えにきてもらってもいいし」
あたしは咲い、「いつかね」と頼りなく約束した。芽留はにっこりすると床に降りて座りこみ、洗濯物をたたみはじめる。「あとでお庭に水あげなきゃ」と家政婦と化した独白をしながら、芽留は平然とあたしの下着もたたんでいく。
そうやって過ごして十一月の下旬に入った日の夕がた、「小梢さんだよ」と芽留が騒々しく部屋に入ってきた。あたしは十日ぶりぐらいに素早く身を起こし、すると確かにママが芽留に続いて部屋を覗いてくる。
ほつれたあたしを見たシナモンのツイードスーツを着たママは、「見苦しいわねえ」と芽留と顔を合わせた。咲った芽留の頭に手を置き、「今日はおうちに帰りなさい」とママは言う。「はあい」とお返事した芽留は、あたしに手を振って素直に部屋を出ていった。
ママは明かりをつけると、カーテンを閉めてベッドサイドに腰かける。香水の匂いがした。あたしは失恋して以来、香水はご無沙汰だ。あたしの顔を覗いたママは、「やだ」と綺麗な眉を顰める。
「何」
「目が腫れてないわ」
「泣いてないもの」
「殺してるんじゃないでしょうね」
「泣けないの。泣こうとするんだけど」
その言葉に、ママはあたしがしっかり受けついだ挑発的な目をずいぶん優しくすると、「そんなに本気だったの」とあたしの頭を撫でる。
「そうみたい」
「いつのこと」
「今月の、十一日。約束して会ったんだ。あいつの過去聞いたの」
「過去なんか現在に介入させるべきじゃないのよ」
「でも、あいつの過去は現実に食いこんでるんだ。ほんとに。過去が生きてるの。あいつを受け止めるには、過去も引っくるめるしかなくて」
「それで、受け止められなかったのね」
「ていうか、受け止められそうになかった。ほんとにすごかった。実樹ねえさんたちが、何であいつが生きてられるのか分かんないって言ってて、それが分かるぐらい」
「それであきらめたの」
「あきらめようと思うけど。やっぱり好きなのは消えない。受け止められないくせに、そうしたいとか思っちゃうの。最低。気持ちにコントロールつかなくて、押しつぶされてるみたいに空っぽで、それで泣けないの。泣くのじゃ気持ちに追いつかない」
「バカねえ」とママはあたしを抱きしめ、「泣かなきゃ何にも始まらないのよ」とあたしの髪を撫でる。
「泣いたっておさまらないからって泣かないのと、それでも泣くのでは心の負担がかなり変わるわ。あたしも失恋したらそんなものよ。あたしは泣くのを選ぶ。お酒の手を借りたってね。杏里があのときのあたしを怖がってて、今は軽蔑してるのは知ってるわ。でも、必要なのよ。泣いて吐き出さなきゃ、未練にしろ回復にしろ、新しいものが心に流れこんでこない。空っぽで、吐き出すものがないように錯覚してるのね。でも、それは感情が抑圧されてるだけなの。決壊させていっぱいにして、吐き出さないといけないわ。埋めたら、あの初恋と同じよ」
あたしはママの胸に顔をうずめる。ツイード生地が肌にちくちくする。香水と煙草が混じった、ママの匂いがする。ここにこんなふうにうずくまるのは何年ぶりだろう。初恋のとき以来かもしれない。「初めから好きにならなきゃよかった」と泣き言をすると、「そんなことないわ」とママはやんわりとあたしを制す。
「数があればいいものじゃない恋愛もあるけど、杏里の今回のはそうじゃないわ。よかったのよ。ただ、あんたには早すぎたのね」
「大人になったって、あんなの受け入れるの無理だよ。あいつは絶対、あたしに応えない。好きならあきらめるって、そんなのでしか想いを伝えられないような男なの」
「困った男ね。彼を変える気は?」
「できない。ていうか、しちゃいけない。あいつは神聖なんだ。強いの。未亡人が貞操守ってるようなものよ。あいつは誓いを破る権利より、惑わされない義務を好きこのんで選んでる。あたしのこと好きになったら、癒されるのは分かってるって言ってた。それでも自分は苦痛を取るって。あたしは見返りを求めないほど強くない。愛したら愛されたい。大人になったって、そういう甘えは捨てられないよ。あいつにはあたしじゃないんだ。よく分かってるのに気持ちばっかり思い上がって、自分が嫌。無力のくせに、どうして好きなのかな。好きなら力が湧けばいいのに、それもない。自分が情けないの。あいつに振られたのより、自分に何にもないのが悔しい。あたし、あいつに惹かれる資格がなかったんだ」
ママはおっとりとあたしの背中を撫で、「彼が好きなのね」と言った。あたしはうなずく。「本気なのね」と言われ、またうなずく。「じゃあ泣いちゃいなさい」とママは言って、それでやっと、鍵が合ったみたいに、あたしは喉につまっていたものを瞳からあふれさせていた。
「あんたにそうやって、誰かに心をかける甲斐性があって、母親としてはほっとしてるわ」
ママは呼吸が引き攣るあたしを抱いて、身をかがめた。ママの髪があたしの髪に混じって肩に流れ落ちる。子供の頃にはよく嗅いでいた匂いを、あたしはしゃくりあげと共に吸った。ママはあたしの背中をゆったりと撫でる。
「痛いわね。でも、それは無駄じゃないのは分かってなさい。その痛みを怖がって、あんたは誰にも本気ならないんじゃないかって、あたしはずっと心配だった。杞憂だったわね。よかったわ」
「……次はダメかも」
「そんなことないわ。できるわよ。あんた、彼に惹かれたくて惹かれたんじゃないでしょう」
「うん」
「だったら、きっとまたそのうちそんなふうにあんたを駆り立てる男が出てくるわ。彼も初恋も、巡り合わせが悪かっただけなの。いつか、あんたによく合った男が出てくるわ」
「あたし、失恋してあいつと友達になるって約束したの」
「なれるわ。とっととそうなったほうがいいわよ。彼はあんたぐらい、過去に何か揺るがしがたいものがあるのね。でも、あんたはあんたなんだから、そんなとこまでつきあってずるずる想うのはやめなさい。友達になれるわよ。だから、まずこうやって吐き出すの。そして、冷静に彼のことを考えられるようになりなさい」
「なれるかな」と鼻をすすると、「大丈夫よ」とママは倦まずにあたしを綏撫する。
「あたしがついてるわ。芽留くんもいる。ひとりで頑張らなくてもいいの。一緒にゆっくりやりましょう」
あたしはうなずき、おさまりかけていた涙を再び吐き出した。喉がずきずきして、まぶたが重たくなっていく。呼吸が苦しくて、咳きこんでしまった。ママのスーツは、染みが残りそうに濡れていく。それでも今は、同性としての気配りより、娘としての甘えを優先して、あたしはひとしきりママの胸で泣いた。
そうやってママと過ごし、芽留に毎日構われているうち、やっと行動できるようになってきた。起きるとか、食べるとか。芽留は満足げにして、時間を取ってはあたしに会いにきていたママも仕事に帰っていく。
芽留の家に行くようにもなり、芽留の部屋の天窓の下で過ごしたり、マリカさんと話したりした。「男を失くすのはつらいわよね」とマリカさんは咲い、「ほんとに」とあたしも咲う。「でも、乗り越えられないことじゃないわ」と励まされてうなずく。恵まれた環境に傷を放置することなく回復したあたしは、死んだみたいにベッドに横たわるのはしなくしていった。
失恋についても、冷静になってきていた。かといって、愛情を友情に切り替えるのも簡単ではなかった。無理にそうしようとしたら、かえってまた混乱してしまう。
あいつに応えてもらえないのは、よく承知した。それでも好きだと思う。これは見返りを期待しない愛なのか、それとも単に未練がましいのか。後者なんだろうな、と思うあたしは、女を捨てられるまで来夢には会わないつもりだった。紗月や実樹ねえさんには会いたかったけど、来夢のことのために〈POOL〉にも顔を出さなかった。
あたしの蘇生で脚本に戻れた芽留は、長らく紗月に会っていないのに気づいた。一緒に行こうと誘われたけど、あたしは断り、芽留はしぶしぶひとりで〈POOL〉に行った。そして帰ってきた彼の報告によると、逢えた紗月と実樹ねえさんは元気だったそうだ。
紗月の話では弓弦も変わりなく、ただ、来夢は何か気にしているという。「杏里が行かなきゃ振ったの気にしちゃうんじゃない」と芽留は言い、「どうだかね」とあたしはベッドにもたれて目を細める。天窓が弱い陽射しを床に投げかけていた。季節はすでに寒色の冬となり、カレンダーも最後の一枚の十二月に入っていた。
【第三十二章へ】
