うつろなゆめ
肌を凍らす寒さの十二月始めの週末、あたしは芽留の家にいた。リビングのこたつで、昼食の鍋焼きうどんを食べている。チャイムが鳴ったのは不意だった。
カウチでただのうどんを食べていたマリカさんがインターホンに出て、「あら」と受話器相手に顔を輝かす。「誰?」という鼻をすすりあげた芽留の問いに、「紗月くんよ」とマリカさんは受話器を置いた。あたしと芽留は顔を合わせる。
うどんをおいて芽留と玄関に行き、ドアを開けると、確かに階段の下の門の向こうに紗月がいた。あたしと芽留のすがたに、ベージュのダッフルコートに白いマフラーをまとった彼は笑顔になる。「上がっていいよー」と芽留が言うと、紗月は門扉を開けて階段を登ってきた。
吹いた強い風に、こたつと暖房でぬくぬくしていたあたしと芽留は身をすくめ、紗月も階段を駆け上がってくる。紗月は芽留と笑みを交わし、ついであたしを見ると、「久しぶり」と微笑んだ。あたしが同様に返したところで、「感動はリビングで」と芽留が急いでドアで寒風を遮断する。
「ひとりで来たの」
「駅までは弓弦に送ってもらって、電車乗ってこっちにはひとりで来たよ。十九時にまたあっちの駅で待ち合わせしてる」
「じゃ、ゆっくりはできるね。何だったら、駅までママに車で送ってもらってもいいし」
「ほんと? 遅くなったらお願い」
紗月は、靴を脱いで冬用の絨毯に上がる。「久しぶりね」と顔を出したマリカさんに、「お邪魔します」と紗月は頭を下げてマフラーをほどいた。コートはフリーツで、いつも連れているデイパックを背負っている。紗月はあたしを見て、「けっこう元気そうだね」と言う。「見ためはね」とあたしは咲い、「寒い」とうわごとをする芽留にみんなリビングに移った。
紗月に昼食を食べてきたのを聞いたマリカさんは、「ごゆっくり」とひとりダイニングに移動した。遠慮しようとした紗月を、「厚意だし」と芽留は制し、紗月はおとなしく甘えてデイパックとコートをカウチにおろす。こたつに入り、あたしも芽留も半熟たまごを絡めてうどんを箸にすくい、「おいしそうだね」と紗月は胃を刺激されたのか、いささか状況に厳しそうにした。
「紗月くんは、お昼ごはん何食べたの」
「弓弦にお好み焼き作ってもらったよ」
「あー、いいなあ。ママ、僕、明日お好み焼きね」
「はいはい」とマリカさんは咲い、紗月は相変わらずの親子のやりとりに微笑する。
「今日、どうしたの? 急だね」
「迷惑だったかな」
「ううん。嬉しい。びっくりはした」
「電話しようと思ったけど番号知らなくて」
「そうだっけ。あのねー」
「あ、あとでいいよ。メモくれたら」
「そう? 電話くれたら、駅ぐらい迎え行くよ。外、怖いでしょ」
「……うん。そうだね。ありがと」
「へへ。で、用あるの」
「あ、杏里がずっと来ないし。やっぱ、会ってみないと気になって」
「ほらあ」とあたしを見た芽留は、「僕、ずっと誘ってんだけどね」と紗月に説く。あたしはうどんを飲みこみ、「あたしそんなに賢い女じゃないもの」と言う。
「ずぶといくせにー」
「悪かったわね。純情ぶって引きずってんじゃないのよ」
「杏里って変なとこ繊細だよね」
「憶病なのよ」
「そおかなー」と芽留はうどんをすすり、「こいつとかママのおかげで気分はよくなったの」とあたしは紗月を向く。
「しばらく死んでるみたいだった。ベッドから起きるのも嫌で、何か、いろいろね。振られた単純なショックより、無力感の自己嫌悪とかごちゃごちゃしてた。それは落ち着いても、あいつを吹っ切れない問題は残ってるんだ。あいつに会うと安定が壊れそうで、まだ会えそうになくて」
「そう。弓弦も実樹さんも心配してるよ。ずっと来ないし」
「弓弦はあたしが来なくても構わないでしょ」
「そ、そうかな。でも、気にしてる。驚きもしてるよ。そんなこたえるほど本気だったのかって。実樹さんも」
「実樹ねえさんには会いたいな。そのうち行くよ。こういう失恋って慣れてなくてさ。失恋でまじめに泣いたのなんて、初恋以来よ」
「泣いたの」
「うん。まずは泣かないと、失恋も未練も始まらないってママに言われて」
「台詞メモしたーい」と芽留が言って、あたしと紗月は咲う。
「あいつに言い寄る気はないわ。友達になるって約束したんで、そう思えるようになるまで。それぐらいさせて」
「うん──。来夢さんも、気にはしてるみたいだよ」
「どうせ後悔じゃないでしょ」
「分かんない。そうかも」
「何か言ってたの」
「来夢さんに伝言もらったんだ。紙に書いてもらって──それ持ってきたのもあるんだよ。あ、あと〔こもりうた〕できたから」
「見たい」と芽留が口を挟み、「二枚持ってきたよ」と紗月はデイパックの中を探った。「捨てるときは、外にもれないように破ってね」と紗月は〔こもりうた〕を芽留に渡す。
紗月はあたしにも同じものをさしだした。「最後の読んで」と彼は言い添え、「最後」とあたしは素直に最後の話に目を飛ばす。
うつろなゆめ
俺はいつもあとから学ぶ。大切なものを失くさないとそうと認識できない。取り返しのつかない後悔からしか何も気づけない。
心をえぐられないと分からない。
昔のひどい恋を癒せそうな女に逢ったけど、やっぱり彼女のことも失くさなきゃ分からなかった。
俺は愛することのできない過去に押しつぶされてばかりだ。
そしていつも、何も残らない。
顔を上げた。芽留も読んだのか、あたしを見てくる。「ちょっと僕が脚色してるけど」と紗月はデイパックを探り、「これね」と一通の封筒を取りだす。
「来夢さんにもらったの」
「あいつ、に」
「載せてって。昔のことと思って、『できません』って言ったら、そうじゃないって。読んだら、杏里のことで」
「……あたし」
「ほんとはもっと長かったんだ。便箋二枚ぐらいあった。けど、もう載せるの決まってたし、レイアウトも決まってたし。でも、次は早くて春でしょ。どうかならないかなって言われて、頑張った。レイアウト直して、やっと載せられたのがそれなんだ」
紗月は手紙をデイパックにしまい、あたしは詩のようなそれを読み直す。意味深だ。期待したくなる。だが、紗月の脚色もあるのか。「どのへん脚色したの」と訊くと、「ごめん」と紗月は妙な開口をした。
「期待させたと思うけど、三段落目」
「三──恋がどうのって奴」
「うん。それがないと、何でそう思うのか抽象的過ぎるでしょ。来夢さん、添削では何も言わなかったよ」
「………、新しい女じゃなくて、女友達とも取れるわね」
「取れるかな」
「きわどいけど」
「よかった。そういうふうにしたつもりなんだ。だいたいの人が、恋人にすべきだったかって取ると思うけど。そういう表現は、僕よくするんだ。分かる人にだけ分かるようにするというか。そうやって守ったほうがいい、定義すべきじゃないこともあるからね」
あたしは、その短文に目を落とす。静かだと思ったら、芽留は〔こもりうた〕を初めから読んでいた。
後悔。何を後悔しているのだろう。振ったことか。過去を話したことか。どちらもあいつにはありえそうにないが──「あった」と紗月が声を上げて、そちらに目を向ける。
「底に行ってた。これ、来夢さんに預かった伝言」
あたしは芽留をよけて、その紙を受け取る。四折りの水色の無地の紙だ。ひらいても絵などはなく、初めて見る来夢の字だけが記されてある。あいつらしい、無粋な殴り書きだ。
12/11の17時にPOOLに来い。
いいこと教えてやる。
いいこと。紗月も芽留もあたしを窺っていて、あたしもふたりを見て、「迷惑なこと書いてある」と眉を寄せる。
「迷惑ー?」
「紗月読んだ」
「ううん」
「……そう」
「何ー。何ー」
「十二月十一日に、〈POOL〉に来いだって。いいこと教えてやるって」
「わーお、求愛に応じるんじゃないの」
「まさか」
「十二月」とつぶやいて紗月は考えこんだ。「何」と訊くと紗月は首をかたむける。
「いや、何か──違う、かな。分かんない。ごめん、何でもない」
あたしと芽留は瞳を交わしたものの、深追いはしなかった。芽留は冷めかけた鍋焼きうどんをすすって、「行くの?」と訊いてくる。あたしは背後のカウチにもたれ、「『迷惑』って言ったでしょ」と〔こもりうた〕に無造作に目を通す。
「行かないってこと」
「行かないわけにもいかないってこと」
「………、僕もついてこっか」
「……そうね。いや、考えるよ。今日何日だっけ」
「四日だよ。土曜日」
「十一日は──」
「も、土曜日。一週間後だね。ま、ゆとりはある」
「そう? ねえ紗月、あいつ、この伝言について何か言ってた?」
「え、どうだろ。弓弦伝いにもらったんだ。昨日。『新しい〔こもりうた〕と渡して』とは言ってたって」
あたしはメモを読んだ。いいこと教えてやる。「何言う気かしら」とつぶやいていると、「気持ち持て余してるなら、会ってみるのもいいかもよ」と紗月は言う。
「何か変わるかもしれない。来夢さんは、ここまでして呼び出して、わざわざ傷つける人じゃないよ。傷が分かるから、杏里を失恋で傷つけてほっとけないのかも」
「あいつにされたって、余計傷つくだけだわ」
「来夢さんもそれは分かってると思うよ。だからこそ、きっと何か思うところがあって呼び出したんだ。ここで気持ちの変化を待つのじゃ、たぶんキリがないよ。怖いけど、踏み出したほうがいいんじゃないかな。何だってそうなんだ。それで頑張ってみたら、ほとんど予想よりいいものが広がってる」
あたしは紗月を見た。紗月は頬を染め、「綺麗ごとかもしれないけど」と羞恥を表す。
「少なくとも、僕はそうだった。弓弦に過去を告白したときも、好きって言ったときも、初めて寝たときも、やるまですごく怖かったけど、やってみたらいつもしてよかったって思った。芽留と杏里に心開いたのだってそうだし。待ってるだけもありだと思うけど、待ってるだけじゃ絶対飛びこんできてくれないものもあるよ。もし杏里が、何年もそうやって来夢さんを避けてるのが嫌なら、会ってみるのも手だと思う」
〔こもりうた〕を読んでいた芽留も、「僕もそう思う」と同調した。芽留と紗月は顔を合わせて笑み、あたしを見る。ありがたい友人たちにあたしはため息と床に脱力し、〔こもりうた〕を読み、メモを読む。あたしは芽留と紗月に目を戻し、「行ってみるほうで考えるわ」と言い、ふたりを笑顔にした。
その日、案の定帰る時間が遅くなった紗月は、芽留につきそわれてマリカさんに車で送られることになった。あたしは玄関先でヘッドライトに手を振り、家に帰ろうかとも思ったものの、夕食をもらうので勝手に芽留の家に上がる。
リビングのカウチに仰向けになり、ポケットを探った。〔こもりうた〕は捨てるよりはと紗月が回収していったので、あたしに残っているのはメモだけだ。あいつが書いたんだよな、と思うと、初めてどきどきする。あたしは紙切れを握って手をおろし、いいこと、と天井の電燈に視覚をなずませる。
正直、行きたくなかった。どこかでは、二度と会わないのではないかと思っていた。あたしは失恋をうまくあつかい、友情に持ちこむほど、恋愛に熟練していない。特にこんな失恋なら、もう顔も見たくない。見たらもっとみじめになる。
あたしは来夢が好きだ。どうやって彼を、芽留や紗月と並べて見ろというのか。会わないほうがいい。好きだから。そして、ゆえにこんなものをもらってはすっぽかすなんてできない。
「バカにしやがって」と毒づき、紙を握りつぶす。捨てることはできず、そのままぞんざいにポケットに突っこんだ。うつぶせになると、芽留たちの帰宅を待った。
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