約束の日
気候の変化というのは、一週間あればずいぶん進む。今週もそうで、先週の土曜日に較べてぐっと冬の匂いが深まっていた。
雪でも降りそうに天気が悪く、そして寒い。十二月十一日、あたしは結局来夢に騙され、クリームのセーターに黒いジージャン、黒のコーデュロイのミニスカートと外出準備を整えていた。アンティックブラウンのベロアのブーツを履くかたわらには芽留がいるが、ここはあたしの家だ。
「大丈夫?」と問われ、「何とかね」と気丈に答える。口紅の味がして、仕草のたびに香水が薫った。リュックを肩にかけると、芽留と外に出る。
「ひゃあ」と芽留が悲鳴をあげた通り、そとではすぐさま体温を奪う風が吹き荒れていた。時刻は十五時前だったが、灰色の雲のために光は乏しく、視界は蒼ざめている。
「いつ頃帰ってくるの」
「さあ。一時間話したとしても、二十時はまわるわね」
「ママに夕ごはん頼んでおく?」
「今日はいいや。外で食べてくる」
「そお」と言う芽留と階段を降り、門を開けて道路に出る。「じゃあね」とあたしはリュックに鍵をしまう。
「頑張って」
「頑張るようなことかな」
「まだ来夢くんに会うのつらいんでしょ」
「………、そうね。でも、無視してあいつに嫌われても何だし」
強い風が吹き、あたしは髪を抑えて芽留はすくみあがった。あたしたちは顔を合わせ、「じゃあ」と言い合う。
「風邪引きたくないし」
「うん。僕、待ってるよ」
「遅くなるかもしれないわよ」
「遅くなるようなことするの」
「あいつはすぐ済んでも、あたしは何か癪に障ってふらつくかも」
「そんなんなら、僕のとこに来なよ。聞きたいから待ってるよ」
あたしは微笑み、「ありがと」と言った。照れ咲った芽留は、「いってらっしゃい」と手を振る。あたしはうなずき、「いってきます」とその場を歩き出した。
複雑は複雑だった。あたしが片づけたのはまだ表面で、心は依然錯綜している。来夢と顔を合わせてどうなるだろう。例の虚栄心が彼の前で取り乱すのは制御するだろうが、別れたあとが問題だ。
待っている。芽留のその言葉をよく憶えておくしかない。幼なじみだ。あたしの気休め方をよく分かっている。
来夢に会って、いい気持ちになれないのは確実だけど、あいつとの関係を見直すなら、多少の不愉快もやむを得ない。そういう恋なのだ。この恋愛は初めから複雑だとはっきりしていた。だから、手を引こうと思っていたのに──このざまだ、とあたしはブーツのかかとで地面に軽くやつあたりする。
週末で混雑する電車で街におもむき、あたしは悪い鼓動を抑えて〈POOL〉へと歩いた。景色は懐かしいほどではなかった。懐かしさを感じるようになるまで来ないと思っていたのに、恋心で釣られてしまった。陰った空と激しくない明かりで、あたりには不安をかきたてる薄暗さが立ちこめている。
いいこと、と書いてあった。何なのだろう。見当もない。あたしの想いを受け入れる、というのではないだろう。が、それ以外にあいつができそうなあたしへのいいことはない。まあ期待せずにいよう、と自戒する中、あたしは〈POOL〉に到着した。
やっとつきはじめたネオンで、腕時計の時刻を確認すると、十七時を少しまわっていた。生涯の初恋に身を誓っているとはいえ、あいつも二十年近く男をやっている。女が少なからず待たせるものだとは分かっているだろう。
人混みを抜けてビルの入口に立つと、ひとつ深呼吸し、どうにでもなれ、と心をくくって店内に踏みこんだ。
いつものテーブルには、ふたりの人間がいた。弓弦と──来夢だ。弓弦が先に気づき、「来た」と言って来夢も顔を上げる。一瞬どんな顔をすべきかに臆し、とりあえず咲っておいて、テーブルに歩み寄る。
大きな瞳であたしを追う来夢の正面にいる弓弦は、「俺は付き添いだよ」と訝ったあたしににやにやした。あたしは眉を上げ、「意気地なしじゃ何にも残らないはずね」と皮肉る。来夢は面食らったあとに白い頬をくっきり染め、弓弦はげらげらした。
「紗月の言ってた通りだな。けっこう元気じゃん」
「表面はね。紗月はいないの?」
「部屋。俺もこのあと帰るよ」
「付き添いじゃないの」
「待ってるあいだのな。だろ」
弓弦は来夢を向き、「まあ」と来夢は口の中で言う。弓弦は親友の様子に笑って、湯気の残るコーヒーを飲んだ。実樹ねえさんは仕事をしている。
「こんな時間にふたりともヒマってめずらしいわね。週末だし」
「ああ、俺は毎年この日はこいつにつきあうんだ。ひとりにしとくとやばいからさ。何するか分かんない」
「何にもしねえよ」
「はは。ひとりだときついのは事実だろ。あ、俺がいても意味ない?」
来夢は弓弦を上目で見て、「バカ」とカップを取った。弓弦は笑い、息をついた来夢は、「こいつと別れたあと、お前んとこ行くよ」とあたしをしめして言う。
「ナーバスになってるだろうし」
「そっか。そうだな。待ってるよ」
「うん。確かに、今日はお前といたほうがいいし。ごめんな、毎年」
「気にすんなって。たまにはダチらしいこともしないと。ひとりで耐えることないんだ。俺としては、頑張って死なれるより、甘えられて生きてもらうほうがいいし」
「紗月くんといちゃついてんなよ」
「昨日したから大丈夫です。お前がへこんでも、気合い入れて受け止められるぜ」
来夢は笑って、「期待してます」とうなずく。
どういう会話なのか、あたしには測りかねた。ナーバスだのへこむだの、あたしと過ごしたらということか。なら呼び出すなよ、と思っていると、実樹ねえさんがコーヒーを持ってくる。
「ありがとう」と受け取ったあたしに、「少し痩せたわね」と実樹ねえさんは目敏く言った。
「そうかな」
「やつれるのは魅力ないわよ」
「気をつけます」
「痩せましたかね」と弓弦が口を挟んで、実樹ねえさんはあきれた息をつく。
「弓弦はすっかり男になじんだわね」
「そ、そうですかね」
「女の気持ちににぶくなったわ」
「………、俺は紗月がいればいいのです。だいたい、気持ち汲み取ったってこいつは来夢のもんですよ」
「あたしは、こいつのものになる気はないわ」
「あーあ、振られちゃった。どうする?」
来夢はあたしを見て、あたしも彼を見下ろす。何だかくたびれた顔で息をついた彼は、自分の隣を顎でしゃくった。あたしがそこに座ろうとすると、「こっち空けるよ」と弓弦が立ち上がる。
「俺がいたって、茶々入れるだけだし。いたほうがいいか」
「いや、すぐあっち行くし。そのあと、相手して」
「了解」
「悪かったな、こんなのにまでつきあわせて」
「いえいえ。俺はいいと思うぜ。ただ無理はしないように。お前がいなくなったら、俺泣いちゃう」
「知ってる」と来夢は笑い、弓弦もにっとすると黒いオーバーを羽織る。あたしは実樹ねえさんと顔を合わせた。「昔からこのふたりは、恋人同士みたいって言われてるのよね」と実樹ねえさんは言い、あたしは納得する。「ダチですよ」と眉を寄せて弓弦は実樹ねえさんに代金をはらい、来夢の肩をたたくと、あたしを向く。
「ひとつ、頼んでいいかな」
「何」
「できればこいつを見捨てないで、受け止めてやってくれ」
あたしが怪訝にまばたくと、「じゃ」と弓弦は店内の人にも挨拶して、〈POOL〉を出ていった。実樹ねえさんも、「杏里ならできるわ」とあたしの肩に手を置いてカウンター内に戻っていく。わけが分からず突っ立っていると、「座れよ」と来夢が言い、あたしは彼を見る。
「あたし、もうあんたのために傷つきたくないわ」
「知ってるよ。だから呼んだんだ」
「あんたに世話焼かれたって迷惑よ」
「でも、俺しか役に立たねえんだろ」
口ごもり、ひとまず正面に腰かけた。来夢はあたしを見つめ、「ずっと来ないし」と言う。
「せいせいしてたんじゃない」
「いじけてるのか」
「だってこのあと、弓弦に会いにいくんでしょ。あたしといると、ナーバスになってへこむから」
「お前といるからじゃないよ。──ずっと、気にはなってた」
「振らなきゃよかったって後悔してんじゃなきゃ、あたしには全部同じよ」
コーヒーに砂糖を落として混ぜる。カップの熱に指が溶け、ひと口飲むと、胃から軆が暖まっていく。この感覚を味わうと、冬だと感じる。
「お前のことを考えない振り方だったかもって思ったんだ。過去ばっかりで決めつけて、お前の気持ちに対して優柔不断だったかなとか」
「分かってるよ、ちゃんと。あたしが感情のさばきに手間取ってるだけ。あんたが気にすることじゃないわ」
「………、〔こもりうた〕、読んだ?」
「恋がどうのは紗月の脚色って聞いたわ」
「そっか。事実でもあるよ。俺はいまさらお前と他人になるのは怖い。いろいろさらしちまったし、必要なんだ」
「……必要」
「中途半端だったと思った。俺だって、そんな吹っ切れてるわけじゃないんだよ。心の整理がつかないまま、あのことを無防備に思い出すのは怖かった。それで、あんな半端にしか語れなくて、お前を圧倒できなかった」
「されたわよ」
「あんなもんじゃないんだ。俺はお前を道連れにすべきだった」
来夢はコーヒーを飲むと、立ち上がった。「何」と上目を使うと、「連れていきたいところがあるんだ」と来夢は上着を羽織る。あたしはコーヒーの水面をいじったあと、息をついて立ち上がる。
「ねえ」
「ん」
「今日って何か特別な日なの?」
「何で」
「弓弦が何か言ってたじゃない。そういえば、紗月も今日会うって言ったら引っかかったみたいにしてたわ」
「っそ。うん、今日は俺にとって忘れられない日だよ」
来夢はテーブルに代金を置いて歩き出す。あたしも置いて、一度実樹ねえさんと顔を合わせて笑顔で見送られると、来夢を追いかける。自動ドアを出ると、来夢はあたしを見下ろして言った。
「今日は、サヤが死んだ日だ」
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