僕らに溶けこんで
星華が働く店の名前は、彼女に聞いていた。
クラブやライヴハウスが多い、僕たちの行動地帯のあいだにもそういう店は入り混じっているが、通りをずっと行くと、いつのまにかキャッチがうろつき、安っぽい天国のような店が派手に並びはじめる。
僕は紡麦に持たされたメモを握って、いかがわしいそのへんを彷徨っている。
次の日来なければ、星華はその次には来るようになっていたが、今回は来なかった。週が明けても気配はなく、周囲を感染させそうに陰鬱な僕は、まくらに顔面を腐らせている。
だるい無気力が全身に行き渡り、今週末はぐったり部屋で過ごした。千歳に付き添われ、三日間、何の痕跡もない時間を泥のように垂れ流している。
紡麦は遊びに出かけ、月曜日の朝に部屋にやってきた。僕と千歳は寝入ろうとしていたところで、紡麦は何の邪魔もせず、さっさと睡眠薬で眠ってしまった。
紡麦はタオルをかぶって寝たので、千歳はふとんを貸す必要がなく、床で寝た。ベッドにひとり埋まる僕は、あの日以来、タチの悪い不眠症に憑りつかれている。
頭ばかり痛く、眠れないなら何かしておくというには手足が沼にハマっている。闇の糸口がつかめず、今際のような微妙さで、意識が朦朧とただよう。ざらざらした神経は、何かを知覚しては僕を覚醒に引っ張る。
寝起きは喉がからからに痛み、頭痛の蔦が昨日より複雑に脳に絡みついている。体調と心情が悪循環し、早くどこかで調律しなくては、またキレるだけだった。
「星華が気になるんだろ」
たっぷり半日眠っていた紡麦は、十九時頃に目を覚ました。
僕は寝つくのをあきらめ、また一日、暖房の元でベッドを棺桶にしようとしていた。目が腫れているのが、痛みでうまくかぶさらないまぶたで分かる。
頭をかいたり、あくびをしながら、そんな僕のざまを観察した紡麦は、飽きれ返った眇目でそう言った。
うつぶせる僕は、紡麦に首を捻じった。紡麦は僕の元に這ってくると、「お顔が台無しよ」とにやにやする。
「どうせ、台無しになったって困る顔じゃないよ」
僕はまくらに額をこすりつける。「こいつって、失恋するとこうなんだね」という紡麦の声に、千歳の失笑が重なった。
「失恋じゃない」
「この期に及んで何を言いますか」
「それってどういう意味」
「振られたんだ、あきらめろ」
「僕はあいつと恋愛してた憶えはないよ」
「あれが恋愛じゃなかったら、何なんだよ」
「友達だよ」
「友情に肉体関係はありませーん」
「ほんとに?」
「はっ。じゃあ、俺とやれるんだね。ナオユキともユウヘイともヒロシともやるんだね。おえっ、やめてー」
「何で男ばっか並べんの」
苔が生えそうな陰気な横目をすると、「同じじゃん」と紡麦はあぐらに座りなおす。
「友達なら」
「………、行きずり──ではないよなあ」
「君、恋愛したことないだろ」
「紡麦はある?」
「ないです。だから、恋愛よく分かりません。希月もそうなんじゃないの。お勉強になりましたね。それが恋というものなのよ」
僕は渋面を困惑で躊躇わせる。
恋。そうなのか。しっくり来ない。
僕と星華は、軽口をはたきあうばかりだった。独占欲もなく、千歳や紡麦と共有し、金のためにカメラの前で輪姦もした。
「好きなんだろ」
「好き、まあ──でも、何か、違うよ。好きっつっても、いろいろあるじゃん」
「認めたくない問題あんの?」
「そういうんじゃなくても、だって、恋愛ってもっとべたべたしてない」
「恋が納豆とは限りません」
「その比喩って品を削ぐよ」
たまごを割る千歳が口を挟み、「俺は作家じゃないからいいの」と紡麦はふくれる。
「寝たら恋愛なら、紡麦もあいつとやったじゃん。紡麦も恋愛してたわけ」
「何言ってますの。やってないよ」
「僕とまわした」
「ありゃ金のためだろ」
「僕も金のため」
「はっ! よく言うぜ」
「外人みたいな驚き方やめろよ」
「俺が以前読んだ本によると、セックスには四つ種類があってね」
「手と口と穴とケツね」
「違う。愛情と強姦と慰めと売り。俺が星華にしたのは、売り的なセックスなわけ」
「僕もそうだよ」
「カメラの前ではな。君たち、外れてもやってたじゃん。あれ何よ」
僕はむくれた仏頂面をし、紡麦は自分の有利をじゅうぶん承知してにやつく。
「強姦じゃないよな。慰めか」
「何か──僕と星華は、やるのがセットになってるんだよ」
「恋愛じゃん」
「僕、ぜんぜん星華にどきどきしないし。千歳とか、僕にどきどきするって言ってる」
だしにつかわれた千歳が、引っかかった変な顔で振り返ってくる。その顔に「ごめん」と思わず言うと、彼は肩をすくめてときたまごをフライパンに流しこんだ。
じゅーっ、とバターをまとったたまごがいい香りをのぼらせる。
「じゃあ確かに、君にとって星華は女の子ではなく」
僕はまじめくさった紡麦に目を戻す。
「寝たのは金のためとかご機嫌取りに過ぎなかったのなら」
「うん」
「何、そんなうじうじしてんの」
僕は眉だけ何とか寄せても、口は追いつかなかった。僕はこの年下の少年の口に、いっさい勝てない。
菜箸でフライパンをかきまわす千歳も、笑いを噛んでいる。
「紡麦ってさ」
「ん」
「ヤク中のくせに、シビアだね」
「葉っぱ吸って、ポジティヴになる?」
「星華が好きだったのは、認めるよ。恋愛かは分かんないけど。ほんとに分かんないんだ」
「無垢とは愚かなものだって誰かが言ってた」
「どういう意味」
「AしてBしてCじゃないと、恋だと分からない」
「………、彼女が僕を分かってくれなかったのはつらいかな。それは思う」
「分からせようとされなきゃ、絶対あんなん分かんないよ」
「紡麦は分かってたじゃん」
「俺は気にしなかっただけだよ」
「千歳は」
火を落とす千歳は振り返り、「僕は希月が話してくれるまで怯えてたよ」と三枚の小皿を焜炉に寄せる。
「希月は無意味にグレたっぽいからさ」
紡麦はベッドサイドに預けた腕に、くたっと乗っかる。
「分かんないよ、おばけに乗り移られる事情があるなんて」
「事情ってほどでも。何かやなんだよね、いちいち過去を語るのって。いやらしいよ」
「まあ確かに」
「不幸でしたって感じだし」
「そうだね」
「自分はドラマチック」
「最悪」
「ださいんだよ」
「公衆に過去話して、『誰かの勇気になりたい』とかいう奴は、うざいから黙って自殺してろって思うけど。好きな人には打ち明けたほうがいいときもある。過去にできてない過去なら、単純に、つきあっていく上でね」
僕は紡麦の大きな瞳を見つめる。「大衆に痛い過去をさらすのは悪趣味だけど」と彼は身を起こす。
「特別な人に隠してんのは、腰抜けだね」
僕は首をすくめて、まくらの皺に顔を伏せた。
暖房の息遣いと、千歳の調理の物音が響く。
特別。それは事実だ。星華は僕にとって、そのへんの子とは違った。一夜に誘うのは遊びに過ぎない女とは、もう違った。かといって恋かは分からなくても、星華が僕にとって千歳や紡麦に等しかったのは確かだ。
ならば、彼女にはあの日陰の家庭や反動の感電を、説いておくべきなのだろうか。千歳。紡麦。僕は深く関わる相手には、あの陰湿な過去を打ち明けておかなくてはならないのかもしれない。
黙っておくには、紡麦の言う通り、記憶は過去になりきれず、現在もなお獲物を窺う猛獣のように僕をつけ狙っている。そしてその害は、そいつに支配された僕によって、相手にも及ぶのだ。
あの家庭は、ムカつくけど、僕という人格の一部であり、隠しておくのは皮を被るということになる。星華が僕を受容するかは、真実まで知ってもらったあとに判断する。
正直、あの家庭をわざわざ語る受難だとは思えない。そう思うには、僕は無傷だった。何もなかった。傷つくべき人は僕ではなかった。それでも僕が、影響されて変な具合に育ったのは事実で、ならば原理を説明しておくのは礼儀なのか──
彼女に投げつけた暴力や暴言は、カマイタチのように瞬間的なものだった。星華がそれを信じてくれるかは分からない。しかし、彼女が惜しければ、それは言っておいたほうがいい。
「紡麦の映画とか小説は、伊達じゃないんだね」
座卓に朝食を並べた千歳は、「食欲ないかも」と言いつつスプーンを取った紡麦にそう咲った。「へへ」と紡麦は照れ咲いをしたのち、「千歳にはごめん」とちろりと上目になる。
「え」
「希月が星華にいっちゃうようなことを」
ついまくらに伏せていた顔をもたげた僕と顔を合わせた千歳は、「気にしないで」と物柔らかな笑みをして、自分も床に腰をおろす。
「希月は、僕のものじゃないし──星華と親しくなっても、希月は僕をほったらかしにはしないと思う」
「ま、そだね。何でやらないんだろ」
「希月には僕じゃないんだよ。だからほんとの誰かがいてあげたほうがいいとも思う。僕のために、希月が縛られたら重たいしね。嬉しいけど、やましいよ」
「でもあいつ、振られたかもよ」
さく、と軽くトーストに口をつけた千歳は咲い、「希月が話してくれなきゃ元通りはむずかしいだろうね」と飲みこんだあとに言う。僕のぶんも座卓に用意されていても、食欲も動力も、義理のセックスのあとみたいにくたばっている。
「僕は怖くて、やっぱり自分はクズなんだって、出ていこうとした」
「俺は意外な一面と思っただけだったなー。けど、すげえムカついた。何だよこいつって」
「あ、僕もそんな気持ちはあった。それが本音なのかって」
「誤解されやすい病気だよな」
「──あのさ」
僕は腫れぼったい、不機嫌な声で割って入る。
「本人の前で、“病気”を批評しないでくれる?」
「聞こえさせてるのさ」
「希月、ご飯はどうするの」
「食べるけど──待って」
「食って体力つけて、星華を迎えにいきなさい」
「取り返しつかなくなるよ」
「もうつかないよ」
「嫌ねー、先入観する人って」
「そう思うのは、気持ちを話してみてからでもいいんじゃない? 星華はきっと、同情なんかしないよ」
「そうそう。そしてそんなときのために、賢い友人の俺。はい、どうぞ」
スプーンをくわえるまま、トマトカラーのリュックをたぐりよせた紡麦は、中をあさって紙切れをポイ捨てしてきた。「何」と億劫な声と手で拾い上げると、「星華の店の住所」と紡麦はスプーンを外す。
「何でそんなん知ってんの」
「昨日、友達の友達の友達ぐらいから出てきた」
「どうしろって。買ってつきあえって?」
「千歳、こいつもう、頭に来てるよ」
「そこに行って待ちぶせれば、星華に会えるんじゃない?」
「待ちぶせ!?」
「ストーカーっぽくて格好悪いとか、なりふり構ってる場合じゃありませんよ。だって君は、今すでに格好悪いから」
僕は高笑う紡麦をじろりとしたあと、ボールペンのメモを見つめて、髪のあいだをかいた。
本音を言えば、面倒臭かった。けれど、誤解は解いておきたい。自分の暴挙が笑って流せるものではないのは知っている。千歳は傷つき、紡麦は癇を切らした。僕のかっきられた喉がほとばしらせる血は、父親より尋常ではないのかもしれない。結局は、衝動を抑えられない僕が悪いのだろうし──
「あーあ」と腫れて痛む目をこすると、僕は鈍重に身を起こし、スプリングの軋みに振り向いた千歳と紡麦は拍手した。
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