彼女の現実
そういうわけで、僕はふたりに支度させられて、星華の店を訪ねている。
彼女の上がりは二時だが、迷子も考慮して部屋は零時過ぎに出た。三日間暖房の下やふとんの中にいたせいか、閉じこもるあいだに冬がさらに忍び寄ったのか、ずいぶん寒い。厚着もあえなく頬や指先は麻痺し、心臓はすくんでいる。
怪しい店が、けばい光をまきちらしている。明らかな商売女、酔っ払った親父、気を張っておかないと、キャッチにつかまりそうになる。こういう界隈は、匂いやざわめきがどこか独特だ。
住所だけでこういう店を見つけるのは慣れていなくて、やっと看板の地下一階にその店名を見つけたのは、ちょうど二時前だった。
雑居ビルだった。一階が普通の飲食店でとまどうが、不意におっさんと女の子が湧いてきたりするから、やはりそういう店も入っているらしい。
ピンサロか、と白い吐息を吐く。正直、入りたくない。もう二時だし、下手して金を出したくないし、と自販機で缶コーヒーを買うと、僕はその自販機の陰に腰を降ろした。
自販機のすぐ隣がビルの入口で、そこにはいくらか男が溜まっている。若かったり中年だったり、とりあえず一概にまともじゃなさそうで、キャッチやヒモや──良くて恋人のお迎えだろう。
しばらく缶を手のひらで抱きしめ、指をほぐしてからプルリングを開けた。サボって来てなかったらどうしよ、とちらりと思いながらも、熱いコーヒーで内臓を補いながら待つ。
出てくる女は、淫売服で男と一緒だったり、たむろする男とつるんでいったり、うんざりした様子で早歩きしていったりする。
コーヒーがなくなると、煙草を吸った。頭が痛い。寝不足の枯渇を、冷気が直撃する。
胸へと頭をかがめ、冷えこんだ頬をジーンズの膝に押しあてた。星華にどんな顔をすべきか、どんな言葉をかけるべきか、考えるほど逃げたくなってくる。
くわえた煙草が、唇をぶらつく。火種が前髪に燃え移りそうなのをぼんやり眺める。
ねむ、と取り留めなく思ってまぶたを重くしていると、視界に垂れ流していた女たちの中に、紅茶色の長い髪がたなびいた。
あ、と身じろいで頭を上げ、立ち上がるか声をかけるか迷った一瞬に、入口の壁にもたれていた男に先を越された。ん、と眉を寄せた僕の前で、そいつは乱暴に星華の手首をつかむ。
とっととビルを離れようとしていた星華はつんのめりかけて、そちらを振り返った。
男は茶髪で無精髭を生やし、暗目にも瞳が異常に濁っていた。全体的にとがった感じに細身で、服装も汚い。二十代の後半くらいだろうか。
「よお」と言ったそいつに星華がどんな顔をしたかは、僕には後頭部しか見えないので分からなかった。
「……何だよ」
声は確かに星華だが、口調は聞いたこともない冷たい硬直を帯びていた。
「金よこせよ」
男のろれつは締まりがない。星華は男の手を振りはらって、歩き出そうとした。「よこせっつってんだよ」と男は星華の腕をつかみ直して、キャメルの革に骨みたいな指を食いこませる。
「早く」
「……ここで?」
「そうだ」
「せこいのもいい加減にしろよ。部屋でおとなしく待って──」
最後まで言わせず、男は星華の頬をぶった。鋭い破裂音は寒気に反響したものの、ざわめきに紛れていちいち周囲は振り返らない。
「そしたらお前は、その金をほかの男に貢ぐんだろ」
「ほかの男なんかいねえよ、離せっ」
「お前が会ってる奴はいつも同じだ。気づいてないわけねえだろ」
「まるで犬だね」
高飛車に言い返しても、その声はもうあとずされない崖に追いつめられたように怯えかけている。
「あんただって、ほかの女とやってんだろ」
「それは俺の自由だ。金をよこせ」
「あたしの金なんだよ」
「俺の金に決まってんだろ、お前のことは俺が管理してるんだからな」
「ふざけんな、どうせあんたなんか──」
男は星華を引っぱたき、ついで、腹にナイフより早く拳を突き刺した。
うめいてふたつ折りになった星華がリュックを取り落とし、男はそれは素早く拾うと中をかきまわす。男の片腕に引っかかる星華は、咳きこんで、アスファルトに膝をついて人形のようにぶら下がっている。
日払いなのだろう。封筒を取り出した男は中を覗いて、険悪に眉を顰めた。
「何だよ、これ」
「……え」
「少ないじゃないか」
「……別に」
男は星華の腕を引っ張って、無理やり立ち上がらせる。
「隠してんのか」
「それだけしかもらってねえよ」
「お前、野郎んとこでサボってたな」
「んなのしてねえよ、今日は客が少な──」
「うるせえっ」
男は星華の腹を再び殴り、嘔吐にも似た声をもらした彼女の肩に、背中に、そしてもう一度腹に、こんどは膝蹴りを食らわした。
「ちきしょう、淫売もまともにやれねえのか、役立たずのカス! とっとと死んじまえっ、つけあがってたら俺がどうするか知ってんだろ、あいつに知らせるぞっ」
あいつ──……?
男はさんざん星華を痛めつけると、その後、放置すら許さず、その細腕を引っ張った。脱力した星華は、その場に撃沈している。男は嫌がる犬の首輪に取りつけた綱を引くように、粗暴に星華を引いた。
そのとき、寒風が空を切り裂き、僕がくわえる煙草の煙がするりと舞った。その匂いで、一メートルも置かずに同じ目線にいる僕に星華は初めて気がついた。反射的にガラスの瞳が見開かれる。
だが、男に引きずられ、彼女は赤い唾を吐きながら、男についていった。
煙の匂いが、前髪を揺らしている。霜が降りて凍てつく僕は、人通りに紛れて見えなくなるまで、ふたりを見つめていた。
雑音が鼓膜に届く前にかすれ、胸の中がまっさらな無に還っている。新築の病院みたいに真っ白だ。
ショックを受けたのではない。ショックなら、男が星華に優しくしていたほうが受けていた。予想もしていた。でも、想像だけだった。不倫相手が幸せそうに妻と子供といるのを見た女は、こんな気分ではないか。分かっていたけど、この目で見たくはなかった真実というか──
星華の軆にあった痣が、頭の中をちらつく。
そういえば、何だか、助けることも思いつかなかった。
部屋に帰った。千歳も紡麦もいた。星華がついてこないことに、出迎えた千歳は僕に物言いたげにした。静かに千歳を見つめ返し、何も言わずにベッドに直行して仰向けになった。
暖房がこわばりきっていた軆をほぐしていく。天井には縛られた女がいる。千歳が甘い香りの紅茶を淹れてくれても、起き上がることができなかった。
目を伏せる。どう言えばいいのだろう。まだ胸に無感覚な空白が堕ちている──
突然ドアに、蹴たくるような乱雑な音がしたとき、僕は動物的に目を開いた。
「待って」
つい言ったけど、ベッドサイドに腰かける千歳は、逆に身を硬くしていた。彼は僕か紡麦か、最近だと星華だと分かっていない限り、ドアを開けない。
紡麦は出しっぱなしの座卓に頬杖をつき、煙草をふかしてハードカバーの本を広げている。
僕は千歳の肩に手を置くと、ベッドを飛び降りて玄関に駆け寄った。
ひと息深呼吸すると、鍵を開けてドアを開いた。
そこには、赤と黒を着て悪ガキになった星華がいた。左頬が腫れぼったく、口元が青黒く変色している。
髪がばさばさの彼女は、くだらない言い訳をされているようなふくれっ面で僕を見た。僕の瞳は対抗してトゲっぽくなったりせず、だるい哀しさに虚ろになった。
それを確認すると、星華も顰眉を崩し、ぶつかるように僕の首に抱きついてきた。
彼女の軆は冷たかったけど、あのなめらかな匂いがした。背後のふたりを気にして、少し躊躇ったものの、僕も一応抱きしめ返して足でドアを閉める。
「ごめん」とささやくと、「ほんとだよ」と星華はつぶやいて、僕は久しぶりに咲った。
千歳と紡麦は、当然こちらを観察していた。星華と軆を離した僕は、どんな顔をすればいいのか、下手に照れ咲ってしまう。千歳はほっと微笑み、紡麦はにやにやとした。
それでも、ふたりとも星華の痣には眉をひそめる。
「また喧嘩したの?」
紡麦は灰皿に煙草をつぶす。
「ほかの男とね」
星華はかかとをつぶしたスニーカーを脱いで、部屋に踏みこんだ。
「またこじれたのかと思った」
「星華、あったかいの飲む?」
「あ、うん。ちょうだい」
僕は息をついて、ドアの鍵を締める。ベッドサイドを立った千歳は、僕が飲まなかった紅茶のカップを持ってこちらに来た。飲まなかったのを詫びると千歳は首を振り、「新しいの飲む?」と訊く。
僕はうなずきつつ、彼に謝ったほうがいいのか迷った。千歳は僕の瞳を察すると微笑し、「ありがとう」と僕の気持ちを受け取って、部屋の中をしめした。
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