銀糸が伝う夜
翌日はやっぱり、と言ったら悪いけれど、千歳が鬱っぽく表情に日陰を差したので、僕たちは部屋にいることにした。
その男が気になるのもあったし、ザコ寝しているあいだに重くなった雨が冷たそうなのもあった。雨が千歳の自律を余計陰鬱な空洞へと蝕んでいるようだ。
睡眠薬を飲みすぎた紡麦は、半日以上寝てもだるいのか、吐き捨てられたガムみたいに床を粘ついている。そして、堅いものや何かの角が腰や足に当たるたび、スローモーションのような間延びした声を垂らしていた。
そんなわけで、ベッドにもぐりこんだ千歳のそばにつきそっているのは、僕と星華だ。
仕事をサボる星華がこしらえたお粥を何とか食べた千歳は、またふとんにもぐりこんで、隙間から瞳にだけ白熱燈を許している。千歳にふとんをかけた星華はベッドサイドに腰かけ、僕は床に座って同じ目線で腕に頭をもたせかけている。
「ほっといてもいいよ」と千歳は重い疲労を越えて透いた浮遊感のある声で、もう少し身を丸める。
「ほっといてほしい?」
「……僕は嬉しいけど」
「じゃあ、いるよ」
「…………、何か、鬱陶しいね。ごめんね」
千歳は浅く呼吸を吐き、怯えて逃げるようにまくらに目を落とす。
紡麦がどろりと寝返りを打って、唸っている。
千歳はまくらに頬を安定させると、僕たちを見た。
「希月と星華って、寝るんだよね」
「えっ。あ──まあ」
「どんな感じなの」
臆した僕は、同じ色合いの星華の瞳と見合う。それでも千歳の口調は、童貞の中学生のような感じはない。だから肉体的なことでなく、「楽しいよ」と精神的な面を僕は口にする。
「楽しい……」
「な、何でそんなん訊くの」
僕がさらなる説明より照れ咲いすると、千歳はつられて咲いそうなったが、沈殿に引きずられてやっぱり咲えなかった。
「何か、いやらしくなさそうだから」
「いやらしくない」
「そういうのとは違いそう」
千歳は壁に飛び散ったみたいにべたべたするポスターやピンナップを見、「あんなやられ方、冗談じゃないよ」と星華は眉を顰める。
「まあ、ポルノほど派手なもんじゃないよ。でも映画みたいに美しくもない。人によるけど」
「……ここでは、しないの」
「えっ」
「僕が、邪魔?」
沼に棲む魚のように、虚ろがひそんだ瞳で、千歳は喉だけの乾涸びた咲いをもらす。「そんなんじゃないよ」となぜそんなふうに思われるのか混乱しつつ、僕は腕に預けていた頭を上げる。
「ここは、そういう部屋じゃないし」
「……僕がいるからだよね。ごめんね。僕ってどうして荷物にしかなれないんだろ」
「千歳──」
「……うるさいね。ごめん」
「謝らなくていいよ。何で。僕たち、そういうこと千歳に言った?」
千歳は哀しそうな粘膜に言葉を奪われ、何も言わずふとんにもう少しこもった。
僕と星華が再び顔を合わせていると、「みず……」と紡麦がなめくじみたいにゆっくり発音し、星華が仕方なさそうに立ち上がる。
僕は降りそそぐ暖房と千歳の体温で温かいふとんをさすった。髪がかかってよく見えない向こうで、「何で」と千歳はぎゅっと目をつむる。
「あんなに、怖かったんだろ。怖いんだろ。すごく、怖いんだ。希月たちじゃない人間が、全部気持ち悪い。テレビの中にいるのも耐えられないなんて、何がいけなかったんだろ。いつの間に僕はこんなにダメになったのかな」
冷蔵庫を開ける音がする。僕は千歳をじっと見つめ、「ごめんね」と千歳は睫毛を震わす。
「甘えて、役に立てなくて。どうして、何が気に入らなくて、僕は強くなれないのかな。ここにしがみつくばっかりで、希月の自由を奪って、変なもの追いはらいもできなくて」
「………、だからってここ出てったりしたら、一番怒るよ」
千歳は僕にわずかに目を開き、「引っぱたいてやる」と僕はにやりとする。
「気にしなくていいよ。気にしなくていいぐらい、千歳はこの部屋を守ってくれてる。そいつが来たのも、千歳が悪かったわけじゃない。確かに気味悪いけど、それを千歳のせいにはしないよ。僕たち、みんな、やましいんだよ。もし僕の、……父親とかで、千歳に巻き添え食らわしたら、こっちこそごめん」
「希月は悪くないよ、ぜんぜん──何にも」
「千歳もね」
僕はふとんをぽんぽんとすると、「休みなよ」と言った。
「こんな天気でもあるし、僕たちは今日はずっといるし」
「……うん」
「外にはさ、出なくていいんだ。だけど、自分に閉じこもっちゃダメだよ」
千歳は僕の瞳を見つめて、こくんとうなずくと、力を抜いて睫毛を伏せた。陰りに目を凝らすと、千歳の目の下には蒼ざめた隈がある。
鬱状態は、沼にハマるのと同じだ。頑張ろうともがくほど、藻が絡みついてさらに沈み、ひとかきでひどく体力を消耗する。
ゆっくりしたほうが、かえって乗りこえられるのだ。僕が見守っていると、千歳の取り留めのない微睡みは、深い寝息に取りこまれていった。
「誰だったんだろうね」
悪ガキでがさつなくせに、星華はマシな料理が作れる。だから、よく千歳を手伝ったりもしているが、彼女曰く、家庭では家事をさせられていたらしい。
ミネラルウォーターで頭痛薬をあおった紡麦は、まだ床でへどろをやっているので、僕と星華が座卓でオムライスにありついた。
立て膝で頬杖でスプーンをかじる星華は、さなぎのようにふとんにすっぽりくるまって眠る千歳を見て言った。
「すごい行儀だな」
「話、聞いてる?」
「僕の父親かもな」
僕は無頓着な顔で、おいしそうなきつね色に冷たいケチャップをかける。インディゴブルーがすりきれた膝はおろした星華は、僕を見つめる。
「何であんたの父親が来るの」
「あの人、僕のことは嫌ってなかったし。じゃなかったら、母親が行方不明で、僕んとこじゃないかって探しにきたとか」
「もし母親がここに来たら、入れる」
「…………、ありえないこと考えてもしょうがないだろ」
「そお? 来るかもしんないよ」
銀めっきのスプーンを、魔法のステッキみたいにくるくるとさせてにやつく彼女に、僕はケチャップのふたを締めながら仏頂面になる。たまごをふたつ使ったのか、千歳のオムライスよりたまごがぶあつい。「できる限りのことはするよ」と僕は静かにケチャップを置いた。
「できる限り」
「でも、ほんと、かあさんはここに来ないと思う。ここで僕が父親と切り離された生活送ってるなら、場所突き止めても、そっとしとくんじゃないかな」
「愛されてるのね」
「もし普通に見捨てられたこと怨んでたら、それはそれで来ないだろ」
僕はたまごがかかったチキンライスを食べ、グリーンピースに頬を引き攣らせる。「何でこんなん入れたんだよ」と文句をつけると、「入ってたんだもん」と星華はチキンライスはインスタントであることを言う。
「ごはん、もうなかったしさ」
「買い物行かなきゃな。洗濯も」
見まわした足元には、脱ぎ散らかした四人分の服がくたばっている。もちろん今日は行かない。
「星華も家事できるんだよな」
「千歳みたいな、フランスの家政婦と同じ才能はないよ」
「フランスの詩小説に出てくる家政婦な」
「めちゃくちゃを片づけるのは得意だよ」
「逆の才能だな。ん、男の部屋もぐちゃぐちゃって言ってなかった」
「勝手に捨てたり置き換えたりしたら、代償がすごいの」
星華はスプーンの裏で、乾かないインクを擦るようにオムライスのケチャップを伸ばし、「ねえ」と頬杖をといて僕を正視する。
「来た男って、あいつってことはないかな」
僕はもぐもぐしつつ、「あいつ若かったじゃん」と飲みこんで言う。
「二十いくつかだろ」
「二十四。でもあいつ、酒と薬で声老けてるし」
「そいつだったら、お前の何にそんなに執着してるんだろうな」
「るさいな、あたしに手出ししてる男の分際で」
「あの男に星華の良さが分かんのかな」
「ただの金蔓だろ」
「あー、なるほど。あの男だといいんだけどなあ」
「はあ? 何でよ」
かわいくない顔をする星華に、「顔合わせて追いはらえるじゃん」と僕はにやりと返す。星華はそれでも不愉快そうにお茶を飲む。
「ビビって耐えながら相手があきらめるのを待つってパターンが最悪だよ。脅して、それで効かなきゃ殺す」
「殺して、誰が片づけるの」
「シチューにして、ほんとに人肉が鳥肉に似てるか試そうか」
「あたしは食べないよ。何か感染しそう」
「あー。じゃ、野良犬の餌にして、骨は海に捨てる。いや、加工すれば売れるかな」
星華は僕を眺め、「希月って変だよね」と述べた。「知ってる」と僕はオムライスをスプーンいっぱいにすくって、口に押しこむ。
星華は紅茶色の髪を背後にやり、「あたしの父親ってのはないと思うの」と話を修正する。
「そう?」
「あいつ、あたしが邪魔なんだもん」
「ま、そうか」
「千歳が知らない声ってことは、千歳の親ではないんだ」
「だね。でも、千歳の親が押しかける可能性は、すごく高いよ。僕たちが非行に引きずりこんだとかで、金切り声で通報して、僕たち豚箱だよ。千歳は精神科かな」
星華はうんざりした様子で、「しつこいけどサツとは関わりたくないの」と餌を集めるりすみたいに頬をむくれさせた。
「冬場のホームレスじゃなきゃ、誰だってそうだろ」
僕は五百ミリリットルペットボトルのコーラを飲みほす。気泡が喉を弾けていく。
「つっても、踏みこまれたらおしまいだな。この部屋って玉手箱」
「ワイドショウには、おもちゃ箱ね」
「僕と紡麦のやってること見ると、そのへんはいつ来てもおかしくはない。けど、もしそいつがサツだったら、帰ったりせずにドアたたきわってるよ。警察だって名乗るだろうし」
「そうね」と星華が納得したとき、ごそっと千歳が身じろいで、僕たちはそちらを見る。ただの寝返りみたいだ。僕はスプーンをくわえ、ずれた毛布を引っ張ってかけなおす。
「じゃ、やっぱ誰かに関係してる大人なんだね。紡麦関連ってあるかな」
「父親とか」
体勢を戻しかけていた脇腹に突然何かがあたり、「痛っ」と眉を顰めて右手を見る。あたったのはたぶんこの漫画で、うつぶせる紡麦が、窓辺でこちらをうかがう女幽霊みたいな怨みがましい目をしている。「冗談だよ」と僕は脇腹をさすって、漫画もそのあたりにはらいのける。
「あんがい、ただの家賃の請求じゃない」
星華が軽く笑い、「払ってるよ」と僕はやや渋面する。
「じゃあ、セールスマン」
「千歳もそんな、見境なくビビるわけじゃないよ。僕たちの誰かに迷惑な奴なんだ」
「これまで、そんなの来たことあった」
「ぜんぜん」
星華は神経質な皺を眉間によせ、「あたしのような気がする」と再び頬杖をつきながらスプーンを噛む。
「それ、僕が買ったものなんだけど」
「言ったでしょ、ここに来て十日ぐらいだって。キリいいじゃない」
「そう?」
「あたし、ここの出入りにこそこそしたりしてないし」
「だからあの男」
「とか──」
「………、別の男?」
星華は僕をちらりとし、お茶を飲んだ。僕もオムライスを口に含み、またグリーンピースの場違いなまずさに眉を寄せる。
いずれにしろ、そいつが敵なのは確かだ。侵入者なのだ。僕たちの部屋を、無分別な秩序でかきみだす。
茶化して話していても、僕だって不安だ。怖い、と言ってもいい。できればもう来てほしくない。放っておいてほしい。
なぜ来るのだろう。何だろうが、敵がこの部屋に許されることはない。不愉快だ。吐きそうにべたべたする。怖くて鬱陶しくてうんざりする──
揺らめく心象が、あの忌まいましい記憶の心象によく似ている。あの家庭は、僕の苦痛の体言だ。だから、あの家庭がよこしたものに通じるものを与えるものは、容赦なく僕の“敵”としてプログラムされる。
胸にまといつく暗澹とした霧は、あの黒い湿気を増殖させる力を持っている。関係ないと切り離そうとしても、何も見えない霧は抵抗を失速させて僕の目を奪う。安い電燈がもらす、蠅の羽音みたいな耳障りが聞こえる。湿気が充満すれば、電流はびしょ濡れになるだろう。千歳が鬱に昏睡しているあいだは、感電しないでほしい。
朝食を食べおわった僕は、ガラス戸を向いた。カーテンの隙間で、雨は相変わらず陰気臭くて、効きすぎた暖房がぼんやりしている。リモコンで室温を調整し、ベッドに背中をあずけてコーラを舐めた。
星華はだぶだぶのトレーナーとジーンズの背中を向けて食器を洗っている。
紡麦が、墓場から起き出すゾンビのほうがまだ機敏なぐらい、ぐったりと身を起こす。そして、首を折って天井に喉を剥き、舌を垂らして眼球をぐらつかせる。
「頭痛いよお……。あー。うー……。追加やれば止まるかなあ」
紡麦はだるそうにトマトのリュックをあさり、「やめとけよ」と僕が口を出すと、唸って座卓に突っ伏す。
「風邪ひいたんじゃない?」と昨日帰り道で、葉っぱに浮かされるまま、ひらひらと雨の中を踊っていた彼を思い返して言う。「かなあ」と紡麦は頬をふくらませ、「じゃあ風邪薬」とこちらに手を出して、僕はその手をはらう。
「今は何飲んでも効かないだろ」
「風邪薬の耐性はできてないよー」
「千歳のお粥残ってるんで、それ食って寝とくんだね」
「絵本読んでー」
「絵本なんかありません」
「痛いー。痛いー。ママー」
僕は紡麦の後頭部を見つめた。紡麦は僕に上目を遣い、舌を出す。僕は身を起こすと紡麦の頭をはたき、「うおっ」と額を抑えた彼に、頭痛が本当なのは確認する。
キッチンの食器をすすいでいた音が止まる。
紡麦はふくれっ面で、左腕に顎を預け、腫れぼったいまぶたを右手でこすった。
「ここんとこ帰ってないなあ」
「帰りたい?」
「別に。そろそろ死んでるかも。どっちが死ぬの早いかな」
「紡麦は昨日来た男、心当たりある?」
「えー。かあさんってのはないだろ。たとえあの人が実は男だったとしても。だいたい俺を訪ねるなら、こことは限らないじゃん。いろんなとこで寝泊まりしてるし。つーか一応まず家行くだろ」
確かに。「でもここにいるのが多いし」と言うと、「そんなことまで知ってるなら、俺の友達かストーカーだね」と紡麦は興味なさそうに子犬みたいなあくびをした。
手を拭く星華にも聞こえたのか、彼女は物言いたげに振り返る。やっぱりね──そんな目だ。
そうなのか。僕か星華か。だとしたらいまさら僕目当てが来るより、来たばかりの彼女狙いというほうが自然か。
ほかの男、というのに星華は心当たりもあるようだった。
「何か食べる?」と紡麦に訊いて、「食欲ゼロ」と返される星華を見つめ、僕はふとんを被る千歳に目を移す。
僕はまだ、星華をほとんど知らない。僕も彼女に話していないことがたくさんあるように。
星華の敵だとして、ひとつ好都合なのは、絆しなく攻撃を仕掛けられることだ。シーツの匂いに頬を当てると、千歳の柔らかな寝息が聞こえる。その寝息に聴き入って、星華と紡麦の会話を幻のように耳に霞ませながら、これ以上あるなら星華に訊きこまないとな、と僕は闇に伝う銀の糸を見つめた。
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