空の雫-23

謎の男

 千歳の鬱状態は三日間じっくり続き、今週は紡麦ひとりでおろしに行ってもらうことにした。
 千歳は「大丈夫だよ」と気にしたけど、「今、変な奴が来たら大丈夫がダメになるだろ」と僕はそばにつきそった。星華は仕事で、部屋には僕と千歳しかいない。千歳は起き上がって、アニメを観れるようにはなっていた。
 それでも、いつもは笑うところでも無表情のまま、感情を弛緩させてぴくりとも反応していない。僕の肩にもたれ、短絡的な物語を軽視したような、冷めきった眼をしている。もちろんそれは、機械に温柔な表情がないようなものなのだろうが──そんな比喩は、人間としての千歳を案じさせる。
 そして僕は秘かに、彼もそんな瞳ができることにはっとする。
 けれど、四日目には僕と星華より早く起き、香ばしい朝食を作っていた。僕が目覚めたのに気づくと、「おはよう」とひなたに干したふとんのように柔らかく微笑んでくれる。
 かくしてその日の僕は、いつものバーに紡麦と落ち合いに行った。
「行った?」
「昨日ね」
「使ってないだろうな」
 今日もまた遅刻してきた紡麦は、「今すぐ預かってください」とトマトのリュックから出した、ファーストフードのロゴが入ったふくろを僕の迷彩ヒップバッグに押しこむ。かじったな、と察しつつ、ひとりで行かせた時点で覚悟していたので見逃しておく。
「風邪治った?」
「風邪だったのかしらね。ま、頭痛は取れました。千歳はどお」
「今日は朝飯作ってた」
「そっ。ちなみに昨日一昨日は、俺なりに来訪者を気にして、よく泊まるとこに顔出して訊いてみたのよ。そいつらんとこには、おっさんなんか来てないって」
 僕と紡麦は顔を合わせ、「ふむ」と僕は頬杖に沈む。
「何者なんでしょうねえ」と通りかかったウェイトレスに飲み物を注文した紡麦は、退屈そうに不快を見せる。この街で生まれ育った紡麦は、余計に外界に根づく尋常な社会人を軽蔑している。今回ばかりは、ちっとも楽しくも何ともないのだ。
 あの日紡麦は、カップの底に濁った茶葉より混濁していたので、僕は改めて星華関連の可能性が高いことや、僕に関わっているかもしれないことを話す。
「何にせよ、あんまりうざかったら殺す」と酒に唇を浸す紡麦はあっさり決断し、「……だね」と少々、大胆な親分に振りまわされる子分の気持ちで僕はうなずく。
「殺しなんてインスタントだよ」
「動脈切れば一分だしね」
「心臓撃ち抜けば一秒。絞殺だって五分だよ」
「五分は長くない?」
「そお?」
「カップラーメンができる」
「そう言われると長いな。社会でこまねずみやってる奴は、あとは死ぬだけとおんなじだからね。殺したってむしろ尊厳死」
「安楽死じゃないの」
 紡麦が来るのを待つあいだに、香りまで冷めたコーヒーをすすり、苦みだけ残ったまずさに僕は眉を渋くさせる。
「自分が腐ってる自覚があれば安楽死だけど。無理でしょ。分かってないから腐るんだし。腐る前に死んだほうが、落ちぶれを経験しなくて幸せだよね」
「でも、そんなんでも、殺したら一応、法律に反してるとかでぶちこまれるんだよ」
「ふん、法律に反してるなんて一種の勲章だよ。自分の作品の迫力を証明するために、上映禁止になってほしがった映画監督いたじゃん。規則は破るためにある、ってことわざもあるだろ」
「あった?」
 そんなわけで、僕たちはスツールを立ち上がり、仲間への横流しに出かけた。
 僕はカーキのジャケットに黒いマフラーを巻き、紡麦は黒いナイロンジャンパーに茶色と白のネップいりニットキャップをかぶる。
 十二月に入って、一週間が過ぎていた。千歳の鬱に重圧をかけた雨を境にぐっと寒さが深まり、刺すような風が肌を痛みの末、麻痺させていく。いつしかはっきり色づくようになった息が、赤と緑のクリスマスっぽいイルミネーションに消えていった。
 年末はパーティが増えて需要が高まり、値段も高騰する。人混みをかきわけて、目的地に着いてはまた別の場所に飛び、小遣いが貯まったのは三時前だった。
「このあとどうする?」
 仲間を見送って、バーに残った僕と紡麦は顔を合わせる。周りのテーブルにいるのは、酔いつぶれてグラスに突っぷす落伍を落伍した大人たちばかりだ。薄暗い店内は、陰気に酒臭い。
「一時間くらい余裕あるかな」
 紡麦に問われて腕時計を覗いた僕は、そう答えた。
「今日は買い物して帰らなきゃ。三日以上買い出し行ってないし」
「洗濯した?」
「今日行った。紡麦のもやったよ」
「じゃ、今日は希月んとこ行くかな。一時間どうする?」
「欲しいCDがあるんだけど」
「あ、俺も返さなきゃいけないビデオがあるんだわ。う、今持ってるかしらん」
 紡麦はトマトカラーのリュックを膝に乗せ、相変わらずフィストファックみたいに物を探す。引っくり返したり、取り出して並べたりでは探さないので、僕はその中に果たしてどんなものがどれほど入っているかを、よく知らない。
「あった」と紡麦がくりくりの瞳をスイッチを入れたようにぱちっと明るくさせたので、僕たちは椅子を立って会計に行った。
 紡麦が財布を探しているあいだ、僕は物音まで澱んだ店内を見ていた。ああいう大人も好きではないけれど、僕たちのなれの果てはあんなものだと思う。
 自分たちも年老いていくのは知っている。でも大人にならないことはできる。個性的に独立し、手懐けられない野性を持った人なら、いくら歳でも敵ではない。言い方を変えれば、“きちんと”大人になっているということかもしれない。僕たちが軽蔑する大人は、要するにガキっぽい。
 二十四時間営業のレンタルショップにいくと、紡麦がビデオを返すあいだ、僕はCDコーナーでインディーズのアルバムを何枚か買った。レジにいなかった紡麦を探して店内をうろつくと、彼は気むずかしい名作コーナーにいた。
「昨日観た深夜映画がよくてさ。でもノーカットじゃなかったんだよ」
 しかし、棚にないらしく紡麦はむくれている。深夜映画で紡麦が目をつけた良作は、地味すぎて店頭にないことが多い。
「何であんないい映画がないんだ」と胸倉をつかまれても、僕にはどうしようもない。「店員に訊いてこよ」と紡麦は食い下がりに行き、僕は時間帯的に子供もいなくて、静かなアニメコーナーに行った。
 千歳が観れそうなカートゥーンはあんまりない。千歳はどこから発掘されたものを観ているかというと、紡麦が衛星に加入する友人のところで録画してきたものを観ている。千歳がアニメを観始めたのも、紡麦にお気に入りの作品をお勧めされるまま観させられてだった。紡麦には、アニメももちろん芸術だ。
 新作にも、金をはらってまで観たいものはなかった。やはり置いてなかったのか、とってもかわいい顔で戻ってきた紡麦は、「ホラー行きますよっ」と飼い主を引っ張る気の強い犬みたいに、僕を前のめりにさせる。
「千歳がスプラッタ観れるほど回復してないんだけど」
「一週間のうちには治るだろ。きーっ、こうなったらゲロえぐいのを借りてやる」
 それで何がどうやつあたりになるのか、紡麦は猛烈にえげつなさそうな人食い人種の映画を借りた。食人族系の映画はなぜかポルノ要素が強いから僕も観たかったが、千歳の安定は守るつもりだ。
 紡麦がそれを借りるあいだ、僕は出入口で千歳に預かった買い物メモを見ていた。
 人が自動ドアから外の雑踏に溶けていくたび、暖房にぼやけた頭を適度に冷ます寒風が滑りこむ。フルーツガムを噛んだ息みたいな、甘ったるいポップスが店内にはかかっている。
 千歳のほっそりと落ちついた字をたどり、きっともう星華が帰ってるな、とヒップバッグにメモをしまっていると、ふと視線を感じて、僕はガラスの自動ドアを向いた。
 かちりと出遭った瞳があり、思わず嫌悪感に目をそらす。けれど、慌ててもう一度見直すと、相手も僕に気づかれたのに気づいて逃げ出そうとしていた。
 背広を着ていた。顔は行き交う人で分からなかった。何だ、と眉を寄せてその背中を視線で追おうとしても、ごちゃごちゃした混雑と闇で見失ってしまった。
「希月がタイプだったんじゃないの」
 ふくろを肩に引っかけてやってきた紡麦に話すと、彼はそう言ってけたけたと笑った。僕は紡麦の後頭部をはたき、渋い眼つきでマフラーに吐息をこもらせる。
 紡麦は睫毛をぱちぱちとさせ、「来た奴かな」と僕のもやつく予感を無頓着に口にする。僕は紡麦に横目をすると、「買い物行かなきゃ」と自動ドアを抜けて、紡麦はリュックにふくろを突っこみながら追いかけてきた。
 スーパーで僕が食料品や日用品を買うあいだ、しばらく雑誌を立ち読みしていた紡麦は、自販機に空腹しのぎの飲み物を買いにいくと言って外に出ていった。ふくらんだビニールぶくろと五箱包装されたティッシュを連れてスーパーを出た僕は、右手の少し離れた自販機前に、ニットキャップとナイロンジャンパーの少年を見つける。
「紡麦──」
 ずれたマフラーの隙間からもれる白い息と言いながら、駆け寄りかけ、僕ははっと足を止めた。
 紡麦はひとりではなかった。といって、たかられているのでもない。自販機の光に浮かび上がって、紡麦と対峙しているのは、背広すがたの──。
 僕の声が聞こえたのか、紡麦はこちらを向き、それで男も気づくと、そいつは紡麦に何か言い残して行ってしまった。紡麦はその背中に顔を向けていたあと、缶を握らないほうの手をひらひら振って、駆け寄ってくる。
「買い物、終わった?」
「う、うん。何、今のおっさん」
「俺の父親」
 ぎょっと目を向くと、紡麦はコーヒーの匂いがする息と爆笑し、「冗談だよ」とガラス越しの店内の光でわりと明るいあたりの中、缶に口をつける。
「くそっ、冷めたな」
「じゃあ何者」
「名乗らなかった。ビビりましたわ、突然肩たたかれて。俺って臑に傷があるどころかナイフ刺さったままだし」
「何て。何か話してたよな」
「希月んちの住所行ってきて、お前はそこに出入りしてるかって。俺が探偵なら、あんな探り方はしないね」
「………、何て答えた?」
「無言でそいつが希月に似てるか眺めた」
「僕は父親になんか似てないからなっ」
「じゃあそいつ似てなかったよ」
 僕は一瞬まぶたと頬をひくつかせても、私情は後まわしにする。
「ほかには何か」
「そこに星華って女が出入りしてるのは知らないかって」
「……星華」
「『何で』と今度は訊いたら、君が答えるのが先だって」
「で、どうした」
「そこで希月が俺を呼んだ」
「……ごめん。何か言い残してなかった?」
「あの彼に、あの女はやめておけって言っておけって」
「あの彼って──」
「希月だね」
 男が消えた、息を引き取りかける夜の雑踏を見やった。空はまだ闇を遠くまで飲みこんでいても、この冷えきった空気は四時を大きくまわっている冷度だ。人通りの半分は、朝帰りの帰途だろう。
「おっさんだったよな」
「だね。三十ちょいくらい。まさかあれが例のヒモ」
「背広のヒモがあるかよ。ヒモは痩せてて若かった。星華の客かな」
「あー。嫌ねえ、アイドルをストーカーする変態ファンか」
「どんな感じの奴だった? この時間に背広って、まさか──」
「ありゃ、そのへんのリーマンだね。何か偉そうだったから、お坊っちゃんじゃない。つーか、目が宇宙人のグレイみたいだったな」
 僕は眉間に皺を寄せ、冷気を浸透させる軆に身震いする。
 まさかあの男は、今日一日僕たちをつけていたのか。背広なんて目立つ格好の奴は、売買中には見かけなかったが。もちろん、取引現場自体もトイレや袋小路でしっかりやったけど、尻尾を取られた気がする。
「部屋に来たのはあいつだね」
 紡麦はつぶやき、ひとまず僕たちは部屋へと歩き出した。
「何の用だよ、あんな親父」
「星華に手え出すなってことじゃないの」
 紡麦はコーヒーをすすり、雪女の氷の息のように白い息をふうっと描く。
「ただの客が」
「アイドルを追いまわすのも、ある意味ただのファンだよ」
「……まあな」
「星華はあんなんとやるんだなー」
「………、しょうがないよ。仕事だし」
 紡麦はにやにやとし、「今、嫉妬した?」と覗きこんでくる。「神経疑っただけ」と僕は顰め面になり、横だとすれちがいざまの人間にあたる荷物を正面に持ち直す。
「それ、嫉妬よりきついよ」
「仕事辞めろとは言えないだろ。養う金はないし」
「ま、ね」
「何しろ星華に訊かないと。これ以上関わってこられたらたまんないよ」
「千歳のためにもね」
 手は荷物にふさがっているので、僕は肘鉄をしておく。紡麦は笑いながらやり返し、飲み干した缶をすれちがった看板に置き去りにした。
 首をすくめさせる風が、深手を負った動物の警戒のように唸る。結局、その男が星華の何なのか、言い切れる見当はなかった。ただ、これまで消化不良だった断片がいくつかよみがえってくる。
“他の男”に心あたりがありそうな星華、例のヒモが彼女をぶちのめして口走っていたひと言──
『つけあがってたら俺がどうするか知ってんだろ、あいつに知らせるぞっ』
 あいつ。
 だが、奴が善意である可能性もなくはない。そんな予想はつらいけれど、僕たちはしょせん、星華をほとんど知らない。
 語られたことに裏づけもない。無条件に信じていた。
 彼女が僕たちに自分のこと晒すの嫌がらなきゃいいけど、と僕は不安をわだかまらせつつ、マフラーの中に息遣いを隠した。

第二十四章へ

error: