空の雫-26

取り引き

 目をつぶされた女たちに囲まれたいつもの部屋では、ブラウン管に人食い人種の映画が映っている。
 眺めているのは、染みついた睡眠薬で動物園の動物みたいにぐってりした紡麦で、千歳は朝食の食器を片づけ、星華は仕事に行っている。
 僕は一台の黒いメタル加工の携帯電話を持ち、それの着信履歴を開いていた。
 十二月十一日の月曜日、時刻は十九時だ。服や本やCDがごたごたした床に座り、暖房の風が後頭部にそよいでいる。
 その携帯電話は、ストーカーに番号を知られたみたいに、同じ番号だけ延々と並んでいた。一度呼吸を整え、ひと思いに通話ボタンを押すと、右耳に携帯電話を押し当てる。
 コールは思ったより焦れったく長引いた。だが、何とか途切れてくれた。留守電だったらと緊張したが、返ってきたのは、さいわい無機質な録音対応ではなかった。
『星華か』
 そんな早口の開口を、太い男の声が発する。僕は抑えて咳払いすると、震えそうな膝をたたいて締まらせるように、心を決めて口を開いた。
「初めまして」
 いったんまごついた沈黙が置かれる。それから、『誰だ?』と警戒のこもった口調が鼓膜を威圧してきた。
『その携帯は彼女の──』
「あなたに押しつけられた携帯を、彼女が律儀に持ち歩くと思いますか?」
 またも言葉があとずさって、沈黙が残る。しかし僕が誰なのか、彼がポロライド写真のように心あたりを浮かべていくのは、電話越しにも分かった。
『君は──星華と暮らしてる男だな』
「まだきちんとは暮らしてません」
『何の用だ。星華に頼まれたのか』
「だったら、こそこそ彼女の携帯いじったりしません。僕の周りの人間に、あなたがつきまとってるみたいなんで」
『つきまとってるのは君のほうだろう、星華は僕の──』
「僕に言えばいいじゃないですか」
『部屋に行ったとき、居留守しただろう』
「あのときいたのは、引きこもりの僕のいとこです」
 いとこなんて嘘臭いが、真実なのだから仕方ない。水音をあつかう千歳が、不安そうに僕を一顧する。
『……そうなのか。じゃあ脅かして悪いことをした』
「ずいぶん星華に入れこんでるんですね」
『星華は私のものだ』
 私、という自称は息まいていて尊大に聞こえた。
『君には渡さん』
「別にいりませんよ」
『何?』
 相手役が台本にないことをしゃべりだしたような声に、「あなたが勘違いしてるみたいなんで」と僕はベッドに背中をもたせかける。
「こうやって電話したんです。今、時間大丈夫ですか」
『運転中だ』
「停めてゆっくり話せますか」
『何を話すんだ』
「星華をあなたに返したいんです」
 まるで手の中に爆弾を投げこまれ、慌ててほかに投げるもせず、ぽかんとそれを見つめるような絶句が来る。その息遣いは狼狽えていた。
『き、君は、星華の何だ』
 猜疑をぬぐえないのか、彼は狼狽や怪訝を綯混ぜにして言う。
「行きずりの男ですよ。こっちも迷惑してるんです。ちょっと部屋に入れたら、調子に乗って入り浸って。あなたみたいな引き取ってくれる人がいるって分かって、正直ほっとしてます。僕はきちんとひとりの女に決めるような男じゃないんですよ」
 床に仰向けになって、映画に上目をしていた紡麦が、いつのまにか起き上がってこちらを観察している。
「信じませんか」と僕は視線を爪先に据えて、低く含み咲う。
『いや──』
 雑音に紛れそうな、ぼんやりかすれた声だ。
『考えてもみなかったよ』
「そうですか? 僕がそんなにまじめな男に見えたなんて、光栄ですね」
『………、君、ちょっと、そのまま待ってくれ』
 ごそごそと物音がくぐもる中に、かすかなクラクションが重なる。
『──あさっての十三時は空いてるか』
「いつもヒマですけど」
『会って話したい。そこに星華はいるのか』
「いたらこんな本音話せませんよ」
『そうか。会社の昼休みだから、その近くで会いたいんだが』
 どこだってよかった僕はふたつ返事し、彼の会社のそばだという喫茶店の場所を教わった。じゃあそのとき改めて、と穏便に僕と彼は電話を切る。
 紡麦と顔を合わせ、こちらに来た千歳とも瞳を交わす。にっと笑って見せると、ふたりはそれぞれに安堵を表し、僕はぱたんと携帯電話をふたつ折りにした。
 男の会社の最寄駅は、僕と紡麦がよく狩りにいく駅だった。が、そこからバスを乗り継がなくてはならず、見分けのつかない高層ビルに取り囲まれた真ん中で降りる。巨大な灰色の積み木を、お片づけしていないような場所だ。
 鏡の館みたいにこんがらかる同じようなビル、似たような角、さっきも見た通り──漠然と冷たい風が抜け、排気ガスや安い煙草の煙たさがときおり襲ってくる。
 喫茶店を見つけるまで一緒だった紡麦は、「俺、こういう場所、大っ嫌い」と錆びついた自販機に唾を吐き、いらいらとふくれっ面になっていた。
 当然うろつくのは、折り目正しい背広にネクタイの地上人だった。大人は僕たちのだらしない格好が見分けがつかないと言うけれど、そちらはもっと見分けがつかない。
 紡麦は軆に合ったジージャンを着て、ダメージ加工のパンツをあきらめてきた。僕もグラフィックパーカーはともかく、鋲ジーンズはやめてきた。が、予想以上の堅苦しさに、結局浮いている。
 制服を着たガキみたいに取っつきがない景色に、迷子になりそうになったが、何とか携帯のナビで喫茶店にはたどりつけた。雑居ビルの合間に、犯罪者の潜伏所みたいにひっそり建っている。陰気な喫茶店、けばいキャバ嬢、大人の安らぎはしょぼい。
 時刻は十三時を少しまわっていた。紡麦はそのへんに身をひそめて、僕はひとりで、なじみ以外開けにくそうな木の扉を開けた。
 蒸し暑い店内は、昼食時の大人だらけだった。間違って女子更衣室に入ってしまったみたいに、頬がぴくりと気まずくなる。そもそも、よく知らないあいつの顔を、こんな中で判別できるだろうか。
『グレイって知ってる?』
 慣れない場所で僕が切れないように、見張りとしてついてきた紡麦は、前知識としてそう言った。
『グレイ』
『宇宙人の。あんな顔だよ』
 グレイ。茶色が基調の地味な店内を見まわそうとしたときだ。
「お客様」と若めのウェイトレスが近づいてきて、「お連れ様がお待ちになっております」と勝手に僕を案内した。だいたいのテーブルでは、こせこせした時間に縛られて、食事がいそがしい大人が溜まっている。
「遅いんで心配していたよ」
 ウェイトレスが去った、ふたりがけの席で待っていた男は言い、僕は腕時計を一瞥した。“13:06”──僕としては、かなり正確に到着したのだが。
 僕は男の顔を見た。グレイ。確かに。吊り目の上に寄り目、PCで悪戯加工されたみたいに宇宙人っぽい。肌は生白く、髪は思ったより多く、体質も脂ぎっても乾涸びてもいない中肉中背──だが、残念ながら、顔はグレイだ。目つきに汗ばむ傲慢さが、僕の神経を引っかいた。
「こんな場所、普段来ないんで」
 僕は正面に腰かけ、同じウェイトレスにコーヒーを注文する。彼女が去ると、「いいんですか」と冷水は無視して訊く。
「こんなところで」
「君が困るかい」
「これから、何の話するか分かってるんですか」
「誰ものんびり隣の話に聞き耳を立てたりはしないさ」
 まあそうか、と周囲を一瞥する。面する席とは、通路なり仕切りなりが置かれてはいる。
「手短に話そう」
 そう言う彼の前の食器は空で、もう何を食べたのかは分からない。
「君の電話には驚いたよ。本気なのか」
「冗談で僕があなたに近づくと思いますか」
「……まあ、そうだな」
「あなたのことは彼女に聞かされてます。彼女はあなたが気に入らないみたいですけど」
 グレイは芝居がかって仕方なさそうに笑うと、「分かってくれないんだ」と目を遠くさせる。
「僕がどんなにあの子を想っているか」
「奥さんと娘さんの次に、でしょう」
「家庭を捨てたら彼女は振り向くのか? 彼女を愛するのに家庭は関係ない。私は彼女と家庭を作りたいわけではない」
 えらそうにしたいときは、私、と自称するくせがあるようだ。
「ただ愛したいんだ。それぞれ別格なんだよ、彼女と家庭は。きちんと両立させて、どちらかを裏切る気はない」
 僕は笑っておいたが、ぜんぜんその詭弁が理解できなかった。
「彼女をあっさり見捨てる君には、分からないかもしれないがね」
 苦笑にひそんだ軽蔑を僕はもちろん察知し、ナイフを持ってこなくてよかったと本気で思った。
「君がそういう男でよかったと思うよ。運命かもしれないな。彼女は僕の元に戻るという」
「そうですね」
 テーブルの下で中指を立てながらうなずき、早くこの場を切りあげなくては危ない澱みを感じる。
「で、話なんですけど」
「ああ、彼女を説得でもしてくれるのかい」
「だったら、こっちで勝手にやってます。僕も良心がないわけじゃないんですよ。だって彼女、可哀想じゃないですか。そんな子を平然と突き放すなんて、できないんです」
 彼は僕を見た。僕は冷血動物の冷たい無表情を作った。
「目をくらませてください」
「いくらだ」
「百万」
 グレイは鼻で息をつき、椅子にもたれかかった。そこにひらひらと湯気の舞う苦い香りのコーヒーがやってくる。砂糖もミルクもまぜて口をつけても、砂利を挽いたみたいにまずい。
「その金額で何をしてくれる?」
「彼女をお返しするんです」
「彼女が納得する切り札でもあるのか」
「納得なんかさせません。僕は彼女をあなたに売るんです」
「………、何か案が?」
「あります。金をくれたら、絶対に彼女を返します」
「なぜ言い切れる」
「胡散臭いなら、なかったことにしてもいいですよ。だいたい、仕事帰りの彼女でも襲えばすむと思いますけどね」
「彼女に手荒なことをする気はない」
 グレイは紳士ぶって背筋を伸ばした。
「あんな仕事も、自分で食べていきたいからと言うからさせてやってるんだ。そばにいてほしいだけなんだよ。今彼女は、君のところに入り浸って、僕に顔も見せてくれない」
「縛っておいたほうがいいですよ、あんな女」
 僕は泥水みたいなコーヒーを飲み、「どうなんですか」と頭の中の湿気をこらえて、焦れったくつめよる。
「この話、受けるんですか。断ってもいいんですよ。そしたら、彼女がどっかに消えるだけですしね」
「……先に金をはらうのか」
「どう譲っても、引き換えですね」
 グレイはもったいぶって眉を顰めていたが、答えは決まっているようだった。「支払い方法は」と言われて、僕は初めてセールスマンみたいな笑顔を見せた。
「今週の土曜、ここに来てください」
 僕はジャケットのポケットから、モーテルのマッチを取り出した。部屋番号や日時が落書きされている。僕は自分の伝票を取って、早いところ席を立った。
「そこで彼女をしっかり串刺しにしてやってくださいね。出戻りされちゃ迷惑ですから」
 ──早朝の千歳とふたりきりの部屋で、僕は神経質な顔で床に立て膝をしていた。
 食事はとったけど、シャワーを浴びなくてはならない。
 外では小雨がぱらつき、土砂降りより重さが胸に染みこむ雨音が続いている。
 少ない食器を片づけた千歳がそっと歩み寄ってきて、「大丈夫?」と心配そうな色を溶暗にちらつかす。僕は彼を見上げると、水気が冷たいその手を取って、隣に座ってもらった。
「ほんとに、いいの?」
「もう引けない」
「……怖くて」
「千歳には何もないから」
「自分なんか、どうでもいいけど」
 僕は、うつむく千歳の蒼い頬を見つめた。「ごめん」とその頬に触れると、千歳はわずかにそこに色を差し、「大丈夫なのかな」と震えそうな睫毛をどうにか上げて、僕を見つめる。
「分からない。今のところは、うまく行ってる」
「星華をまた、そんな目に遭わせるなんて、やっぱり……」
「仕方ないんだ。こうでもしなきゃ、あっちに何されるか分からない」
「………、」
「家には戻りたくないだろ」
「……うん」
「僕もだよ。そのためには、犠牲が必要なんだ」
 千歳は僕の手を握った。僕の体温が彼の手に伝って、広がっていく。「うまくいくよね」と千歳は足元を見据えて、自分に言い聞かせるように言った。
「型通りにしか動けない人たちだもんね。僕の親もそうだった。信じられないくらい、変わろうとしなかった」
 僕はまぶたを緩め、視線は床のポルノ雑誌をうつろった。しっかり、黒のマジックで目をつぶされている。
 グレイのような人間は、社会のそこかしこで大量生産されている。あの一見でたらめな“両立”も、平等だの博愛だの、そういうのことの延長線に過ぎない。僕はそういう生温さは嫌いだ。半端な灰色が一番癪に障る。
 でも、精神性の狂暴な曖昧さは知っている。おとなたちは逆に、そういう曖昧が理解できないのだ。
 僕たちとあいつらは、いつも逆様に立っている。そんな敵の中に送り返し、星華には悪いことをすると思う。しかし、僕たちも完璧ではないのだ。
 千歳が肩にもたれる。首筋をくすぐった柔らかな髪に、彼の匂いがする。
 雨音は心臓のもやつきをかきたてた。
 僕も千歳にもたれかかると、焦げつきそうにはりつめる神経を束の間休ませ、ため息をついた。

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