賽の行方
数年後も、訪れないことさえ覚悟していた日は、思ったより早く訪れた。
その日は木曜日で、僕も紡麦も小遣いを稼いでいた。部屋に帰宅し、おぞましい夢のように続いたというノックに怯えていた千歳に教えてもらうと、僕と紡麦は目を交わして、口元に鋭利な笑みを浮かべた。
年は明け、一月になっていた。正直、昨年中の年末に来たらバイトの支障になりかねないと思っていた。その山は越えたわけだ。
年明けにこじつけたパーティも落ち着いてきた一月の中旬、紡麦と落ち合いに出かけるとき冷えこむと思ったら、夜更けになって妖精の羽のかけらみたいな粉雪がちらつきはじめた日だった。
用意に一週間を費やした。バイトは僕が手早く済ました。千歳は憂鬱に蒼ざめて、ベッドに横たわっている。「希月のためと思えばできるだろ」と紡麦は千歳を励まし、僕はこちらを見つめた千歳に微笑む。
再びノックがやってきたのは、僕も紡麦も部屋に構えた、金曜日だった。
「星華が、君にどうしても会って話したいことがあると言って聞かないんだ」
背広野郎を部屋に入れるわけにはいかないので、出迎えた僕は、グレイと近場の喫茶店に行った。行きつけのバーは変なうわさになると面倒なので、やめておいた。
時刻は二十時をまわっている。彼は仕事帰りなのだそうだ。
夕食時の騒がしい混雑を縫って、壁際のふたりがけの席に行き着くと、やってきたコーヒーをすすって、彼はそう切り出した。
「星華が」
「その話が何かは教えてくれないんだがね。まあおそらく……」
「僕をぶん殴りたいんでしょうね」
僕はグレイが飲むのと同じ、下手な香水みたいに香りが強すぎるコーヒーを飲む。
冷えた指先から体温が、じわりと溶けていく。
「彼女、今、どこにいるんですか」
「私が用意した部屋だ。金もやって、仕事も辞めさせた」
「軟禁ですね」
「君のアドバイスだ」
僕は少し笑い、「鉢合わせたくなかったですしね」とつぶやく。それから、妙に肩を威張らせるグレイにいい加減に微笑んだ。
「そこに行くんですか」
「いや、もっと──人目のつかないところで」
僕は眉をゆがめて、細目になった。
「人目」
「その──何だ、きっと、穏やかな話じゃないだろう」
僕はコーヒーをすすって、カップを受け皿に置くと、億劫なそば目とため息で椅子にもたれた。
隣の席では、恋人同士らしき男女が食事している。
グレイと向かい合うのはこれで三度めだが、水と油が混ざらないありきたりな正確さで居心地が悪い。
「ぶっちゃけた話、会いたくないんですけど」
「私も会わせたくない。だが、会わせないなら妻と娘に全部ばらすと脅されてね」
彼は大切な人のわがままを許すような苦笑をし、僕はこまねいてテーブルに陰ったスニーカーに目を落とす。
「それに、少なくとも君が恋しいわけではないようだ」
当然の条件として彼は言い添え、「そりゃそうでしょうね」と僕は爪先をストップウォッチが刻む秒間のようにぱたぱたといらつかせる。
「どうしてもですか」
「どうしてもだ」
「あなたも嫌でしょう」
「こうして話に来た時点で、僕は結果を決めているんだ。安全に。君たちのことは、もうよく知っている」
「脅迫ですか」
僕は上目をぎらつかせ、失敗したシュークリームがぷすっとしぼむみたいに、ふくれかけていた頬を冷まして立ち上がった。
「別にばらしていいですよ。あいつとまた顔合わせるなんて、」
「待て。だったら、ただでとは言わない」
僕はグレイに目だけ動かし、彼は僕の瞳を見つめた。反射的な嫌悪感にすぐ目をそらし、ひとまず椅子に腰を下ろしながら、磨かれた床に目をすえる。
グレイはじっと僕を捕らえ、僕は瞳に耐性を張ると、彼に向き直った。
「あいつに殺されるなんてごめんですよ」
「分かってる」
「僕ひとりですか」
「ああ」
「分かりました。いつですか」
「この携帯を持っておいてくれ」
グレイは、かばんからシルバーの携帯電話を取り出し、僕に差し出した。
「それに連絡を入れる。金は、その、話が終わったら渡そう」
承知して携帯電話を受け取った僕は、今度こそ椅子を立って自分の伝票を手にした。
あたりには話し声や銀器が食器にあたる何気ない音が散らばっている。それに紛れつつも、威厳の重みに低くした声で僕は言った。
「これ、何かの罠じゃないでしょうね?」
「まさか」
「もしふざけた真似を仕掛けてきたら、娘さんの処女いただきますよ」
グレイは僕を見、僕は冷ややかな笑みを口元に溶かすと、きびすを返していった。
翌日の夕方、シルバーの携帯にメールが入っていた。
一月十六日の火曜日、すなわち四日後の二十一時──「どこここ」と聞いたこともない地名に紡麦とGPSアプリで検索をかけると、五駅先のビル街のようだった。
「人目あるじゃん」
立て膝の僕は、シャンパンの瓶の口をつかみながらつぶやき、「そこって確か廃墟だよ」と紡麦はサラミの棒を食いちぎる。
「廃墟」
「お約束な感じの」
「行ったことあんの」
「五駅っつったら、前にヒカルたちとまわし打ちしたとこかと」
「……まわし打ちはやめとけよな」
「はあい」と紡麦が肩をすくめている横では、千歳はベッドの壁際で孤児のように膝を抱え、震えをこらえて心身症気味になっている。
「星華はどう咬みついてくるかな」
紡麦は見越したふうににやりとし、僕はわずかに臆して、息をつく。「半端じゃないだろうな」と甘い匂いのシャンパンをあおり、弾ける炭酸を飲み干して天井に喉を向ける。
ポルノポスターは相変わらずだ。
そう、星華は半端なく僕に牙を剥くに違いない。この一ヶ月で、彼女がどれほど苦痛を受けたかは僕には測れない。
紡麦はトマトカラーのリュックの中身を、いつもどおり腕を突っこんで整え、僕はふたをした瓶を床に置くと、ベッドによじのぼって千歳のかたわらに行った。千歳は膝に口を埋め、錯覚を見ているような目で、瞳の軸を失いかけている。
そそぐ暖房に温かい、柔らかな髪に触れると、彼は肩をこわばらせて僕を見た。そこには闇が沈殿しかけ、僕は少し咲いかけると千歳の怯えた手に手を重ねた。
「千歳──」
「……ごめん」
「え」
「希月も紡麦も、不安なのに」
「………、僕たちは慣れてるし」
「でも」
「僕たちのほうがごめん。無理させて」
千歳は僕の手を緩く握り返し、「怖くて」と息遣いに壊れそうに言う。
「千歳ならやれるよ」
「希月に何かあったら」
「僕は大丈夫。ただ、今回のことは千歳も混ぜてやりたいんだ。千歳が必要なんだよ。だから」
千歳は僕の瞳を、かろうじて残る澄んだところに映した。
温風が頬をかすっていく。
やがて千歳はこくんとすると、自分から僕の手を僕に戻して、小さく微笑んだ。僕も咲い返し、「よし」と紡麦が背後でリュックのふたをかぶせる。
「あとはそのとき次第だね」と言った紡麦に僕はうなずき、気分は押し殺し、肉食の牙と鉤爪を胸に養った。
紡麦の言った通り、グレイが指定した場所は町外れになる廃ビル街だった。
この町の倉庫みたいな場所なのだろう。壊されたビルの跡地がざらつき、そこに土管が積まれたり、はがれた屋根が重ねられたりしている。
錆びた臭いがときどき冷風に混ざり、人気は息を引き取って、時が立ち止まったように静かだ。砂利っぽいアスファルトを踏む足音どころか、息ざしさえも天に飲まれる暗い壁に響く。
ビルの住所は指定されていたが、何階のどことは指定されていなくて、橙々より赤っぽい街燈のもと、そのビルの表にもたれていた。一応、通りに面しているが、車の気配もない。
きめ細かく冷えた風に流れる吐息は、血をしっとり含んだように街燈に染まる。けっこうな演出だ。
五分も経つと、額を冷気に穿たれて頭痛が食いこみはじめた。まだかよ、といらついてうらぶれた周辺を見まわしたとき、かつっと不意に足音が聞き取れた。
身構えると、向こう岸の歩道から血の照明に現れたのは、相変わらず背広すがたのグレイだった。
ひとりだ。僕はかすかに眉をゆがめ、やはり何か企んでいるのかと、とりあえず体重を足に戻す。
指と関節が麻痺しかけていて厄介だ。
「今回は時間通り来てくれたんだね」
「調べてきましたから」
「そうか」という含み笑いに、白い息が幽霊のようにたなびく。
「星華はいないみたいですね。やっぱり何かの罠ですか」
「私も父親だからね。みすみす娘に手を出させるわけにも」
「こんなところ、僕をリンチして殺したいみたいですよ」
「星華がこういう場所がいいと言ったんだ。私は防音のしっかりしたホテルを用意しようとした」
「ふうん」と返す僕の眇目は、暗闇のおかげでグレイを正視できる。
「で、そのわがまま女は」
「少し離れたところだ。ああいうふうにしか会わせないと言えばあきらめると思ったんだが、それでもいいから君に唾を吐きたいそうでね」
僕は照明の血の色に染まった息をつくと、「じゃあそこに案内してください」と腰に右手をあてる。うなずいたグレイは、じゃり、と靴底をにじりつけるように身を返して歩き出す。僕は周囲に過敏な針を走らせながら、一定の距離を置いて、グレイについていった。
しばらく死んだような歩道を歩いて、路地裏に入り、黴臭いビルとビルの隙間を抜けた。そこはがらんとした灰色の跡地だった。
ビルが一本建っていたのではないだろうか。向こうはまた通りで、同じ赤みがかった街燈が数本並び、浅く闇を切り取っている。三方は取り壊す作業さえ投げ打たれたビルで、その中で左手のビルの窓辺に誰か立っていた。
暗がりと遠さで見分けがつかない。グレイはその人影に近づき、僕も接近して徐々に視界を鮮明にしていった。あたりへの警戒も緩めずに、息を殺して目をこらす。
風に揺れる長い髪をまず認めた。その色はわずかに届く街燈を受けて赤毛に見える。キャメルのコートを来ていた。柔らかな軆つきからして女だ。なぜか右腕を掲げていると思ったら、ガラスが外れた半開きの窓枠に手錠でつながれている。
眠っていた野生動物が、物音を感知して素早く目覚めるように、彼女は僕たちの足音にぱっと顔を上げた。
星華だった。
冷たい、模造じみていたガラスの瞳は、激しい高温に投げこまれてどろどろにたぎる。僕は軽く目をそらし、意識を失った指に白い息をかけた。
気がふれそうな静けさだ。グレイが立ち止まったので僕も足を止めた。
【第二十九章へ】
