空の雫-4

痛みで確かめるように

「今日はそっち行くかも」
 紡麦の映画につきあえない僕は、通常営業のクラブで遊ぶことにした。別れ道でそう言った紡麦に僕はうなずき、「毎日千歳は、紡麦のぶんも考えて飯作ってるから」と添える。紡麦は少し柔らかみを持って微笑むと、騒がしく人間が入り組む通りに消えていった。
 信じられないけど、紡麦は親と暮らしている。自分の部屋は持っていない、というほうが正確だろうか。僕と千歳の部屋を初めとした、友人の部屋に転々と入り浸り、家には月に一度帰るか帰らないかだ。「十六になったら部屋借りる」と彼は言っている。
 紡麦は普通なら中学三年生で、受験勉強に追い立てられている。しかし、この界隈で生まれ育った彼は、小学校すらまともに行っていない。
 私生児で、月一の家に父親はいない。母親はアル中で、紡麦を否定するあまり、人間の残骸と化しているという。
 紡麦の母親にとって、彼を生んだことは人生最大の汚点だった。彼女は酒ですべてなかったことにしようと、精神を穿つように飲んだ。グラスで後悔を紛らし、缶で義務を逃げだし、瓶で目を背ける。自分が紡麦の親だなんて認めたくなくて、酒に閉じこもっているうち、侵蝕が精神の致死に達して、まともに機能できなくなった。
 紡麦は、無感覚に暴力を振るう。ぱっと見ではナメられるのを逆手に取り、そのあとあざとく牙を剥く。
 そういう環境で育ったせいなのだろう。紡麦は母親にいないものとして放棄されてきた。黙殺を決めこまれ、見ることすらされなかった。だから紡麦は、母親をわざと怒らせ、せめて殴ってもらいながら育った。
 紡麦には暴力は痛みでなく、かろうじての存在確認なのだ。そして今、彼は愛情表現にはしないまでも、相手が傷ついているなんて思いもよらずに暴力を振るえる。
「『そんなざまじゃ、俺の父親もあんたを捨てるだろうな』とか言うんだ。だいたい、物投げられたりベルトでぶたれたり。怖いんだけどさ、何か落ち着いてた。めちゃくちゃ憎しみがこもった目を向けられると、怖いのと嬉しいのが混ざって、ぞくぞくした。鳥肌が立って、痛めつけてもらえて、何だってよかったんだ、相手にしてくれればね。『ふうん』って流されてこっち見てもらえないと、半殺しにされるよりつらかった」
 しょっちゅうつるみはじめたころ、『昨日母親のとこ行った』という彼の発言に驚いた僕に、紡麦はさくさくとしゃべったものだ。
「ほんとに稀には、手で殴ってもらえた。すごく嬉しかった。俺の肌に触れてくれたんだ。あのまま殺されたらよかったのに」
 そのとき、僕たちは道端に座りこみ、目の前を交錯する脚を見ていた。真夏で、深夜になっても熱気が取れずに息苦しかった。
 僕は自分のかあさんを思い出していた。僕が出ていき、かあさんは「お前の責任だ」だとか言われて、さらに父親に虐待されているだろう。されているに違いない。僕のせいで──
 僕は薄暗い心象から目をそばめると、黙って紡麦の母親への哀しい思慕を聞いた。
 その日、僕は早めにふらつきを切りあげ、千歳に託されたメモを参考に買い物をして部屋に帰った。時刻は五時半で、ひと晩かけて温度が息絶えた空気は、白く浅くなりはじめている。
 暖かい部屋でアニメを観ていた千歳は、「おかえり」といつもの微笑で迎えてくれた。「ただいま」とドアを閉め、あとで紡麦が来るものの鍵をかけた僕は、「はい」とビニールぶくろを差し出す。
「ひと通り買ってこれたよ」
 けっこう重量のあるそれを、千歳は両手で受け取って「ありがと」と胸に抱えこむ。ちなみに、コインランドリーは出かける前に行った。それで紡麦との待ち合わせにも遅れたのだ。
 だから、今日は床に散らかる服は上着ぐらいだ。千歳はキッチンにふくろを持っていき、僕は暖房がそそぐベッドに乗って、指先まで硬直した体温をほぐしていく。
 鳥の声が目覚めかけているほかは静かで、暖房の風音や千歳がふくろを開く音が響く。ブラウン管は停止状態で真っ暗だ。あれこれ貼られた壁に背中を預けた僕は、千歳の細い背中を見つめる。
 僕は彼がいるおかげで、この部屋の匂いに落ち着けるのだと思う。僕は僕の臭いが嫌いだ。それはあの家の臭いに通じている。煙草や酒、行きずりの女で穢していたものの、落ち着けなかった。
 千歳が来て、この部屋の匂いは僕だけから染みつくものではなくなった。彼との暮らしで、やっとここは僕のねぐらになったのだ。
 千歳が暮らしはじめて、女も友人もここには呼ばなくなった。紡麦なら千歳は怯えない気がして、実際、彼だけは今もこの部屋に出入りしているけれど。
 紡麦の服もこの部屋には散らかっていたのだが、僕と千歳のとまとめて洗濯してきた。本当に紡麦の服なのかどうか──彼は僕や千歳の服を着て部屋をあとにし、どこかに置きっぱなしにしてくることもある。その逆で、彼が着てきた服にはどこかの誰かのも混じっていると思う。
「そういや、今日、紡麦が来るかもって言ってたよ」
 芯まで届いていた寒気が取れて上着を脱ぎつつ言うと、「ほんと?」と野菜を冷蔵庫にしまっていた千歳は振り返る。
「じゃ、このグラタン、三人分に分けて焼かなくちゃね。一緒じゃないんだ?」
「あいつは映画行ってさ。僕は金は買い物に当てなきゃいけなかったんで」
「……あ、ごめん」
 雲がかかったように睫毛を陰らせた千歳に、「何で謝んの」とジージャンを床に捨てた僕は咲う。
「僕の飯でもあるんだよ」
「……うん。でも」
「観たかったわけでもないし。気にしないで」
 千歳は僕を見つめ、弱く咲った。
 掃除しかり、匂いしかり、僕はお世辞でなく千歳が部屋にいて助かっている。だけど千歳は、自分を寄生虫だと感じ、自立できない無力さに焦っている。
『できるだけやったんだけど』
 この部屋に暮らし始めた頃、千歳は毛布を被って膝を抱え、押し黙って目をつぶってばかりいた。やがて僕が部屋にいるあいだなら緊張を解けるようになり、口もきけるようになった。瞳も合わせられるようになると、千歳は隣でピザを食べる僕に打ち明けた。
『ダメだった。僕はみんなと同じにできないんだ』
 ──ドアフォンが鳴って千歳がドアを開けると、「寒ーいっ」と紡麦がバウンドしたボールみたいに飛びこんできた。軆がぶつかりかけて、一歩引いた千歳は、「もうすぐグラタンが焼けるよ」と微笑む。
「へへ」と千歳ににっこりとした紡麦は、風に乱されたらしい髪をはらうと僕に挙手した。グラタンが焼き上がるのをベッドでごろごろと待っていた僕は、ポルノから目を上げてにやりとする。
「ポルノバカさーん」
「男あつかいしてもらえないさーん」
「ムカつくー。二、三年したら見てろよ。まだ生きてるか分かんないけど」
「やっぱ、紡麦の父親って女だったんじゃないの」
「そしたら俺って、奇跡の生命体だね。あー、寒い。寒いの嫌い。眠いし」
 千歳は苦笑しながらキッチンに戻る。「すっかり奥さんだねえ」と紡麦は冷蔵庫を開けて、僕のワインを勝手に飲んだ。オーブンにもなる電子レンジから、チーズの匂いが蕩けだしている。
「何かぐつぐつ入ってる」
 電子レンジを覗きこんだ紡麦に、「かぼちゃだよ」と千歳は盛った野菜にドレッシングをかけている。
「俺、野菜嫌い」
「じゃ、カップラーメン食べてね」
「そんなさらっと。食べるですよ。しかし、ふた皿しか焼かれてないような」
「入らないから。僕のをあとで焼くよ」
「そお? 俺があとでもいいけど──ま、お言葉に甘えて。でも、その生のキャベツは勘弁」
「レタスだよ」
「どっちにしろ、それは青虫の食べ物だよ」
「料理してる人に、そういうの言わないでくれるかな。昨日も希月に、人肉と鳥肉は似てるとか言われた」
「えー、マジ?」
 紡麦はラッパ飲みしながら振り向き、「さあね」と腹這いの僕は猿ぐつわをかまされた女のページをめくる。
「どっか本に書いてた。ほんとかは知らない」
「被害者の肉をシチューにして食った殺人鬼はいたよな」
「……やめてよ、もう」
「日本?」
「外国。ソテーにした奴もいる」
「うまいのかな」
「愛だからね。食べちゃいたかったんだよ」
「映画で、人肉を食品に使うようになる奴あったよね」
「ちょっと嫌な感じ。そういやゾンビのごはんは」
「そのへんに転がってる」
 紡麦はあれこれ蹴りやってテレビの前に行きつくと、「ビデオも借りてきたんだよね」とトマトカラーのリュックを床におろした。
「どんなの」と起き上がった僕はポルノを膝で踏みつけ、二本のビデオテープを渡してもらう。一本はまた文学っぽそうな映画だったが、もう一本は、どろどろした書体の題名から察するにくだらなそうだ。
「わ、上映禁止作品じゃん。最高。これ観よう」
「あとでね。一週間だから」
「傑作っていうのは、いつも上映禁止かR指定なんだよね」
「まあね」
 紡麦はビデオテープを入れかえて巻き戻す。入っていたのは千歳のアニメだ。
「でも、それは単に小腸引きずって、納豆みたく目玉を垂らすのが、教育上よろしくないだけなんだと思うよ」
「ん、観たんだ」
「パッケージをね」
「納豆嫌いでよかった」
 紡麦は笑って再生ボタンを押し、僕はビデオテープをまくらもとに置いて、ポルノ鑑賞に戻る。僕の背中をさらさらと暖める温風に、紡麦もナイロンの上着を脱いでいる。
 グラビアのページが終わると、テクニック講座や投稿コーナーだった。こんなのはいらない。女がいくかは、どうせ彼女の気分や経験次第だ。他人の悩みや生活も知ったことではない。
 ページを戻し、気に入った写真を破って壁に貼った。買った時点で、黒マジックは入れてある。ポルノの被写体は、生き物でなく道具だ。だから、訴えるような目があると邪魔だ。
 僕は現実でも目を合わせるのが好きではない。できるけど、気持ち悪くて、本当はそらしたい。嫌じゃないのは、千歳と紡麦くらいだ。
 僕は自分の底に閉じこもっているから、目を合わせるという行為が、極端に疎通を表す行為に思えてしまう。好きでもない相手と目を合わせると、自分に嘘をついているようで気分がべたつく。

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