忌まわしい連鎖
ある冬の日、かあさんは友達に電話で相談していて、夕食の魚を焦がした。癌になりそうに真っ黒ではなく、表皮を落とせば食べられる程度だ。
が、こんなのでも父親はキレるので、かあさんは焼き直す新しい魚を買いにいこうとした。すると、こんな日に限って父親は早く帰ってきて、新しいものが焼けるまで待たせるなんてもってのほかだったので、失敗作を出さざるをえなくなった。
「何だ、真っ黒だな」
「あの、焦げてしまって」
時刻が早いので、匂いだけは暖かい食卓には、四歳か五歳くらいだった僕もいた。父親から目をそらすように、僕の魚の黒い皮を落としていたかあさんは、消え入りそうな声で言った。
「皮を落とせば、食べられますので……」
「食べる気になれんな」
「す、すみません。新しいものを買ってこようとしたんですけど」
僕も父親の顔を見たくなくて、かあさんのほっそりした手が綺麗な白身を現していくのを見つめていた。
古い暖房が重苦しく吐息をついている。
白熱燈に照らされ、痛いぐらい鮮やかな夕食には、毎度の暗雲が立ちこめてきた。
「い、今から行きましょうか。まだスーパーも──」
「そんなことを言ってるんじゃないっ」
父親は焦げた魚が横たわる長方形の皿をつかむと、かあさんに投げつけた。魚は絨毯にべたりと崩れ、皿は角をかあさんの肩を突き刺して同じく絨毯に転がる。
「申し訳ありません……」とかあさんは震えた手の中の箸を置いて、父親に頭を下げた。しかし父親は、「何でお前はいつもそうなんだ」といらだった野太い声を苦くつぶす。
「何度言っても、ちっともよくなろうとしない。お前といるとうんざりする。謝れば済むと思ってるんだろう。そのどんくさい性格はお前の勝手だ、だが俺まで巻きこむなっ。いらいらする、まったく、魚もろくに焼けない母親なんて──お前は母親なんだぞっ。何でそんなに、いつまでもぼさっとしていられるんだっ」
かあさんは押し黙って、父親は湯気の立つ味噌汁もお茶もかあさんに投げつけた。
かあさんがうめきをもらすと、「何だ」と父親は食卓を殴り、食器全体がびくっと飛び上がる。そして波紋だけ残して止まった食器みたいに、僕もその場に縮んでいる。
「文句があるのか。なら言ってみろ」
「…………、い、いえ。すみません。私が至らなくて──」
「それしか言えないのか、この役立たずがっ」
父親はかあさんの頭をたたき、胸倉をつかんで、このあいだの痣が消えていない頬を殴りつけた。揺すぶって、怒鳴り散らして、殴りつける。
かあさんは抵抗することなく、受け入れることもなく、耐えている。
正座で畏縮しきる僕は、いっそ消えてなくなりたかった。
忌まわしいめまいが頭をふらつく。押しつぶす圧迫に気が遠くなる。
何で僕の家はこうなの。怖い。こんなとこいたくない。いつまで我慢すればいいの。いつまで終わらないの。もうやだ。聞きたくない。見たくない。早く終わって。どうしてとうさんはかあさんをそんなに殺したいの。何でそれを僕に見せるの。こんなのをしつこくいつまでも──
恐怖が延々と疾走する。父親はかあさんを踏みつけている。足元からどんどん虫がたかってくるような、抱えきれない嫌悪感があふれる。いつのまにか僕は膝を抱えて、そこに顔を埋めていた。
「やめてよお……」
細い、息絶えそうな手が引っかくみたいな声で言った。ぜんぜん届かず、父親の暴力は井戸より途方もなく堕ち続けた。
やがて、父親はかあさんを黴菌のごとくはねつけると、「外で食ってくる」と車の鍵をつかんだ。さいわい、僕を連れていこうとはしなかった。
ばたんっと壊しそうな勢いでドアを閉めて父親が出ていっても、僕は動けなかった。暖房がきいているのに、寒空の下にいるようだった。すっかり冷めた夕食は匂いも失って、この空気に同化していた。そう、僕の家庭は冷めてしまった食事に似ていた。ぱさぱさで、魅力がなく、ちっともおいしくない──
かあさんが鼻をすすりながら身を起こし、「ごめんね」と僕の頭を撫でた。やっと首を横に動かせた僕は、かあさんに腕を引かれるまま抱きしめられた。食事は冷めてしまうけど、かあさんの胸の中はいつも温かい。
もっと大人で、強くて、えらかったら、かあさんを助けられるのに──
「かあさんのごはんは、いつもおいしいよ」
それぐらいしか言えない。けれど、かあさんは僕を覗きこんで咲ってくれた。「ありがとう」と僕を抱きしめ、僕もかあさんに抱きついた。
温めた夕食をふたりで食べ、かあさんは早くに僕を寝かしつけた。帰ってきた父親は、なおもかあさんをいびった。暗い寝室にいた僕は、冬のぶあついふとんをすっぽりかぶって、硬く身を丸めていた。無力な自分を怨みながら、僕は涙も悲鳴もすべて抑えつけ、自分の首を綿で絞め、気にしないふりをするほかなかった。
暴力が愛情表現にもなる場合を、僕は今でこそ知っている。けれど、幼い心には暴力は憎しみにすぎなかった。どのみち、父親がかあさんに振るうものは愛情ではなかったが──父親には、愛という概念が存在もしていなかった。
父親がキレる理由はいつもくだらなかった。完璧主義で、譲歩せず、失敗は許さない。他者にどんなに神経がすりへる細心を課しても何とも思わない。そうではないと反論してきたら、もっと単純に、頭がおかしかったのだ。
あの家庭は、弱肉強食の悪夢だった。耐えうる者だけが生きのびる煉獄だった。大人になったらやっと船を出せる、猛獣だらけの無人島だった。生き抜くことにがつがつするのをたたきこむ、強制訓練所のようなものだった。
僕はただ見て、とりわけただ聞いていた。じかに虐待された人よりマシなはずだ。なのに、こんなに落ちこぼれてしまった。僕は軟弱なのか。あの家庭が与えた認識はそう心象させる。さらに、自分がとっとと死ねばいいように感じる。
子供の頃、僕は自分の存在が申し訳なかった。僕さえいなければ、かあさんはとっくに父親と離婚できていた。
父親が許可するかは怪しくとも、別離に躍起になっていいほど、かあさんはぼろぼろにされていた。なのにかあさんは、結局離婚に本気で取り組まなかった。僕を連れて実家に逃げこんだとき、祖父母に説得されていたときもある。
「でも」
かあさんは実は眠ったふりの僕をちらりとした。
「離婚してあの子の親権をもらえるかどうか。いろいろ──金銭的にも。あの人のところにひとり残したくはないの」
「離婚したい」と言い出し、仮に受諾されたとしても、今度は父親は僕の身柄は引き取ると言うだろう。自分というお人形がなくなったとき、父親が僕に矛先を向けない保証はない。
かあさんは父親と争い、まして勝つ自信なんてなかった。いざというときもそうであろう自分が情けなく、次第に心身を蹂躙されて当然なのではと打ち沈んでくる。
あの家庭の原子が、どう発生したのか謎だ。僕はあのふたりの出逢いも知らない。結婚して父親の態度が豹変したのか。僕ができて仕方なく結婚したのか。
確かなのは、僕の家庭では暴力が日常だったことだ。家にいると気分が悪かった。肩の力を抜けず、耳が細い錐ほど研ぎ澄まされる。何でもない物音にも硬直して構えるくせがついた。安心できるのは父親がいないときで、そのままどこかに行ってしまえばいいのにとよく思った。
父親が嫌いだった。愛されても迷惑だった。それに、僕を“本当に”愛していたら、かあさんを大切にしていたはずだ。演技だろうが優しく愛し、幼い子供に暴虐を見せつけるなんてできなかったはずだ。だが、彼は眼前で人を憎んでみせた。
あの人が僕に教えたものは、相互する愛でなく、独裁される恐怖だった。その教育の究極的なところは、他人がいくら苦しもうが、自分の苦痛でなければ見捨てるという冷たい心だ。
僕はそんなものを推奨する人間にはなりたくなかった。僕の本能は自衛のため父親を敵視した。このとおり、毎日毎日たたきこまれて、染みつかないわけがないハメになったけれど。
あんなに嫌っていたのに、僕には父親みたいなところがある。キレるのだ。侵害に圧迫され、意志が通用しなくなるときがある。
不快の靄から立ちあがった“それ”は、その不快を人質にとって僕に命令する。逆らったら不快を燻して長引かせ、言うことを聞けば消滅させる。殴れとかたたきのめせとか、吐き気のような感覚で訴え──僕は逆らって不快が自然と消えるのを待とうとする。だけど、やっぱり耐え兼ねて見境を失い、あんなふうに残虐性を剥き出す。
反動だと思う。千歳や紡麦もそうだろうとうなずく。彼らの前でキレたこともあるのだが──
僕はあの家庭で自分を抑えつけてきた。結果、無関心で淡白な性格まで形成し、はけ口はなおも閉ざされた。おかげで家出しようが息苦しく、その抑圧が頂点を絶したとき、亀裂が入って僕は爆発を会得した。爆発でしか、自分の感情を表に出せなかった。
爆発後は、ちっとも爽快ではない。慣れないことをやり、嘔吐したい嫌悪感にめまいがぐらつく。この虚脱が厭わしいから、爆発はこらえようとするのだけど、さっさと不快を一掃したい目先に走ってキレてしまう。
以前は揺り返しで鬱状態につまずいていた。今は千歳や紡麦が保護してくれる。
「僕たちに話すのでも、吐き出すってことじゃないかな」と千歳はなめらかな指で丁寧に僕の髪を梳く。ベッドに横たわった僕はかすかに微笑んでうなずき、彼のもう一方の手を握って睫毛を伏せた。
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