空の雫-8

ドロップアウト

 土曜日の夜、紡麦と落ち合った僕はパーティに出かけた。紡麦はリュックに、僕はポケットに多少手持ちを仕込んでいる。売るためより、自分で使うためだ。
 紡麦みたいに日常的に中毒はしていなくても、僕も薬はやる。紡麦に逢う前は、ややコントロールを失っていて、彼との出逢いだってマリファナのジョイントをまわされてだった。
 まあ、紡麦に逢って薬の量が減るわけはない。僕を棺桶から引きあげ、摂取量を調整できるようにしてくれたのは、千歳だ。
 今は精神をなだめるためにヤクをやることはない。楽しむためだ。だからパーティでは、踊る体力を保つためにやる。
 その日はあまり気乗りしなくて、Xで弾けた紡麦を見送ると、隅っこのカウンターでアルコールを舐めていた。キレたあとは無気力におちいる。本当は部屋でくたばっていたかったけど、顔出しもバイトのうちだから仕方ない。
 酒や薬や香水が、混みあう熱気に入り混じっている。大音響の音楽が揺れ、それに負けない笑い声や叫び声が上がっている。薬をやれば楽しくなるのは分かっているが、落ちこんでいるときこそ、ヤクをやるべきではないのは学んでいる。
 今日はおとなしくしとこ、と僕はカウンターにうずくまった。
「だーれだっ」
 澄んだ香りのレモンが飾られた、透明なカクテルをいじっていたときだ。
 突然そんな声と共に、背中に誰か抱きついてきた。体温と吐息が首筋をすべり、胸のふくらみが肩胛骨を圧する。「え」と振り返った僕に、その子は肩越しににっこりとした。
「あたしだよ、あたし」
 僕はガラスのような瞳を見つめ、「あ」と声をもらした。
 紅茶色の長い髪を肩に流し、ふわりとなめらかな匂いが鼻をくすぐる。そう、先週、行きずりで抱いたあの女の子だ。
「思い出した?」
 僕の首から腕をほどき、軆を離してにっとした彼女は、今日も悪ガキみたいな格好をしていた。あの赤と黒のジップアップニットに、だぶだぶのジーンズだ。
 うなずいた僕は咲い、「偶然だね」と右隣をしめす。スツールにまたがった彼女は、「そうでもないよ」と僕の頬の痣を一瞥しながら肩をすくめる。
「あたし、ここの常連だし」
「マジ。僕もよく来てんだけど」
「この満員だからね」
「まあ、僕は別のパーティに行くときもあるか」
「顔広いの」
「まあまあ」
「そっか。あたしは仲間に入ったりせずにやってるからな」
「一匹狼」
「顔見知りはいるよ。仲間ってほどでは」
 僕はコルクのコースターにグラスを預けると、走りまわるメタリックな光で彼女を見つめる。このあいだは少し入っていたが、今日はしらふのようだ。
「じゃ、どうやってヤク手に入れてんの」
「男のをくすねるの。一緒に暮らしてるしさ」
「こないだ、ばれた?」
「うん」
 あっさり言われてまじろぐ僕に、「ほんと犬みたいだよね」と彼女はガラスの瞳を細めて笑いを噛む。
「大丈夫だったのか」
「傷ついてたらキリないよ。ね、名前訊いてなかったよね」
「え、あー、そうだっけ。僕は希月」
「キヅキ」
「希望の希に、月」
「かわいい名前ね。あたしは星華さいか。星に華。ハナって、あのややこしいほうね」
「綺麗な名前だね」と言うと彼女はつかみどころなく咲い、カウンター内の男に飲み物を注文する。
「いくつ」
 僕に向き直った彼女は、「十八」と行儀悪く脚をぶらつかせる。
「僕は十七だよ。でも、三月生まれなんだ」
「タメか」
「高校生」
「行ってんの」
「冗談。君は」
「中学んときに終わった。あたしダメなんだ、学校とか社会とか」
「僕も合わなかった。家が変だったからさ、学校でも変だったんだ」
「似てるね」
 にやりとした彼女に、僕も咲う。
 あの日はろくに会話せず、ベッドにもつれこんだだけだったので、彼女のことは本気で何も知らない。名前ぐらい本当は教えあったと思うのだが、いずれにしろ別れるときには忘れていた。
「ひとり?」
「当然。そっちは、こないだ友達気にしてたね」
「今日も一緒だよ」
「男」
「うん。ジャンキーなパーティフリークス。でも難解なんだ」
「難解」
「待ってれば会えるかも。予定ある?」
「別に。今日は彼だって朝帰りだろうし」
「じゃあ、一緒にいようよ」
 彼女はきょとんと長い睫毛を上下させる。口に任せた提案を、僕はその視線でふと躊躇する。
 しかし、いきなりばつが悪くなるのも決まり悪かったので、「一度寝た男は嫌?」と冗談めかして含み笑う。彼女は紅茶色の髪を揺らしてかぶりを振ると、「君がよければ」と何も塗られていない唇で微笑んだ。
 しばらくふたりで無駄話をしていたけど、紡麦は現れそうになかった。星華も興味をしめしているから、引き合わせてみたかったけど、やっぱり彼は朝六時までDJブースあたりで踊り狂っているのだろう。食っているのはXだから、声をかけにいって不機嫌になることはないだろうが、邪魔する必要はない。
 僕はスツールを降りた。
「お友達はいいの」
「あいつはキメてるからさ」
「あー、水さすのは可哀想ね」
「そゆこと。また会えるなら、いつでも会えるし」
「うん。で、どこ行くの」
 僕は星華と目を交わし、「もちろん」と丁重にポップイエローの爪の手を取った。
 僕たちはモーテルにしけこみ、このあいだより、相手の愛撫を味わって交わった。服を着ているときは、頬に絆創膏でも貼っておくのがアクセサリーになりそうなのに、はだかになれば、やっぱりそのいい匂いがよく似合うなめらかな女の子だ。
 星華の軆には、今日も紫の花びらが散っていた。口づけのあとではなさそうな赤紫もあったが、何も訊かなかった。
 今日は“宿泊”したので、終わっても全裸でじゃれあっていた。
「綺麗な髪だね」と腹這いの僕は紅茶色の髪をひと房手に取る。「地が赤毛っぽかったからね」と粗野にあぐらをかく彼女は、僕のくすんだ黒髪を撫でる。
 僕は体温の通った星華の腿に頬を埋めると、僕と彼女が混ざった匂いを立てる、きめこまかい雪白に唇を這わせた。
 翌日、紡麦は一時間も遅刻してカフェにやってきた。
 僕は一週間続く長雨並みにじめっとカウンターに頬杖をつき、二杯目も冷めたまずいコーヒーをすすっていた。日曜の夜のにぎやかさの中、「ごめーん」と誰かが媚びた声で背中に抱きついてきたのは、不意だった。
「僕はホモじゃないんだよね」
 仏頂面で言うと、「千歳のことは抱きしめるくせに」と紡麦はコアラみたいに僕に抱きつく。マリファナの匂いがする。
「千歳は特別なの」
「嫌ねえ、差別する人って」
「十九時なんだけど」
「まだ夜は始まったばかりじゃないですか。よ、ヒロくん、いつものよろしくねん」
 僕の背中に憑くまま、紡麦は通りかかったなじみのウェイターに挙手する。僕は紡麦に首を捻じった。
「キスして蕩かしたくなっちゃうお顔」
 紡麦は冷えこんだ指で僕の頬をつねり、僕はわざとらしく息をついた。
「やってるだろ」
「してないよー」
「匂いで分かる」
「しらふだって。泊めてくれた女が焚いてただけ」
 紡麦は僕の背中を降りると、左隣のスツールに身軽に乗っかった。
「女といたんだ」
「やらなかったけど。あれはHIV持ちだよ」
 紡麦は下ろしたトマトのリュックをテーブルの下にやる。
 今日は僕も迷彩柄のヒップバッグを連れている。フライヤーを持ってきたのだ。僕はこうして軆に取りつけるものでないと、リュックなんか置き忘れてしまう。
 フライヤーを取り出すと、紡麦に流した。
「希月、昨日も消えたね」
「僕も女といたんだ」
「希月はわりと簡単にやるよな」
「んなことない」
「しなかったんだ」
「したけど。先週もやった子だし」
「あらあら。君には千歳がいるんだよ」
「恋人じゃない」
「その子が」
「千歳が。ま、その子にも男はいるらしいし」
「君も罪作りだよな。千歳ってどっかでは期待してると思うよ」
 紡麦と顔を合わせた。紡麦はフライヤーを置いてにやつく。
 僕がじと目をしていると、彼の飲み物が来て、「どんな子?」と紡麦はグラスに口をつける。
「……おもしろい子だよ。悪ガキみたいな格好してて、この街で落ちこぼれてる。ピンサロやってるとか言ってたかな」
「俺のかあさんと一緒だ」
「そうなの?」
「そうなの」
「部屋でずっと飲んだくれてんじゃないの」
「それじゃ、どっから酒は湧いてくるんだって感じだし」
 確かに、とひとり納得する。「最近帰った?」と気づいて問うと、「んーん」と紡麦は氷を風鈴みたいにころころいわせる。
「今は、希月が泊まりたいときいくらでも泊めてくれるし」
「帰らなくていいのか」
「帰らないことぐらいしか、俺、かあさんにできないし」
「母親、好き?」
「嫌い」
 僕は首をすくめてコーヒーを飲み、冷めた苦みに舌を出す。
「あの人も落ちこぼれだったんだ。何があったんだかね」
「知らないんだ」
「聞いたこともない。あの人が俺に口きくのって、俺にバカにされたときだけだし。あんたなんかあたしの子供じゃない、ゴキブリみたいにどっかから入ってきたのよ、早く出てって、うるさい、死ね、大っ嫌い、その他」
「ほんとに母親だと思う? 血のつながった」
「だから俺を消したがったんじゃないかな。血のつながりもないガキなら、堂々と施設にやるだろ。他人だったら、手元に置いとく時点で、殴るくらいしてくれてた」
 暴力を好意的に解釈できない僕は、そういう発言に紡麦の無感覚を感じる。殴られるより無視がマシに思えても、実際黙殺されると、そんな意見も変わってくるのだろうか。
 そのへんを述べると、「希月はそういう感覚になるように育ったもんね」と紡麦は頬杖のまま笑う。
「殴られる人を見て、それより自分はマシだって我慢しながら育った。きついのはきつかったんだろ」
「楽しくはなかった」
「俺は、希月の家庭は重かったと思うよ。ただ、悲劇としての主役がどうしても君のかあさんなんだ。希月にはスポットライト当たんなくて、苦痛を見落とされる。希月自身、見落としてる。ママの不幸を引き立てるためにね」
 僕は紡麦を見つめる。紡麦は真剣な面持ちなどせず、軽薄ににやにやとしている。
「手出しされなきゃマシってことはないし、自分に向かわなきゃ傷つかないってこともない。それが心というものよ」
「……分かんないや。だってしょせん、愛されてもいたんだ。かあさんにも、ま、父親にも」
「重要なのは愛してるかじゃなくて、表わしてそそいでるかだよ。君の親は、特に父親は、君より自分を取ってたんだ。俺のかあさんも、千歳の親だってな。千歳は何つーか、まともな親である証拠の歯車にされてた感じ」
「……うん」
 ため息を抜いて、スツールに体重をかける。紡麦は膝から下をぶらつかせている。
「かあさんは俺に尽くしたくなかったんだ。もっと自分の時間を持っとけばよかったのに、若いうちに、ひりだしたってだけで俺の面倒見なきゃいけなくて。自分が何なのか分かんないうちに親になったって、気が狂うだけだよ」
「よく分かってるね」
「俺は母親似だからね」
「何で子供って親に似るんだろ」
「血だろ」
「僕は自分の血が気持ち悪い」
「似ないこともできるよ。精神的になればね。希月はママより自分の苦痛を見て、自分が優しいことを観念して認めないと」
「優しい」
「君、優しいのよ。千歳にだってそうなんだ、罪作りさん」
 からからと笑った紡麦はカクテルをあおる。ヤクでへらへらしていても、今のところ正気を保つ彼は、本質的には鋭利で知的な奴だ。そうなのかなあ、とあの家庭を思う。
 分からない。僕は自分が傷ついているとは思えないし、傷つくべきだったのかも分からない。影響はされている。それが“傷”の後遺症かは分からない。傷つく資格があったのかも分からない。
 僕はあの家庭に対する自分の心がよくつかめない。ただ、確かなのは恐怖と嫌悪だらけで、窮屈だったことだ。
 そして、根なし草になった。落ち着けるところがなく、だから落ちこぼれなのだろう。暗い冷凍庫にいれば長持ちする氷も、太陽の下にいればすぐさま溶ける。同じように、社会を灼熱として捕らえるものは、この世で永く持たない。ゆえに紡麦なんかは開き直り、薬で向こう見ずに死に突き進んでいる。
 僕も死にたいと思う。そして、その死がコンビニ弁当みたいに手軽なことを知っている。僕を生かしているのは、その怖さだ。
“生きていく”という精神的中枢を家庭で蝕まれたのは事実だ。あの家にいると、たまらなく消えたかった。生き延びたくて家を出た。ドブネズミになってもいい。あの家で頭も心もゴキブリみたいに踏みつぶされて狂い死ぬより、そのほうがよかった。空の下にはいられなくなったけど、今のほうがまだ自分を正当化できている。
「僕はドロップアウトしなきゃ窮屈だった」
「そういうのを、アウトローっていうんですかね」
 僕は紡麦を向き、笑みを取り留めた。紡麦もにっとすると、空にしたグラスをコースターに置く。
 そしてスツールを飛び降り、「んじゃ、キメてきます」とリュックを手に取る。「はいはい」と彼をトイレに見送った僕も、フライヤーを片づけ、コーヒーカップに指を絡めかけたが、やめておく。
 紡麦が戻ってくると会計し、店内より騒がしい通りに出た。鮮やかなイルミネーションは、ジャンクアクセサリーにライトをあてたようだ。
 切断された暖かさに上着を深く着こみ、喧騒に混じるどこかのロックな音楽を聴く。風と空を切る光で目を交わすと、僕と紡麦はハメをはずしに出かけた。

第九章へ

error: