空の雫-9

暗い波に飲まれて

 週末を終えてひと休みした火曜日、その日は僕も紡麦も、ゴミ箱を引っくり返したような部屋に千歳といた。
 ブラウン管には、あの上映禁止のダビングがかかり、僕と千歳は調理ポップコーンをボウルに盛って、映画館を気取っている。どこかでダビングするとき観てしまった紡麦は、ヘッドホンでXENONを聴きながら、コップの底でアルミホイルをしごいている。
 千歳は紡麦の作業を眺め、「ドラッグって楽しいの?」と理解できない様子で僕に首をかたむける。千歳は酒も煙草もしない。バターがたっぷり香ばしいポップコーンをコーラで流しこむ僕は、「やってみる?」と悪戯に咲う。
「……いい。何か怖いし」
「平気だよ、わりと。いきなり自分が吹っ飛ぶわけじゃない」
「開放的になるんでしょ」
「いろいろあるけど。まあ、スピードとかコークはね」
「開放的にはなりたくない。怖いものなくなったら、僕がやることなんて決まってる」
 僕は千歳を見つめ、彼は自嘲を含んだ睫毛を伏せる。その頬は黎明のごとく蒼ざめ、溶暗する瞳は今日は特に闇が濃い。
 さっき紡麦と目を交わし、今日はこの部屋にいることにしたのは、正解だったようだ。
 ブラウン管の映画は、片想いの相手に妄想を抱くうち、それがいつしか現実に食いこんでいる話だった。“彼女にまとわりつく者”として相手の友人を殺し、家族を殺し、スーパーで肩がぶつかって謝っただけの他人すら殺す。血走る映像自体が発狂している。
 紡麦はしごかれてぴったり一枚になったふたつ折りのアルミホイルを、台にしていたポルノ雑誌から剥ぐ。そしてトマトのリュックをあさって結晶を取り出すと、CDケースとレンタルショップの会員証のあいだで粉にした。僕に断って通信販売のページでストローを作ると、百円ライターで粉を乗せたアルミホイルを炙りはじめる。紡麦は注射は怖いといって、だいたいはアルミホイルなのだ。
 僕はパーティのときに幻覚剤をやるくらいだ。というか、この部屋では薬はしない。千歳を怖がらせたくないし、バッドトリップで迷惑をかけるわけにもいかない。実際問題として、千歳がいるおかげで、僕はドラッグを薬にしなくてよくなった。
 薬が効いてきた紡麦は、ヘヴィな音に聴きいって軆を揺すっていた。
 僕は映画を眺めつつ、どろどろした内部に難破船のように沈みかけている千歳を案じる。ときおり、話しかけて瞳をつなげた。千歳は僕の肩にもたれて暗く呼吸し、僕はバターがべたつく手はひかえ、頬を千歳の柔らかなくせ毛にあてて体温を伝えた。
 翌日は商品をおろしにいかなくてはならず、しのびなくも千歳をひとりにして紡麦と出かけた。
 遊びにいくという紡麦と別れて、二時前には帰宅すると、部屋は明かりが消されて深夜の学校のように静まり返っていた。鬱が完全に千歳の精神に染みこんだらしい。
 紡麦はひとりでおろしにいってもいいとは言ってくれた。だが使うかもとも言い添えた。僕の部屋に預けにくるのは面倒だとものたまった。
 それでも任せりゃよかったかな、と僕は冷えこんだ指で鍵を取り出し、鍵穴にさしこんでまわす。
『すごく重たくなる』
 千歳はそう言っていた。
 身動ぎひとつに精神力が費やされる。胸にブラックホールが垂れこめ、闇が闇にこだまする。出口のない不安について、途轍もない距離を走らされているように、延々と考え続けなくてはならない。
 ただ落下していくのではない。ねじのように螺旋にハマりこんで、鬱がはずれなくなる。集中力がばらつき、すきま風に真実がちらつく。役立たずで、できそこないで、落ちこぼれで、自分は何でこんなに──
 千歳は真っ暗な部屋で頭までふとんをかぶり、闇を闇に紛らしてせめてやわらげようとする。
「千歳。ただいま」
 おかえり、と迎えてくれる千歳がいない違和感を覚えつつ、暗闇でごそごそとスニーカーを脱ぐ。暖房も消され、外気の気温が浸透していた。
 明かりをつけられず、このときばかりは散らかった床が厄介だ。食べものからワインのふたまで投げ出され、踏むと気持ち悪かったり痛かったりする。足の裏をすべらせて進むと、手探りでベッドにひざまずいた。
「千歳」
 暗目にもふとんがこんもりとしていて、胎児のようにそれがわずかに動いた。僕は固まった冷たい手を息をかけてほぐしてから、ひんやりした布越しに千歳の軆を撫でる。ふとんがもう少し動き、ふとんの陰に湿った瞳が覗いた。
「希月……」
 僕はシーツに頬を当てて同じ目線になると、「ただいま」と痛く微笑む。
「ごめんね、ひとりにして」
「……ううん」
「もう、明日までいるから」
「今、何時」
「二時過ぎだよ」
「……朝かと思った」
「帰ってきたから?」
「永かったから」
 僕は瞳を狭め、ふとんに右手をもぐらせた。体温が巡っていて、温かい。千歳は僕の手を包み、「冷たい」とつぶやいた。謝ると千歳はかぶりを振り、僕の手に熱を与えてくれる。
 視線を失くした千歳は瞳を空中に泥ませ、僕はそのだるい睫毛の先を見つめる。
 僕にも鬱状態はやってくるけど、千歳ほどではない。僕の故障はキレることに置かれている。千歳の腐爛は、落ちこみとして表出する。
 それは果てしなく沈殿し、底なし沼のように続き続ける。極限を破壊し続けて“終わる”ということがない。だから千歳は、家にいる頃、恐ろしいまでに閉ざされた部屋に引きこもることができた。毎日毎日、ほぼ二十四時間、ふとんに身を収めてぴくりともしない。普通、そんなのは感情的にも身体的にも耐えられない。でも千歳は、光に起き出すほうが苦痛だった。
 この部屋に暮らしはじめ、千歳は立ったり咲ったりしている。すごいことなのだ。
 でも、もし、そうして頑張る反動で鬱が来るのなら無理はしないでほしいと僕が言ったとき、千歳は首を横に振った。この部屋に来て自分は楽になった、鬱が来るのはただ詰めが甘いからだと。闇に飲まれるのに抵抗できるようになったものの、津波にはやはり踏んばりがきかない。
『もっと強ければいいんだけど』
 千歳はすべてに対して、人一倍そう思っていて、けれど理想は現実に追いつかず、さらに自信を陥没させる。
 しかし、その波は抗いがたいものなのだ。冒される──その感覚は、僕もキレた状態で体感している。闇は若い癌細胞のように凄まじい勢いで増殖し、なす術もなく精神を不治にたたきこむ。
 千歳もまた、何かに統治を乗っとられ、命じられるのだろう。方向は対極だけれど、僕は千歳にまといつく陰を知っている。
「昨日ね」
 ふと千歳は瞳を僕に投げかけ、僕は暗がりに揺らめく水面を受け止める。
「夢、見たんだ」
「夢」
「夢だった、って夢」
「え」
「ここで、希月と暮らしたのとかね。夢か、妄想で、まだ家にいて、何ていうか、回想ってわけじゃなくて。今、ほんとは家にいるって」
「………、」
「そう、なのかな。希月とか、みんな幻想なのかな。ほんとの希月は、僕なんか知らないのかも。僕、今、あの家にいるのかな。ふとんの中にいるのかな」
 僕はもう一方の手でも、千歳の手を包みこんだ。「冷たい」と千歳は今度はかすかに咲い、僕も微笑む。千歳は僕の瞳をじっと取りこみ、一度まぶたをおろしてなじませると、「現実だよね」と僕の手の甲をまろやかな頬に押し当てた。
「ごめん」
「ううん」
「本気で不安になったんじゃないんだ。ていうか、分かってるんだよ。でも何か──そういう気持ちで」
「……分かるよ。夢みたいに感じるよね。僕だってそうだよ。ずっとひとりだと思ってた」
 千歳は僕を見つめ、僕は千歳の頬に当たっていない左手を引き抜いて、彼の緩やかな髪を撫でる。千歳の髪は細く、指のあいだを澄んだ川のようにこぼれる。
「夢じゃないよ。僕は千歳のこと分かってる」
「……うん」
「そばにいる。僕だって千歳がいなきゃ」
 淡い波紋で、千歳の瞳が濡れたのが分かった。「ありがとう」と千歳は僕の手を握る。僕も握り返すと、彼は僕の手に頬をうずめ、「きっと不安なんだ」とゆっくり吐き出す。
「はっきり、ケリつけてきたわけじゃないから。逃げてきただけなんだよね」
「そうかな」
「そうだよ。見つかったら、連れ戻される。怖いんだ。ぜんぜん、自信がない。家出して、僕は何か変われたわけじゃない。見つかったら、何も言えないよ。結局、両親の許可がないと落ち着かないんだ」
「千歳は変わったよ。僕を助けてくれるようになった」
「……そ、かな」
「うん。家事とかだけじゃなくて、僕の気持ちとかもね」
 千歳は曖昧な瞳をうつむかせて身じろいだものの、僕の瞳を信じて小さくうなずいてくれる。
「千歳がいなくなったら、僕は困るんだ。見つかっても、またおいで。いつでもここは千歳の場所だから。来ずに死んだりしたら一番怒るよ」
 千歳は吐息を綻ばせ、「大丈夫」ともう一回うなずく。
「希月のそばにいられるなら」
「あ、バイトなんか行ってごめんね」
「ううん。それは、ぜんぜん。僕もそのお金で食べさせてもらってるんだし。今日、ごはん何も作ってないや」
「僕が作るよ。たまには甘えて。他に何かしてほしいことある? 何でもするよ」
 千歳は微笑に視線を傷め、「大丈夫」とつぶやくように繰り返した。
「希月は、優しいね」
「えっ」
「残酷でもあるけど」
「……残酷」
「ストレートなのに、応える気なんてないのに。気持ちは認めて、優しくて。期待させてるみたい」
「………、紡麦にも言われた」
「そっか。でも、僕、分かってるよ。期待もしてないつもり。僕は、自分が人を好きになれることを知れただけで、じゅうぶん希月に感謝できるから」
「………」
「否定されて、殺さなきゃいけなかったら、つらかった。安心して、勝手に希月を想っていられて、感謝してる。希月に彼女ができても、押しつけたりしない。だから、そばにいさせて」
「もちろん」
「そしたら、僕は、希月を支えにできるから」
 僕は千歳の髪を安んじた。千歳ははにかんで伏目になりながら、「しばらくこうしててくれる?」と甘えてくれる。僕は微笑んでうなずく。
 千歳のためなら何でもしたいと思う。手を握ること、髪を撫でること、ときには同じふとんに包まること──いくらでもしてあげるし、千歳さえ求めるなら、それ以上もありうるのかもしれない。僕が一番嫌なのは、千歳が苦しむことだ。
 それから、今日何か食べたかを訊く。千歳は緩くかぶりを振った。
「お粥でも作ろっか」と僕は暗闇に立ち上がり、つい身震いする。「電気と暖房つけていい?」と問うと千歳はこくんとして、僕はリモコンで暖房をつけると、空中にぶらさがる明かりの紐を勘でつかみ、軽く引いた。

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