非常階段-1

夏の夜の夢

 十一歳の夏に見た夢が今でも忘れられない。よく考えれば、あれが全部始まりだった。もちろんあのときは、悪い偶然としか思わなかったけれど。でも、嫌な予感はあった。
 小学六年生の夏休みだった。蒸し焼きにされる夜の数日前、俺はクラスメイトの家に遊びにいっていた。普段は家を行き来するほど親しい友人ではなかったけど、夏休みはちょっと行動が広がる。初めて訪ねたその家で、数人の友人と合流すると、宿題なんか早いところ切り上げ、ゲームをしたり漫画を読んだりになった。
「なあ、この三人の中でどの子がいい?」
 雑誌の巻頭グラビアをしめし、ひとりがそう言い出した。唸る冷房もあえなく、四人の男に部屋はやや蒸し暑くなっている。みんな食べこぼしを見つけた蟻みたいにベッドに集まり、小麦や雪白の肌に水着をまとって、ポーズを取る女の子たちを覗きこんだ。
「俺はこの人かな」
「えー、そんなん気い強そうじゃん」
「うるさい女子って恋愛対象じゃないよな。俺はこれがいいや」
「俺も」
「そうかあ? おとなしいのってつまんなそう。塩沢しおさわは」
 俺は──三人の会話の下で、平面に閉じこめられた女の子たちを見つめた。色白黒髪に黒い水着の子、活発なポニーテールにボーダー柄の子、ウェーブのハイビスカス柄の水着の子、みんなかわいかった。
 けど、だから何──
「塩沢?」
 つながらない回線のように、何の直感も働かない本能に眉を寄せていた俺は、はっと三人に顔をあげた。「あ」と意味のない声をもらし、三人は目を交わすと噴き出す。
「何だよ。どれもお断わり?」
「あ、いや──。……ま、そうかな」
「お高いなあ。あ、もしかして、好きな奴がいるからとか」
「うわっ、マジ?」
「い、いねえよ、そんなのっ。何か──ま、しいて言えばこの子かな」
 適当に、誰も選ばなかったハイビスカス柄の水着の子を指さした。
「何で」
「……ビキニじゃないし」
 三人はまたも噴き出し、「そんな理由あるかよ」とひとりが腹を抑えながら返す。
「じゃ、中多なかたみたいのでもビキニじゃなかったらいいのか」
 中多というのは、同じクラスのにきびが物凄い女子だ。さすがに眉を顰めると、「まあまあ」とひとりが笑いをこらえて割って入る。
「奥手なんだろ」
 しばし彼女たちを評論した三人は、そのページは開きっぱなしにして、ゲームや漫画に戻った。ベッドサイドに腰かける俺は、攻略本を読むふりで、そのめいっぱいの青空を背景にしたグラビアを盗み見た。
 何、だろう。うまく言えなくても“違う”気がした。でも、何が違うのか。かわいいけど、綺麗だけど、魅力は感じない。嫌悪はない。けれど、そう、刺激されない。何でかな、とそこは狂った手元のように接続できず、焦れったさに攻略本に目を落とした。
 さっきの三人の評論で、初めて彼女たちの胸とか、腰とか、脚とかに気づいた。そうだよな、と思う。男は普通そういうところに目がいく。奥手。そうなのだろうか。そうして女の子を露出させ、道具にしている感覚が“違う”。束ねた紙の中で、一枚だけ寸法が違う紙みたいな、まとまりきらない食い違いは感じても、まあそうなんだろうな、と攻略本のページをめくった。
 この日のことが影響したのかは分からない。でも今思うと、関係していた気がする。
「そうじゃない」──まだ半覚醒の本能が俺にそう知らせるため、あの脊髄に垂れこめる夢が脳に発令された。奥手なんかじゃない、お前が女に反応しないのは──
 家のバスルームだった。鏡、立てかけられたシャワー、ゆっくり浸かれるバスタブ、ほんの少し水色の絵具を溶かしこんだような、ごく淡い青のタイル。右手のすりガラスごしにまばゆい陽光が射しこんでいる。しっとり濡れた室内は雫にきらめき、俺はそこに踏みこむ。ひやりとして見ると素足で、服を脱いだことを思い出す。
 シャワーヘッドをバスタブに向け、コックをひねるとお湯がほとばしった。気紛れな天気の雲のように湯気が一気に立ちこめると、全身に熱を浴びせる。
「君が終わったら、入れ替わって」
 いつのまにか、張られた浴槽には誰かが浸かっているという認識がすりこまれている。顔は湯気で分からない。
「ああ」
「家、誰かいる?」
「いないよ」
 ぱしゃ、という音に続いて、脚に指先が触れた。バスタブは半地下だった。血のようにどくどくと足元を流れて、排水溝に吸いこまれるお湯を見つめる。バスタブから上がる音がして、背中にぴったりと濡れた体温が密着してきた。熱っぽい息遣いが耳元を伝い、首から顎を唇がなぞる。
 下半身がむずがゆくなってくる。吐き出したい何かがどんどん溜まってくる。それを解き放つため、猛烈にこすりつけ、つらぬきたい欲望が、気がふれそうに腫れ上がってくる。
 さりげなく軆を向き合わせられる。優しく前髪をかきあげられ、唇で唇を圧され、舌がすべりこんでくる。潤った瞳がすぐそばにある。その長い睫毛がおりると、それと共に唇も降り、過敏になったそこに湿った舌が絡みついた。
 水音が、鼓膜をいっぱいに圧迫している。水飛沫が砕け散りながら輝いている。左手の鏡を見た。曇り防止がきいたそれには、ちょうど腰のあたりが映る。俺の腰に、とろけたアイスクリームのように絡みつく、相手のすがたが映っている。
 茶色の髪はショートカットで、肩幅は広くて筋肉がみなぎり、胸が堅そうに平たい──
 相手が俺に顔を上げた。俺はその黒い瞳をじっと見つめた。目の焦点がぐらりと貧血した拍子、催眠術にかかったように、俺はその場にひざまずいて同じ目線になる。彼の手が頬をなめらかにたどり、俺はその唇に口づけると、しっかりした首まわりを抱きこんだ。そして、ガラスにそそぐ陽射しのように、シャワーが降りしきるタイルにくずおれ──
 そのとき突然、今、自分はベッドにいると、電波が走るように気づいた。
 真っ暗だった。夜だ。ふとんの匂いがする。
 足元に絡み残る汗ばんだ軆に、パジャマ代わりのスウェットがじっとり貼りついている。深い裂け目みたいにぱっくり目を開き、小さな息を飲みこんだ。ごくん、と唾の音が喉に響く。
 脚のあいだが変だった。熱い。おさまり悪く、むずむずしている。それ以上に、腿のあたりまでべたべたしている。まさかこの歳で、と刹那思ったけれど、違う。もっと粘ついて、腿のあたりは早くもごわついてきている。
 感覚の均衡が透けるような快感の名残に、うっとりするよりとまどって、シーツまで汚さないよう腰を気にしながら、ゆっくり身を起こした。
 脚に絡みつく毛布は壁際にはねやり、気だるい腕でベッドスタンドの明かりをつけた。みぞおちから胃にかけてが、やたら重い。深呼吸でそれをなだめ、身を引きずってスウェットの中に手を突っこんだ。ぐっしょりした下着におさまるものが、いつもより大きくて熱を残している。
 もう一度、喉を響かせて生唾を飲みこんだ。
 夢精ぐらい、知っていた。精通も射精も、学校で習った。自慰は習わなかったけど、知っている。排泄器官を握りしめる抵抗に、まだしたことはなかった。だから、これが俺の精通というわけだ。こんなにべたべたしてんのかよ、と舌打ちしかけて、はっと空中に目を上げる。
 学校では、セックスは子供を作るためのものだと言っていた。実際はそんなのは建て前なのは知っている。とはいえ、やはり求める相手は子供を作れる異性だ。男は女を求め、女は男を求める。それは、ふたつの性が相互する調和のかたちで、学校も、それ以外のかたちなど口にもしなかった。
 なのに、俺が見た夢は何だった?
 夢精があの夢のせいなのは間違いない。冗談だろ、と言い知れない恐怖に引き攣った笑いが震える。
 男だった。男と、同性と、やっている夢だった。そんなので勃起して、おまけにいった。信じられない。鳥肌に冷めた軆の軸が、旧いテレビの画面みたいに激しくぶれる。錯乱した動揺に、視線も呼吸も心臓も落ち着かなくなってくる。
 嘘だ。嘘だ! 違う。こんなのはただの夢だ。このべたべただってただの反射だ。でも、どんな刺激への反射だ? 何に興奮した反応だ?
 息づまりそうに蒸し暑い部屋で、虫がたかるような黒い胸騒ぎに五感が凍えてくる。調律がばらばらに挫け、真っ白な混乱に何が何だか分からなくなってくる。
 認められなかった。認めたくなかった。そんなのじゃない。俺は現実では女の子をむさぼる。男なんか死んでもお断わりだ。自分に必死に言い聞かせた。書き間違いに消しゴムをすりつけまくるように、執拗に頭を脅迫した。
 ただの夢だ。忘れてしまえばいい。忘れられる。だって、あれはただの、寝返りした途端に思い出せなくなる夢と同じ程度の夢──
 しかし、しばらくは記憶からあの光景をむしりとれなかった。風呂に入るたびぎくりと思い出し、新学期になってもクラスメイトの男の顔をまともに見れない。あの相手がぜんぜん知らない奴なのが、ゆいいつのさいわいだった。体育の授業の着替えのときには、かえって不自然なほど目をそらす。しまいにはベッドに入って寝ようとするたび、ああいう夢をまた見たら、と潔癖なまでに思い出すようになった。
 一生毎日、あの夢に囚われて生きるのかもしれない。そんな空恐ろしさに焦りもした。けれど、十一月に十二歳を迎え、近づく卒業式にいそがしくなってきた頃、次第にあの夢は冷め、ようやく風化していった。
 二度と思い出さないつもりだった。来るだろう機会は、女の子を好きになったとき、やっぱただの夢だったんだな、と鼻で嗤うときだ。
 でも今日、この日、俺ははっきりとあの夢を思い出した。そして、今度こそ一生忘れられないのを悟りかけている。
 目の前で親しく微笑むこの彼に再会したことで、俺のすべては、発作患者の脳内のようにめちゃくちゃに壊れはじめた。

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