非常階段-10

林間学校【1】

 五月十七日の木曜日、集合は朝の六時半、バスの出発は六時四十五分だった。遅れた生徒は置いていくと教師たちはいさぎよい脅しをかけていたが、実際に誰か遅れたら待つ気もする。やっぱり本当に置いていく気もする。
 七時ぐらいまで公園にいてみようかと黒いナイロンの旅行かばんに肩をきしませる体操服の俺は、くだらない浅知恵にふけって車道沿いを歩いている。
 あたりはまだひっそり蒼く涼しく、車の行き来も半分眠っている。明け方の景色なんてあまり見たことがない俺には、そんな、水中にもぐったような色合いに染まった街並みは、いつもと違う場所のように見える。足音が聞き取れるほど静かだ。雲は淡くたなびくばかりで、天気予報も今日は快晴だと言っていた。
 俺はかあさんに早めの六時に追い出された。いつもなら眠っているところに朝食なんか押しこんできて、胃が重苦しい。精神的なものもあるのだろうが──
 昨日、鈍重な手つきで用意をしながら、「絶対行かなきゃダメ?」とかあさんに訊いた。すると、「は?」と意味不明のことを言われたように返され、相手にしてもらえなかった。
 今朝も浅はかに仮病みたいなことをしたけど、俺はそういうことに関して才能がない。真に迫った演技力も、はったりをつらぬく度胸も欠けている。親も親で、どちらかといえば無意味に学校に行かないなんて神経が違っていると思っている。頭が痛いふりをしても、こう言われる。
「昨日あんなに『早く寝なさい』って言っておいたのに」
 腹痛を装えばこうだ。
「ぐずぐずしてないで、さっさと食べなさい」
「吐きそう」と言えば、親はもちろんあの最終兵器を取り出す。体温計だ。完全に平熱だった俺は、役者にはなれないのを思い知りながら、こんなふうに登校している。
 六時四十五分にバスが男らしく遅刻者は切り捨てるのなら、あとひと息の勇気で、公園に身をひそめておく。家に帰るのが気まずければ、一日ぐらい公園で寝る。でも教師たちが口先ばかりで、現実に遅れる生徒がいればバスを待たせて家に連絡を入れたりするのなら、できない。捜索なんてことになればやばい。見つからないわけもないし、行きたくなかった、なんて理由を言えば、射的の景品みたいにはっ倒されるだろう。
 鬱陶しいよなあ、と小心加減にげんなりしていると、同じ体操服を着た同級生たちのすがたがちらつくT字路に着いていた。そして初めて、そういや同級生の目があるんだ、とどうせ公園に曲がれないのに気がつく。無理だと知ると観念できるもので、横断歩道を渡ると、公園を尻目に坂道をくだっていった。
 雪乃ねえちゃんがこのためだけに学校に行きたくないと言っていた毛虫は、最盛期だ。かぶりついたシュークリームからはみでたカスタードみたいに、ぼたぼた落ちてくる。満開の桜に感嘆する外人はこの裏面は知らないんだろうな、とくだらないことを思っていると、バスが五台並ぶ学校に到着していた。
「柊っ」
 生徒たちは教室には行かず、校舎の前に溜まっている。時刻は六時二十分だった。校舎を見上げずとも、腕時計の持参が指定されている。
 けっこう楽しそうにさざめく同級生たちを見渡して突っ立っていると、そんな声がかかって、リモコンを向けられたロボットみたいにどきっと反応した。だから行きたくないんだよ、と心臓を踏みつけたくなりながら振り返り、駆け寄ってくる賢司と数人の友人のすがたを見つける。
「おはよ」
 にっこりとした賢司に笑顔を造り、俺は同じ言葉を返す。賢司は二ヵ月前にはこの土地にいなかった名残もなく、俺を含めた仲間を確立している。みんな手ぶらなのは、そのへんに荷物を放っているからだろう。
「けっこうゆっくり来たな」
「別に、はりきったって。荷物は?」
「あっち」と賢司は昇降口に溜まる荷物をさし、俺もそこに混ぜさせてもらう。俺のかばんは、小学校のとき林間学校で自分で選んだ奴だ。なので、親や兄弟のを借りてきたという奴は、自分のかばんの不格好さを嘆く。
「自分で選んだってことは、塩沢ってひとりっこ? あ、下にいるのか」
「いや、上が姉貴だから。中二」
「塩沢ってひとりっこみたいな感じだよな」
「そう? それよりさ、外のバス五台しかなかったような」
「あ、六組がばらばらに乗るんだって。ケチだよなー」
 俺の属す班は、五人に落ち着いていた。俺と賢司と森本、笹原ささはら福井ふくいという奴だ。笹原は四月に俺の前の席だった奴で、俺の席に溜まっていた賢司が声をかけたのをきっかけに、俺も彼と話すようになっていた。福井は、五月になって賢司と席が前後だった奴だ。いろいろ行動するときは、担任が勝手にくっつけた女子の班とになる。クラスで約十人ずつの三つの班ができたわけで、ここはC班だ。
 雪乃ねえちゃんは、こういう学校行事が大嫌いだ。俺は本来そんなことはない。大好きでもないけれど、あるならあるで、楽しむほうだった。過去形になったのは、やっぱり、この賢司への変調のせいだ。
 いろんなことが、引っくりかえった小麦粉みたいにもうもうと不安をかきたてている。俺は、このお笑い草がばれるのが死ぬほど怖い。なのに、林間学校なんてどれもこれも無防備すぎる。
 一斉に入る入浴なんて、これから自殺に行くような最低の気分を味わわせてくれる。ストレートのありがちな発想に滅入るのだ。そういうときホモは秘かに嬉しくてたまらないとかそのへんだ。
 俺はホモなんかじゃない。そう言い張っているのに、もしその通りに嬉しかったら、情けなくて死にたい。喜ぶつもりはないのに、軆が反応したら発狂しそうだ。
 喜ぶヒマもなく、肩身が狭い想いをするのもつらい。意外に何にもないというのは、不安がふくらんで冷静さが蝕まれるほど、非現実なおとぎばなしに思えてくる。どちらを向いても、ばれるかもしれないことばかりで、恐怖にいたたまれなくなる。
 夜も嫌だ。俺は見事に寝る部屋まで賢司と一緒なのだ。ひとクラスに部屋は男女ともふたつずつ割りあてられたので、B班だったら同じ班でも部屋が別れていた可能性はあった。しかし、前述通り俺はC班だ。
 ただでさえいつもと違う環境に行くのに、片時も賢司と一緒にいる。最低でも、明日のバスの予定到着時刻の十八時までは、賢司の隣を解放されない。そのあいだ、ずっと、そわそわしてどきどきして──思ってしまうではないか。
 ばれないわけがない。まるで完全犯罪をやろうとしているみたいだ。いろんな人を騙して、ひとりでみんなを騙して、一瞬だって気を抜かずに人目を気にして、こんなのにいったいどこまで精神が追いつくというのだろう。もうやだ、と手づまりになってばかりのゲームに泣きたくなってくるように、いっそサボりたくなってくる。
 なのに、学校を仮病でサボったことさえない俺は、教師の集合がかかれば、おとなしく従ってバスに乗りこむ。言うまでもなく、賢司が隣だ。じゃんけんで勝ちとった前から三番目で、しょっちゅう体調が悪いと言う俺に、賢司は窓際を譲ってくれた。
 そうして気を遣ってもらうたび、この気持ちが痛くなる。裏切ろうと思って、惹かれているのではない。それは自分がよく分かっていても、どうしてもそんなのは詭弁で、彼を裏切っている気持ちにさいなまれる。賢司が俺を親友として想ってくれるほど、どこかでは、友人に過ぎないあつかいをされるのが疼く自分が後ろめたい。
「小学校のとき、こういうバスで何やった?」
 バスはやはり多少の遅刻者を待って、六時五十分に動き出した。窓の向こうで夜が明けて景色が色彩に照らし出されていくのが、いつもより高い目線で見渡せる。バスガイドの説明は聞かない賢司に問われ、俺は筋肉を緊張させながら左を向いた。
「え。えーと、映画観たり、音楽聴いたり。修学旅行では、班で出し物考えさせられた。クイズとか」
「俺のとこの修学旅行は、カラオケだったぜ。帰りだけど。ひとりずつ歌わせられるわけ」
「……最悪」
「そう? 流行ってる奴でいいんだぜ」
「俺、カラオケってあんま好きじゃない」
「じゃ、もしまわってきたら俺が代わりに歌ってやるよ」
「よろしく」
 息を抜いてふかふかのシートに脱力しようとしても、賢司と触れあいそうな半袖の左腕が気になって落ち着かない。バスってこんな狭かったかなあ、と思っても、それだけ俺の肩幅が成長しているのか。賢司なんて、俺よりもっと軆つきがしっかりしてきている。やっぱ来なきゃよかった、と来なくていい機会があったわけでもないのに、七時の段階で後悔する。
 独特のにおいのバスの中は、豪華そうなシャンデリアがかかり、ふたりがけの椅子が通路を挟んで両側に並んでいる。補助席に、六組の奴らが腰かけていた。クラスもなじんできた頃だろうに、気の毒だが、経費削減には代えられないらしい。
「向こう着いたら、まず何だっけ?」
 賢司は脚を伸ばして天井を仰ぐ。荷物は頭の上なので、足元は空っぽだ。
「山登りじゃなかった?」
「着くの十二時ぐらいだろ。弁当はいつかな」
「さあ。小学校のときの林間は雨降って、結局、山登り中止で施設の食堂で食べた」
「はは。俺は小学校のときは、林間じゃなくて臨海だったんだよな」
「臨海」
「海だよ。よく、記念写真に海からの無数の手が写ってる奴」
 俺は造りものでない笑みを少しだけもらし、「写ってたのか」とスニーカーを見つめる。
「いや。もっと夏になってからだったっけ。海で水泳指導とかされるわけ」
「賢司は泳げるだろ」
「うん。だから勝手に遊べた。泳げない奴には、ほんとに学校だっただろうな」
「はは」
「柊は泳げるようになった?」
「……ま、多少」
 子供の頃、俺は金槌というより水が怖くて泳げなかった。幼稚園のプールの時間で、プールサイドにしがみついて、どうせ顔面を濡らしまくっている不本意な写真が、いまだにアルバムに残っている。人並みに泳げるようになった今となっては、水の何がそんなに怖かったのかは分からない。
 そういう子供の頃、自分が今悩んでいるようなことで悩むなんて、思ってもみなかった。自分がゲイだなんて思えない。そうなろうとなんて、してこなかったからだ。それでももし、万一、ゲイだったとしたら、それは生まれつきの体質だったとしか考えられない。
 子供の頃を思い返し、それっぽい片鱗でもあったかと考えてみるけど、何も見つからない。ストレートに育って何もおかしくない、平和な幼少時代だった。
 性に関して、子供の頃を参考にしても仕様がないとは言える。後遺症になりそうなことでもあったのなら別だが、むしろ俺は子供の頃、女性恐怖症になるには内気で、女の子や女の人には近づかなかった。
 いや、もしやそれこそゲイであるせいだったのか。今も女の子たちは苦手だ。別に嫌悪や軽蔑はない。ただ、何というか、女の子とあえて打ち解けようとは思わない。
 雪乃ねえちゃんのせいで、女にあまり夢もない。もしかしてねえちゃんのせいでなったのか、ともうこじつけでも何でも思いつく。それはないか。狂暴な姉貴を持つ友達なんて、何人もいる。
 女の子が苦手で男に走っちまったのかなあ、とは思わなくもない。だが、俺の心情としては、男に走るぐらいなら女のほうがいいだろ、と思う。そして、逃避したい心情で変わったのなら、拒絶する心情で戻ると思う。でも、こいつは巨大な岩のように蹴っても押しても動かない。女は苦手。そんな漠然とした理由で、その岩がいきなり花びらみたいにひらひら揺れるとは思えない。
 子供の頃は性的なものなんてさなぎの中だもんなあ、と景色を流す窓辺に頬杖をつく。とはいえ、眠っているだけで、欠けているものではない。発芽はしていなくとも、種はやっぱり在るのだ。性的なものの視点を退化させて考えると、スカートめくりとか、そういう悪戯はしなかった。女の子をイジメて泣かせることもなかった。
 いや、そういえば一度泣かせたことがある。バレンタインにチョコレートをくれた子に、そんなのいらないとか言ったのだ。当然先生に怒られ、その日帰るとき、その子と手をつながせられた。かなり嫌だった気がする。ご機嫌を直してにこにことする彼女に、早く家に着きたいと願いつつ、引き攣った咲いを返したものだ。
 全部、内気なせいだと思っていた。そうでなく、ゲイだったせいなのか。そもそも内気だったのも、当時から潜在的に自分が周りと違うと感じて、気にしていたせいなのか。分からない。そんな気もするし、性格だった気もする。
 ひとつ明確に言えることは、俺の内気が治ったのは、賢司に受け入れてもらったからということだ。賢司で自分が他者に受け入れてもらえることを知った。何で、よりによって賢司にこうなるんだろう。しつこくそう悩んでいるけれど、もし生まれつきゲイなのだとしたら、彼に惹かれたのは必然だったのかもしれない。また賢司に受け入れてもらって、治りたいわけだ。ゲイでも別にいいと、陰気なもやもやを消してしまいたい。
 確かに、賢司が理解してくれたらずいぶん心強くなる。けれど、残念ながら今回はありえない。賢司はストレートなのだ。賢司に惹かれたって報われない。反対に友情さえ失う。なのに、なぜ俺の本能は、野生動物みたいに駆けめぐってばかりで、心や頭の話を聞かないのだろう。
 賢司は物思いに落ちこむ俺はそっとしておき、さっそく隣の六組の奴と雑談するようになっている。たぶん、俺は自分以上に賢司を落ちこませている。彼はそういうのを表に出さないだけだ。賢司の心を、鋭利な紙みたいにさりげなく傷つけている。
 そう想うと、切実にこんなものの息の根をとめたくなる。賢司を苦しめたくない。ゲイなんかじゃない。なのに、なぜこの心臓は、ほてった血を毒のようにまわして、手足を麻痺で疼かせるのだろう。

第十一章へ

error: