非常階段-100

補える教師

 昇降口で傘を開いて雨下に出ると、打ちつける雨音が思ったより響いて、確かに雨脚が強くなっているのに気づいた。花壇の土や桜の葉が濡れて、濃い匂いを立ちのぼらせている。景色は空一面の厚い雲に蒼みがかっていた。寒さはこのわずかな風のせいだろう。
 咲き乱れる傘のあいだを歩き、斜めの雨に傘の角度を合わせながら、俺はさっきから黙っている智也をひかえめに一瞥した。
「ひいきね」
 階段にさしかかる前、俺がつぶやいたひと言に、智也はデイパックの肩紐を通した肩をすくめた。
「うわさ知らない?」
「知ってるよ。でも、あいつはそんなん気にしてないだろ」
「俺が気にするよ。智也だって、……言われてるだろ」
「ふん。楽しくなくて、顰蹙買ってでも女とやるかよ」
「………、智也ってさ、俺に恋人できるのよく勧めるよな」
「そうだね」
「それって──」
 ひと置きの沈黙で、俺の言うところを感知した智也は、やや険悪な眇目をして俺はびくりと口をつぐんだ。
 常に思っていたわけではない。ふと思っただけなのだけど。
 雨にぶつくさする生徒たちの中、俺と智也は何となく無言でここまで来た。そんなに怒らせてしまったのだろうか。冷たい飲み物でグラスに湧いてくる水滴のように、不安がこみあげてくる。まだ落ち葉はない坂道に入ると、「あの」と俺は陰った傘の下から恐る恐る智也を窺った。
「ん」
 智也はわりと普通にこちらを見、俺はときおり雨が縦によぎるその瞳を見つめると、息をついてしまった。
「ごめん。今、ちらっと思っただけなんだ」
「………、そういうふうに感じさせてるかな」
「いや、ぜんぜん。でも、もしそれで智也を巻きこまなくてよくなるなら、努力したほうがいいのかな」
 智也は柔らかに苦笑いすると、いくつも波紋が重なる水溜まりを飛び越えた。ここは坂道だけど、角度は緩いから水溜まりは見かける。
「恋は自然に始めたいんじゃないのか」
「そうだけど」
「俺はお前に、恋愛は効果があると思ってるだけさ。俺と友達になったら、かなり単純に明るくなったからな」
 智也を見つめ、肌寒い中で熱くなった頬にうなずくふりでうつむいた。
 恥ずかしかった。智也にまで、ときにはこんな邪推を巡らせてしまう。彼はいつだってただ友達想いなのだ。
「ごめん」
「気にしなかったとは言わないけど、まあいいよ。おまえの性格ならそこまで考えるだろ。ミステリー作家くん」
 智也に横目をし、「それ、深井の台詞」と雨音に紛れて突っ込んだ。「おっと」と智也は口先に用心すると、かわいくない台詞を吐いた俺に満足げににやりとする。
「少なくとも俺のことは気にすんな。うわさがどんなでも、俺の真実は今週末のハニーとのデートさ。それに、俺は頭悪い奴はそう言うって分かってて、別にいいやって思ったんだしな」
 智也をじっと見たあと、湿った匂いが立ちこめる通りを見やった。
 視界の端で、昼から濡れきった桜の緑が鮮明だ。まだ目を凝らさないと、輪郭が茶色くなりはじめた葉もあるのは分からない。
「やっぱ、俺とつきあうにはそういう覚悟がいるのかな」
「んー。つうか、覚悟とかそういう捕らえ方しないで、単に気にしない奴がつきあうんじゃないですかね」
 ふざけた口調を使ってくれた智也に俺はほのかに咲い、道路を渡ってビル沿いに入った。
 傘で跳ね帰る雨の調べは、演奏者がいらついているように乱暴になっていく。車道では、何台も車が勢いよく斜面の水を切っていった。
 のろのろした歩調の雑談の合間を、ときどき傘がない生徒が駆け抜けていく。またそんな男子生徒がそばを走っていって、慌ててよけた俺がその背中を見送っていると、不意に智也がまじめに口を開いた。
「そういう手口なんだと思うぜ」
「え」
「お前への嫌がらせ、直接攻撃が減っただろ。お前にやっても意味ないって思われてきてるんだよ。だから周りに矛先を向ける。それで、俺たちが嫌になってお前を離れるか、お前が良心に耐えかねてひとりを選ぶかを待ってるわけ。孤独になれば、気持ちが弱ったとこをまた直接攻撃だろうな」
 智也は大きなため息をつくと、空中を見あげて首をすくめた。
「俺には分からないよ、そっちのほうがな。お前が苦しめば何でもいいって感じだ。でも、そこまでやる理由って何だろ」
「……ホモだからだろ」
「それが本気なら、時代錯誤だな」
「まだ時代は変わってないよ」
「変わろうとしない奴がいるだけだろ。ゲイは昔からいたんだ。俺のかあさんの時代にも、香野の時代にも。とっくに認められてていい頃なのに」
 雨の中、亡霊のようにたくさん浮かぶ傘と制服を見つめた。反射する光がある室内から見るわけではないせいか、雨の色は暗い。
「柊は差別とイジメが混ざってるんだよ。あれこれやる奴はお前を劣った人間にして、優越感に浸りたいのさ。で、差別的な固定観念が、脳なしのことは加害者側に吸い寄せる。俺がそういうゾンビの言うこと、軽蔑するだけで気にしないのは分かるだろ」
「……うん」
「柊は、ずうずうしいと思われても、俺たちとつきあっていくべきだよ」
「………、うん。でもほんと、そういうのは自分に向けられるより重いんだよな」
「一番卑怯な手だしな。ま、その手にこたえるってことはお前はいい奴ってことさ」
 にっとした智也に俺は照れ咲っても、脳裏にあのおとなしい黒い瞳がかすめて気分は完全には晴れない。
「二ノ宮が心配なんだ」
「二ノ宮」
「俺とつきあうといろいろ言われるの、分かってないことはないと思うんだけど。耐えられる子とは思えなくて」
「そう?」
「智也とか香野と話すの怖がるんだぜ」
「あいつが話したいのは、お前なんだろ」
「でもそれじゃ広がらない、」
「にぶいなー」
 俺はまた気温にかかわらず頬をむうっと染め、智也はさも楽しそうににやついた。
 それは、まあ、俺も考えなくはないけれど。違っていた場合が恥ずかしすぎるではないか。
「機会が来たときでいいだろ。彼は俺とかと話したいことはないんだよ」
「でも、プラスだと思う」
「お前は二ノ宮の力になりたいのか、香野の汚名を晴らしたいのか」
「……どっちも、できるから、ふたりが知り合うのはベストなのかと」
 教授に嫌味で質問された学生のように気弱に答えると、「ふむ」と智也は空いている左手で顎をさすってまじめくさった。
「ま、ひいき教師ってのはなあ」
「ひどいだろ」
「目をかけられるぶん、お前は損なわれてるんだしな。客観的にはプラマイゼロだよ。しかし。そうだと分かっていてもひいきと言われるのが怖くて、マイナスの子を無視してしまう教師がどんなに多いか」
 悲劇俳優のように大げさに言う智也に、ぼんやり一年の堀川や二年の榎本を思い返した。無視に留まらず陰口をたたいた榎本はともかく、堀川はそうだったのかもしれない。
「ともかく、香野は分かってると思うね。ひいき教師って言われるのも、受け入れてるさ。ぱっと見しか見れない奴は、そう言うだろうって。それでもお前をいらない攻撃から守ろうとしてる。気にするほうが、でしゃばりなのかって不安にさせるかもよ」
 にっとしてきた智也を見返したあと、水を蹴る足元を流し見て一時雨音に黙りこんだ。車がタイヤで水音を切り裂いていく。
「俺がゲイだからなのかな」
「自分の生徒だからだろ」
 どことなく断言的な智也を見ると、彼はやんちゃに照れ咲いした。
「これは、俺が言われたことあるんだ。いろいろ分かろうとすんのは、どうせ俺が片親だからなんだろって。中学に入学した頃までは、前も話したけど、かあさんと喧嘩が多かったような環境だったしな。そういう荒んだ台詞を言ってみたりしたわけ。そしたら、そうじゃなくて、自分の生徒だからだって」
 智也は雨を見上げると、すっきりした口調で言い切ってくれた。
「『ゲイだからかばうのか』ってお前が質問したら、その場合もあいつはそう言うと思うな」
 俺も智也が見上げた空中を眺め、頬にいくつか冷えきった雨粒を受けながらほんの少し笑みを零した。
「俺はついてるんだろうな」
「え」
「どんなに突っ張っても、いつまでも誰も分かってくれない奴っていると思うんだ。俺の周りには、少なくても、いる。信念が強い教師と、理解する機会を持った女の子と、深く考えない無鉄砲野郎」
 智也は雨の中から腕を伸ばして俺をはたいた。俺は笑いながら、「頼ってくれる後輩もな」とはたかれて狂った傘の角度を正した。
「それってすごいことだと思う」
 智也を俺を見つめると、微笑んだ。
 土の匂いがすると思ったら、公園にさしかかっていて、もうすぐそこで智也とはお別れだ。覗けるT字路では生徒たちが左右に分流している。坂道に曲がってくる車の点滅するライトは、雨で白くぼやけていた。
「二ノ宮に頼られるみたいに、俺たちをもっと頼っていいんだぜ」と言った智也に笑んでうなずくと、あの子より俺のほうが人を信じられるようにならなきゃな、とあの別れ際の印象的な笑顔を想った。

第百一章へ

error: