曇り空の下
深井家を訪ねた日曜日は、雨は降らないまでも、空の顔色はどんより重かった。住宅街を歩いていると、垣根の常緑樹が公開絞首を見守る人たちのように不穏にさざめいてくる。
雨は今朝あがったばかりで風が肌寒いから、あの廊下も冷えこんでいるだろうと、半袖の上にアイスブルーの長袖シャツを羽織ってきた。迎えてくれた深井とは一階で別れると、何だかんだで慣れてきたこの家の匂いの中、ドアの脇に座りこんだ。
「芽さん。こんにちは」
ガラス戸の向こうの滅入った空を眺め、相変わらず何の音も気配もない部屋に話しかける。
「ここんとこ雨が冷えこみますね。芽さんの部屋にはエアコンあるんでしたっけ。俺の部屋にはないんで、夏は暑くて冬は寒いですよ」
膝を曲げてできるだけ体温を抱えこむ。ここで取り留めなく口を動かすのにも慣れた。日本語がしゃべれないような、変な文法も減った。
「芽さんとこに来るようになって、二ヵ月以上経つんですね。いつも俺ばっか愚痴っててすみません。芽さんも、何か言いたいならドア越しとか紙に書くとかしていいんですよ。それとも、やっぱ迷惑と思われてんのかな」
情けない笑いを噛むと、ジーンズのざらつきに頬を当てて晴れの日より薄暗いフローリングに目を流した。
「最近はそういうことよく思うから。そのへん話そうかな。香野っていう、俺とか深井の担任のことは話してますよね。俺のこと尊重してくれてるって。そうしてくれるのはいいんだけど。俺にそうすることで、あいつがひいきとか言われてるみたいで。生徒にもですけど、教師にも。こういうのって落ちこみます。俺のせいでほかの人が中傷受けるって。姉貴のときもそうだったけど。あれこれされるのはもちろん嫌ですよ、けど文句があるなら、せめて俺に向けてほしい。ほんとは香野に謝りたいんだけど、どうしたほうがいいんだろ。智也は気にしなくていいって言ってました。智也も、言われてるんですよね。俺とつきあってるから、ホモなんじゃないかとか。いろいろ。深井も物好きとか言われはじめてます。そういうのって、けっこう、つらい。自分に向かうより、死にたいって思う。俺が消えれば、みんなそんなの言われなくて済むんだし。でも、俺が死んだほうが、みんながっかりするのかな。分からないけど。気にするなって言われても、やっぱ気になるんですよ。だって俺のせいなんですよ。俺のせいでいらない悪口言われて。まさか楽しいもんじゃないだろうし、どうして俺を捨てないんだろ。ひいきとかホモとか、愛想尽かされても文句言えませんよ。だから、みんな俺には近づかなかったんだなあとか思って。一、二年のとき。つきあえば巻き添え食う奴とは、誰だって友達になりたくないですよね。智也たちは強いです。だからこそ、何でそんな奴が俺を見捨てないのか分からない。そこまで俺を想ってくれるのか分からない。ずいぶん自信なくなってて、人もよく信じられなくなってるのに気づきました。智也は気にしないって言ってくれたけど、いつ嫌になるだろって、そういう不安は完全には消えてない。信じていい奴なのはじゅうぶん分かってるんですけど、心が追いつかないってこんな感じなんでしょうね。香野も、謝っても、気にするなって言ってくれるんだろうな。そんなふうに予想するなら、信じて頼りにすればいいのに、どこかでは迷惑がられてたらって怖くて。信じていいものぐらい信じられるようにならなきゃいけませんね、俺も──芽さんも。芽さん、たぶん家族が敵じゃないのは頭では分かってるんじゃないですか。けど気持ちが追いつかない。違うかな。俺は智也とか香野にそんな感じです。深井にも。みんなが敵にまわったような時間が長すぎたんでしょうか」
小さく息をついで、そのまま口を閉ざした。
静かだ。外で吹いている風も鋭さはない、ぐったりしたものだった。
いまだに思う、本当にこの中に人間がいるのか。あるいは夜中に起きるということは、聞かれもせずに眠っているのではないか。「でも、たまに昼に物音してるよ」とこのあいだどうも胡乱で尋ねた俺に、深井は眉を寄せていた。
「俺が一番心配なのは、二ノ宮なんです」
視線はぼんやりフローリングの継ぎ目にあてながら、わずかに声を低めてつぶやいた。智也にときどき揶揄われる。お前に恋人候補ができて芽さんはすねてないか?
「話しましたよね。後輩の子で、その子もゲイで。廊下一緒に歩いたりするから、徐々につきあいがあるのはばれていくと思う。あんまり強そうな子じゃないし、あの子がわけ分かんない嫌がらせ受けたらどうしよう。俺が守ってあげなきゃいけないんですよね。けど、あと半年で卒業だし。意外と俺より強かったりするのかな。でも二ノ宮に限らず、智也たちにも、相手の強さに甘えてるだけじゃダメなんですよね。ほんとの意味で、悪口をはねつけられるのは俺だけだから。俺がしっかりしなきゃいけないのに、二ノ宮にもここでやってるみたいに愚痴が多くて。俺ってダメだな。ぜんぜん無力で情けない。いつもやられっぱなし」
まぶたを伏せると、緩い衣擦れと膝に顔を埋めた。こうすると、さすがに自分の匂いがする。
あの家の匂いだ。俺は今、このなじんだ匂いが嫌いだ。家族さえ俺を理解することなく見捨てた。
だから余計、智也たちをうまく信じられないのだろうか。
「深井は芽さんに俺をどんなふうに話してるんですか? でもきっと俺、話されてるほどは強くないです。ばれたのだって不覚だし、ばれる前は隠すのに必死だった。自分で自分を受け入れられなくて、ひとりでつらくて、友達とか家族失くすのが怖くて。弱いんです。死にたいっていつも思ってるし、相変わらず記憶が耐えられないし。一年のときのこととかはまだはっきり憶えてて、そういう嫌なことへの記憶力が自分でいらつくんです。死ぬまで忘れられずに抱えていくのかって思うと、もう全部やめにしてどっかに消えたくなる。何をどうすれば強くなれるんだろ。偏見してくる奴らをはねつけて、味方のことぐらい信じられるようになるには──自分には何かが足りないのか、何かが余計なのかも分からない。頭も悪いや」
頭痛をこらえるように、額を抑えて顔を上げた。言いながら、喉がぎゅっと縛られて泣きそうになっていた。
本当にそうだ。俺は心が弱い上に、頭も悪い。
「ゲイってことが悪いとは思いたくないけど。どこを直せばいいのか分かんなすぎて、やっぱそこが問題なのかとか思う。そういう弱さそのものが問題なのかな。自信があったら、きっともっと簡単なんだと思う。そりゃあ、二ノ宮っていう存在もできたんだけど。俺は強くなるにはいつか芽さんとも話したいって思ってます。似た人間とは合わないものだけど、同じ人間は糧になるかもしれない。芽さんは、俺と話したいって思ってくれたことないですか?」
何の反応もない。こんな暗い人間となんか話したくないよなあ、と自分でも分かっているから、その沈黙はどんな辛辣より俺の心を鞭打つ。
「俺ばっか芽さんを利用してるから、そろそろ利用してほしいんだけど。まだ胡散臭いかな。やっぱもっと強くならなきゃ、芽さんにも相手にされないのかな」
ガラス戸の向こうを見つめ直し、それからも日記にとめどなく書きこむようにしゃべっていた。いくらでも言葉が浮かんでくる。吐き出したいけど、人には言えない胸の内がここで消化されていく。
もし芽さんが応えてくれるようになったら、この処理をどこですませばいいのだろう。そう案じながらも、やっぱり芽さんと会ってみたいから、寒い壁にもたれて開かれないドアに語りかけつづけた。
【第百二章へ】
