重たい食卓
よく眠れなかった昨夜のあいだに、思わしくない憂鬱な雲はだいぶ流れていた。
午前七時五分、目覚まし時計が鳴って、さっきずきずきする頭をもたげたところだ。眠たいのに眠れず、一晩じゅう途切れなかった意識がかなり腫れぼったい。
ベッドの上に起き上がり、しばらく寝ぐせにも触らずぼさっとしていた。鳥が甲高くさえずっている。ようやく汗ばんだ髪をかきあげる腕を持ち上げられると、床に降りてカーテンを開けた。
すると、朝陽が思ったより瞳孔に刺さり、薄目でレースカーテンをめくるとちぎれ雲のあいだに青空が覗いていた。
窓辺に突っ立って熱も帯びる光に目を慣らすと、レースカーテンはきちんと閉めてつくえに歩み寄った。時間割りを確認して宿題のノートをめくる。今日は月曜日だから、手提げはぱんぱんで重たい。いつもこの日は、手提げでなく通学かばんにしようかと悩むが、帰りにかさばるのが嫌で、結局こちらに押しこんでいる。
パジャマを脱いでベッドに放ると、ハンガーにかけていた開襟シャツを手に取りかけてクローゼットを一瞥した。冬服にしようか。今日で十月に入って二週間目だし、あの雨が過ぎ去って気候は秋めいただろう。
でも日射しはけっこう暑かったよな、と明るい窓に目を移すと、俺は糊のきいたシャツを取って腕を通した。
「──今日は長かったね」
昨日も一階に降りるとデザートが待っていた。ドアに向かって口でしたためたあとは、それを食べながら深井と話すのも習慣になっている。おじさんやおばさんが混じるときもある。昨日はふたりで話し、デザートととしてバウムクーヘンを食べていた。
おばさんは深井の向こうで炊事をし、おじさんは俺の背後のリビングで新聞を読んでいる。天井をちらりとして言った深井に、うやむやに咲った。
「俺、ほんとに役に立ってるのかな。迷惑と思われてたら、逆効果かもしれないぜ」
白いパイル生地のプルオーバーの深井は、また天井に上目をした。とはいっても、ここの上は深井の部屋になると思う。リビングの真上が芽さんの部屋だ。
「……逆効果」
「やっぱ、前向きなことだけ話したほうがいいのかな」
「暗いこと話してるの」
「俺なら前向きなことばっかり言われたら、かえってヒキそうな気がして。頭ではいくらでも強くなろうって思ってるよ、でも、気持ちがさ。だから強いことだけ言われても──二ノ宮も似たこと言ってたし。でも行きすぎると、共感ってより滅入ってくるか」
「塩沢も、やっぱ深刻に悩んでることとかあるんだ」
バニラの香りが甘いバウムクーヘンをフォークで皿に切り分けながら、俺は変な目をした。ぱくついたほうが楽そうなのだが、これは保存料とふくろに入っていた百円のものでもなさそうで、味もしっとりしている。
「俺って悩みなさそう?」
「いや、ありそう」
「じゃあ、その台詞、矛盾してない?」
「桐島がついてるじゃん」
智也のやんちゃなにやつきがよぎり、「まあ」と俺はもうひと口もぐもぐとした。
「智也は気にするなって言ってくれたよ。一応それで納得もしたんだけどさ」
「嫌がらせは減ったんじゃないの。……あ、もしかして家?」
「家は、まあ──相変わらず。嫌がらせも俺には減ったよ。代わりに君とかが言われてるだろ、物好きとかさ」
フォークを口に含んだ深井は、眉をゆがめながら口を動かして飲みこんだ。
「前から思ってたんだけど、その『物好き』ってどういう意味なのかな」
「そりゃあ、ゲイと分かってる男に近づくことじゃないか」
「あたしって塩沢が好きなんだと思われてんの」
「らしいね」
「……そういうふうに見える態度取ってるかなあ」
「俺は智也のほうに気があるように見え──」
深井は俺を挑発された鰐みたいにぎろりと睨み、俺は思わず肩を引くと気弱な笑いをもらした。深井の瞳は大きくてかわいいけれど、そのぶん、そうやって威嚇に使うと迫力があって怖い。
「智也って、いい奴だと思うけど」
「男にはね」
「彼女いるよ」
「そうなの? その女こそ物好きだよ」
頬杖で窓のほうを向く深井に何となくくすりとしてしまうと、バウムクーヘンを口の中に蕩かした。
「不思議だよな」
「え」
「俺はあいつのこと好きだって思うけど、その“好き”はやっぱり恋愛じゃない。どういう基準なのか、自分でもよく分からないよ」
深井は淡い湯気が立つミルクティーをすすった。俺のはただの紅茶だが、おなじく芳しい湯気は立っている。
「相手がストレートだから、っていうのでもないんだ」
「ストレートを好きになったことはあるよ。ストレートって知れば、すっぱりあきらめつくものでもなさそうだし。まさか、顔が好みかそうじゃないかだけで、恋愛になるかならないかが決まるとは思わない。ていうか、思いたくないよ」
背後でおじさんが新聞をめくる。米を洗い終えたおばさんは冷蔵庫を開いている。
来たのが遅かったから、今時刻は十七時をまわろうとしている。日も短くなったのだけど、あの家に帰るのが億劫で、俺はつい話題を引き延ばしてしまう。
「やっぱさ、別に桐島を自分だけのものにしたいとは思わないんじゃないの」
こちらの気持ちを知ってかどうか、深井は俺が継ぎ当てる話題につきあってくれる。
「友達は一対一じゃないじゃん。でも恋愛は基本的にふたりでしょ」
「……そっか。そうだな。別に智也を独占したいとは思わないな。恋人もほかの友達も、俺に縛られずに持ってほしいと思うし。深井にもな」
「あたし」
またたいた深井に、俺は熱い紅茶の渋みでバニラの甘ったるさを飲みこんでうなずく。
「だから、心配なんだ。俺のせいで変なうわさが立って、君が嫌われたり避けられたりしたらって」
「……そっか。でも、別にそんなことにはなってないよ」
「ほんと」
「知り合いでもない奴が言ってるだけでしょ。少なくとも、あたしの友達は分かってる。友達にぐらい話してるよ、兄貴のことは」
「俺にはすごくヒイた顔してたような」
「馴れ馴れしくしてほしい?」
「……いや、別に」
「まあ、あの子たち、どっかのファンタジー集団と違ってミーハーでもないぶん、塩沢をリアルに見てるんだよ」
手の中にカップを包んで手のひらを暖める。
リアルに見てしまうと、やはりあんなふうにヒイてしまうのか。しかし、思えば俺自身必然的に自分を生々しく考えなくてはならず悩んだものだ。悩むのが面倒な奴が、葛藤を逃げようと俺もろとも消そうとするのかもしれない。
「それより」とカップを置いて喉に苦笑をこぼした。
「ファンタジー集団って」
「追いまわされてるの見たことある」
「深井は、ああいう本と俺は──」
「違うでしょ。見るぐらいしたことあるけど。愛してるなら子供相手も無理やりもOK? 男同士以前の問題があるよ」
噴き出して、バウムクーヘンの残り半分にかかった。
「そう言ってくれる女の子もいるんだ」
「ああいうのも悪いとは言わないけどね、現実のゲイの男の子と混合はしないほうがいいかもね。仲間で楽しんでおく限り、やらせておけば」
深井はミルクティーの甘い香りを吹き、ほどかれていると気づく夏より伸びた髪が届く肩をすくめた。
「兄貴のことがあって言えるんだけど、ああいうのは簡単すぎるよ。だから正しいこと言ってても軽い。惹かれるのはしょうがないとか、あっさりそう思えない人もいると思うの。兄貴みたいに」
深井は柔らかそうな唇をカップにつけ、俺も銀のフォークをバウムクーヘンの欠片にさしこんだ。灰色がっていた外は、徐々に黒くなりかけ、減りはじめた虫の声が透き通りはじめている。
「いつかは、あんなふうに簡単になるのかもしれないよ。同性愛って簡単じゃないけど、簡単になっちゃいけないことじゃない。無理やりとかはいただけないけど、あの手軽さは理想的でしょ」
「……まあな。でも、いやらしい場面が見物にされてることは腹立つよ。ゲイはそういうのしか頭にないってよく言われてて、それを肯定してるような。ああいう本って、何のために男同士なのかが分からない」
「売れるからでしょ」
深井はすげなく答えたが、目は置いたカップの水面に伏せている。
「男女のより、女の子でも買えるし。それだけだよ」
深井を見つめ、まあそうだな、と椅子にもたれこんだ。分かっていた気もする。けれどそれだと──
「バカにされてる気がする」
「放っておけばいいよ、あたしたちみたいに」
「深井たち」
「あたしには──まあたぶん桐島にも、みんながどうこう言ってる憶測なんてバカバカしいの。何にも分かってないくせに、分かったふりで言い触らしてるだけじゃん。桐島は塩沢の友達だし、あたしは兄貴のために塩沢が必要。その真実があればいいじゃない」
「その真実と違うこと言われて、つらくない?」
「真実通りのうわさなんて、どうせ無いの。あたしは分かってほしい人には分かってもらってる。友達も家族も、男だって頭悪くないの捜せばいい。桐島が理解できるんだから、あいつ以上の男なんていくらでもいるよ」
「……どうだか」
「いるの。大丈夫、塩沢のせいで失くしたものなんてない。たとえ多少失くしても構わないの、兄貴のためだから」
兄貴のため。そう、どう言われても、深井には俺と接することにそんな意義があるのだ。
深井の家に行ったあと、自分の家に帰るのは怖い。智也の家からの帰りも落ちこんでも、あの個性的なおばさんと俺の家族はさすがにかけはなれていて、期待するだけ仕方ない気もしてくる。しかし、深井や彼女の両親は俺の家族とそんなに変わらない。
なのに、この愛情の違いは何なのだ。俺の家族は、俺を受け入れるために痛みを避け得ないのならたやすく血を絶つのか。あるいは長年の絆をくつがえすほど、同性愛は悪徳だと思っているのか。
どのみち、すべてはこういう答えに帰結する。
俺は愛されてない。
──黒いスラックスのファスナーをきしらせて上げると、ベッドに腰かけて靴下を履いた。そのあと、つくえに放っていた名札を胸元につける。この糊の通り、洗濯に出していたので名札ははずしていたのだった。
生徒手帳もポケットに入れた頃、一階で物音がした。とうさんか雪乃ねえちゃんが出かけたのだろう。このあと、一階に降りて朝食をかっこんだら、歯磨きも洗顔も一気に済ましてとっとと家を出る。毎朝の同じ計画を立てた俺は、腕にずしりと来る手提げを連れ、一階に降りて朝食の匂いがするキッチン兼ダイニングを覗いた。
そして、ぎくんと息をすくめてしまう。家族なんてどれも一緒だが、やはりまだマシという順はあって、いちばん苦手なのはとうさんだ。次が雪乃ねえちゃんで、最後がかあさんなのだけど、ダイニングのテーブルでは、すでに背広すがたになりつつも新聞を読むとうさんがいた。
ということは、今出かけたのは雪乃ねえちゃんか。確かにいないようだ。洗面台でも音はしない。エプロンをつけたかあさんはキッチンでいそがしそうで、俺はドアのところに手提げを置くとそろそろとダイニングに踏みこんだ。
がさ、という音とインクのにおいがしてとうさんを見ると、向こうも俺に気がついていた。思わず愛想咲いとかしそうになったものの、黙殺されて朝からみじめな気分も味わいたくないので、頬を引き締めて黙って正面の席に腰をおろす。
朝食の用意は、一応いつもされている。香ばしいトーストと蕩けそうなオムレツ、ちょうど陽が射して光っていた銀のスプーンを取ると、あまり食欲もないまま、まずオムレツをすくった。
おはよう。かあさんさえそんな義理の挨拶をしなくなった。俺が来たのには気づいている様子でも、振り向かない背中を盗み見て、いつもの執拗な孤立感を覚えた。
いたたまれない。本当に、理屈抜きで消えてしまいたい。戦争の授業で観た、原子爆弾を間近で受けて白光に溶けてしまった人。あんなふうに、跡形もなく壊れてしまいたい。とうさんもひと言もなく新聞を読んでいる。
反発する磁石の中に、無理やりいるみたいだ。向こうが俺を跳ねつけてきているのが分かる。喉元が圧迫され、窒息しそうでよく頭がまわらない。
おかげで、この感情を鮮明に体験してしまう。嫌悪感と恐怖感が入り混じったようなひどい真空状態。
狭まる喉は呼吸がやっとなのに、そこにトーストなんか押しこまなくてはならない。マーガリンなんてべたべたしたものを塗れば吐いてしまいそうだ。何か飲み物で流さないとダメかな、そばで待機する空のマグカップを一瞥したときだった。
「お前──」
はっと顔を上げた。顔を上げたのと同時に、俺でなく、かあさんに呼びかけたのではないかと思った。しかし、がさがさとインクのにおいを立てて新聞を閉じたとうさんは、苦々しく俺を見ていた。
「昨日も遊びにいってたな」
塞がりそうな喉に、ごくんとトーストの塊を嚥下させた。
「勉強はしてるんだろうな」
かあさんの皿洗いの音も止まる。俺は、半分以上残っているトーストの焦げめを重苦しく見つめた。
「何の?」
「受験に決まってるだろ」
「高校行かせてくれんの?」
目を見ていう勇気はなかったから、トーストを食べて視線はパンくずに据えていた。とうさんもかあさんも、言葉を詰まらせるのが聞こえた。それが俺の妄想の深さのせいか、図星の気まずさのせいかは分からない。
「俺は働いても構わないよ」
「中卒なんかで、」
「そしたら、この家を出られるしね」
今度の沈黙が、局部を刺したからなのは分かった。しかし、相変わらずその焦りのようなものが、俺の明確な拒絶へか、自分たちの透視された嫌悪へかは、分からなかった。「ごちそうさま」と何か言われる前にトーストは半分残して席を立つと、手提げは廊下に置いたまま、洗面台で歯を磨くとか顔を洗うとかした。
髪に手櫛を通して鏡の中の自分を見た。道化を演じて笑われまくってきたあとの、化粧を落として素顔になったピエロのように疲れている気がした。
脇からは久しぶりの晴れた日射しがあるというのに、俺の顔にはじとじとした湿気が残っている。この家を出る。しかも高校も行かずに。この発言にふたりには即座に言い返すということがなかった。
俺はこの家ではひとりぼっちだ。ダメだ。こんなところにいたら、立場が本当に張り裂けてしまう。
早く学校に行こう。
【第百三章へ】
