君に呼ばれて
洗面所を離れ、すれちがいざまに手提げを取ると、黙って家を出た。青と白の空を、ときおり鳥が飛んでいく。
空気は秋の朝らしく澄んでいたが、肌に受ける陽射しはほのかに微熱を持っていた。とうさんは今日は何かで出勤が遅くてもいいようだけど、のんびり歩いていたら道路で再会してしまうかもしれない。
俺は小走りに制服の流れが出てくる通りまで急ぎ、落ち葉が散る坂道で、同世代に紛れこんで心底からの息をついた。
朝からまた嫌な記憶が増えた。そんな怨み言を心になすりつけて、ひとり黙々と歩いていく。周囲の笑い声が、目覚まし時計みたいに寝不足の頭にがんがんする。
どうして、俺の家はこうなのだろう。そう思って眠れなかった挙句、朝からこんな気分だ。なぜいつも追い討ちをかけられるのか。
死にたい。うんざりしているその台詞を、また内心でつぶやいてしまい、自己嫌悪にハマりながら、学校沿いにさしかかったときだった。
「おはよっ」
いきなり背中を乱暴に押され、振り返ると青空に相応しい笑顔の智也だった。そんな彼を見つめ、俺が何とか返せたのは、曇り空を引きずった辛気臭い笑みだった。智也は眉をゆがめると隣に並び、「何?」と首をかしげる。彼も着ているのは夏服だが、周囲でざわめく生徒たちには冬服もいる。
「何かあったのか? 今週やっと会えた芽さんが、不細工だったとか」
「バカ。ちょっとね。久しぶりに父親と口きいたから」
「父親なんていう存在は信じるべきじゃない」
「それはお前の個人的な主義だろ」
「まあな。何? 勘当されたとか?」
彼らしい極端な物言いについ苦笑したあと、俺は手提げを持ち直した。
「受験生なのに勉強してるのかって。最近、俺って土日たいてい出かけてるじゃん」
「何だ、普通の質問じゃん。進歩だな」
拍子抜ける智也に、俺のほうも拍子抜ける。
普通。まあ、普通か。進歩。あれ、と歯車の食い違いに気づいたように俺は足を止める。
「何?」
「そう、なのか?」
「え」
「進歩、かなあ」
「だって、何気ない話するなんてなくなってたんだろ」
脳髄がひんやりと蒼ざめていく。そうなのか。言われてみると、そんな気もする。
「俺、高校に行かせてくれるのかとか訊き返しちゃったよ」
「確認しておくに越したことはないな」
「し、進歩なら、感じ悪かったよな」
「向こう、どんな顔してた?」
「……見なかった。初めは怒ってるみたいに訊いてきた」
深刻にこわばる視界を、蛾みたいな茶色の落ち葉がひるがえっていく。桜の葉だ。でもまだ木陰を作れる葉数はある。
「高校行かずに働くかも、そしたらこの家を出れるしって言ったら、何とも答えなかった。とりあえず引き止めなかった。俺もちょっと嫌味で言ったとこあるんだけど。向こう、俺と元に戻ろうとしたのかな」
「さあ」
「『さあ』って」
俺はうなだれて、枯れ葉を踏みつけるスニーカーに息を吐いた。
「……やだな。何かもっと滅入ってきた。ごめん」
「俺こそごめん」
「どうしよ。ああ、もう家族が何考えてるか、ぜんぜん分かんないよ」
「家に問題があると疲れるよなー。行く場所ってのは簡単に避けられるけど、帰る場所ってのには避けるのに金も度胸もいる。うむ」
智也はこまねいてひとりうなずき、俺はイガをとがらせていく頭に頭痛薬を飲んでこなかったのを後悔する。前方には生徒が流れこんでいく校門が覗け、瞳からさしこむ熱っぽい日光は、ささくれた脳内をさらに穿つ。
「俺んちって、ダメな気がする」
「ん」
「智也とか深井は耐えてくれてるもの、家族は耐えてくれなかった。周りからの巻き添えの悪口。……いいや、いまさら友好的にされたって遅いよ」
「投げやりくん」
「じゃあどうすればいい?」
「嫌いになりたいならなればいいさ」
智也に横目をし、当番で立つ教師が生徒を追いたてる校門をくぐった。「ごめん」とひとまず言うと、智也は肩をすくめてデイパックをかけなおす。
「何か、頭が痛くて」とうつむいて言い訳すると、「保健室でサボるか」と智也は俺の顔色なら通用すると思った苦笑をこぼした。「うん」とそうしたい気分にうなずいたものの、にぎやかな校舎内に入って靴箱を開くと、そんなのをして早退するわけにもいかないことになった。
そこには、いつもの字での小さな手紙が投げこまれていた。
陽だまりの中を涼しい風がすべっていく。後ろ手にドアを閉めて雑音を絶った俺は、朝より雲が流れた空に上目をして手すりに歩み寄った。
彼はまだいない。よかったと内心息をつくと、わずかに湿っぽくて臭いもある鉄棒にもたれかかる。このあいだは待たせてしまったから、今日は弁当をさっさと片づけて早めに来たのだ。
『昼休みに会いたいです』
ポケットに入れてきた紙切れをもう一度取り出し、見慣れた字をどこかうわずった気持ちで見つめる。宛て名も差出人もない。しかし、それだけで分かる。
頭には相変わらず焦れったい鈍痛が根づき、おかげで心にも散漫な靄がまといついている。それでも二ノ宮に会えるというだけで、今は心が少し光で軽くなっている。
今日はずっと不眠と不快で頭がずきずきしていた。肉体的な痛みが、精神を苦痛に捕らえて離さず、自分は家でどんな態度を取ればいいのか完全に混乱してしまった。できれば鉤爪にした手で、この限りなく疼く脳みそをかきだしてしまいたい。脳みそがなくなれば、俺を痛めつける思考にも記憶にも別れを告げられる。
家族について考えていると、方位が頼りの密林で磁石を失くしたように、どうすればいいのか不安になった。とうさんは、俺を理解しようとしたのか。あの渋面の通り、嫌味だったのか。かあさんが何も言わなかったのは、どうしてだろう。嫌味に目をつぶったのか。自分は理解したくなかったのか。
智也に言った通りだ。俺はまったく彼らの考えが読めない。家族なのに。前は何となくこう感じているだろうと察知できていた。今は嫌われているとしか考えられない。受験勉強もせず遊びほうける変態息子、と見られているとしか思えない。だから、絶対に嫌味だと受け取って、ああいう切り返しをしてしまった。
間違いだったのだろうか。でも正直、いまさら理解してくれるなんて都合がよすぎる気がする。家族は俺と苦しみを分け合おうとはしなかった。耐えようとしなかった。あっさり見捨てた、ホモの味方をして食らう巻き添えはごめんだと。
智也や深井のようには、俺に接してくれなかった。だから、違うと思うのだ。やはりあれは嫌味だった。けれど、その答えは答えでずしりと頭痛を増させ、俺は押し寄せた窒息に負けそうになった。
赤ん坊の頭を撫でる母親の手のように、前髪と頬をさすった風に視覚を取り返す。メモは丁寧にポケットにしまった。二ノ宮は家族をどう思っているのだろう。そういうことはまだ話していない。彼がよければ訊いてみようかな、と冷たい黒錆を指でなぞっていたとき、がちゃ、と背後で音がして振り返った。
「あ……、」
ペンキがはげかけたドアの隙間から顔を出したのは、もちろん二ノ宮で、彼はおとなしい瞳に俺を認めると声をもらした。俺がいったん手すりから軆を離して微笑むと、彼もはにかみわらって、素早く身をすべりこませてドアを閉める。
智也が言うには、俺たちのこのやりとりは“逢引”なのだそうだ。その言葉はともかく、ここが“彼と”の場所になってひときわ秘密にしておきたくなったのは事実だ。俺も彼も、ここに入りこむときはいつも細心をはらってもぐりこむ。
「ごめんなさい。待たせちゃいましたか」
「いや。今来たんだ」
言いながら、ありきたりなデートの台詞に気づき、ちょっと頬を染めながらつけくわえる。
「それに、こないだは俺のほうが待たせちゃったしさ」
二ノ宮は俺を見つめると、含羞を織り混ぜた笑みをして隣に来た。右から左に抜ける涼風になびき、彼の髪や服の匂いがほのかに伝わってきて、妙に意識がのぼせあがる。
彼もまだ夏服だ。がっしりしきらない、でも女の子みたいな柔らかみもなくなってきた曖昧な腕が、俺のそばで軽く手すりによりかかる。
「今日は何もなかったですか」
「えっ」
「何か、用事に重なったり」
「あ、ああ。大丈夫。今日は」
図星にひやりと跳ね上がりかけた心臓を、深呼吸でなだめる。一日じゅういらいらと悩んでいたのが、眉間にでも現れていたのかと思った。
ちなみに昼休みは、俺は智也としゃべっているぐらいでたいていヒマだから、ここに来れなかった事態は少ない。まあ少なくてもあるわけで、そういうときは翌日俺のほうが彼を呼び出して謝ったりする。二ノ宮は俺の様子に不安そうに首をかたむけ、くせっぽい前髪を揺らした。
「何か、悪いこと言いました?」
「あ、いや。何でもないよ。というか、今日はわりと落ちこんでたんで、見透かされたのかと」
「あ、そうなんですか。じゃあ僕とかと話すの、」
「いや、落ちこんでるから、ずっと待ってた。昼休み」
二ノ宮はまぶたを開いて頬に色を通し、こわばる肩を縮めてうつむいた。そんな反応をされると、俺までどぎまぎしてぎこちない視線を空中に放ってしまう。
これで映画だと同時に声出しちゃったりするんだよな、と思い、でもそれって意識しあってるふたりのシーンかと余計に体温も鼓動も故障する。そよ風で眼前に崩れ落ちた前髪は、おもはゆい今はちょうどよかった。
「で、あの──何かあったの」
「えっ」
「いや、何かなきゃいけないわけじゃないけど」
「あ、ああ。別、に。特には。何か、会いたくて」
「会いたい、ですか」
「……はい」
二ノ宮は答えながら血を拭ったタオルのように頬を真っ赤にし、こんなときに限って智也の揶揄が脳裏をよぎったりする。
鈍感。
いや、ダメだ。深読みしてはいけない。外れていて間抜けなのは自分だ。第一、この子は友達の兄貴が好きだと言っていた──瞬間、ずきんと胸苦しさが走り、俺は思わず目を伏せて手すりをつかんだ。
【第百四章へ】
