非常階段-104

これからも会える

「……最近は、どう?」
「え」
「クラスメイトの、態度とか。俺と接してること、ばれて何か言われたりしてない?」
 前髪の隙間で目を向けると、「まだ」と二ノ宮は視線を空に浮かせた。
「特には、ないです。三年の先輩に友達がいるっていうのは知られてきてます」
「……友達、ね」
「あ、すみません。馴れ馴れしくて」
「いや、友達だよ──」
 突拍子もない質問だと頭に赤い警告は走っても、自制をする間もなく喉は言葉を吐き出してしまった。
「好きな人は、どう?」
「えっ」
「ほら、何か、友達のおにいさんだっけ」
「あ、ああ──」
 思いのほか二ノ宮は動揺を見せず、何秒か言葉を咀嚼したあと静かに述べた。
「そう、ですね。何か、忘れてたかも」
「忘れてた」
「その、忘れようとしてたから。忘れたほうがいいし。もう何にもないです」
 俺にぽかんと見つめられ、ようやく二ノ宮は狼狽に頬をほてらせた。「変ですか」と身をすくめる彼に、俺は慌ててかぶりを振ると圧迫がとけた気管に息を通した。
「せ、先輩は、どうですか」
「俺」
「好きな人、とか」
 体温の通った手すりにもたれて、俺を苦笑をこぼす。
「あいつのことは、今は何でもないよ」
「……それは、分かってますけど」
 二ノ宮は、この静かさの中でも聞き取りにくくぼそぼそと言う。
「新しい、というか」
 俺は二ノ宮の深刻な横顔を見つめ、新しい、と心で反芻した。新しい好きな人──
「いないよ」
 芝居でちらつく黒子のように、一瞬心によぎった。
 本当に?
「ま、つきあってるとか、そういう相手はいない」
 そうつけたすと、とりあえず真実は述べた気休めで影も消えた。「そうですか」と二ノ宮も緊張した面持ちをどことなくやわらげる。俺も焦れったいしこりはため息で吐き出すと、天を仰いでいつしか細長くかたちを崩した雲を目で辿った。
「そういう相手がいれば、強くなれるんだろうな。何だってできるようになる気がする」
 二ノ宮がこちらを見上げたのがシャツの衣擦れで分かった。でも、俺はたぶん恋をするのが怖い──そうも続けたかったが、そう言うとあいつを引きずっているようなのでやめた。
 錆の臭いが少しついた手で前髪をはらうと、二ノ宮に屈託のない笑顔を作った。
「君からの話がないなら、俺から話していいかな」
「え。あ、はい。もちろん」
「君は、家族をどう思ってる?」
「え……」
「俺が家族には理解されてないのは話したけど、これが、けっこう問題でさ。落ちこんでたのもそのせいなんだ」
 まばたく二ノ宮に、俺は今朝のことや家の中について話した。とうさんに引っぱたかれたこと、かあさんが徐々に悪いほうへ俺をあきらめたこと、雪乃ねえちゃんが受験に失敗したこと──
 改めてこれまでを回想すると、やはり今朝のは単なる嫌味だったと分かった。今になって、なぜ切っかけもなく和解なのだ。おとぎ話でもありえない。
 聞き終えた二ノ宮は、風に吹かれながら重たい表情で地面を見下ろしていた。
「ごめん」
 二ノ宮は黙ってこちらに顔を上げた。
「不安にさせたかな。でもこれは俺んちの場合だから。君のところは分からない」
 しかし、彼の親が智也のおばさんのようなタイプとも思えない。どちらかといえば俺の家に近そうだ。それでも、深井家のような家庭はあるにはあるのだけど、芽さんのことは何となく黙っている。ゲイということで引きこもりまでやってしまうなんて、この子にはただでさえ厳しい現実を、重苦しく感じさせてしまうかもしれない。
 案の定表情を曇らせた二ノ宮は、わだかまりが細胞ひとつひとつに染みこんでいくように、じわじわと顰眉を浮かべた。
「僕の親も、普通です。僕のがこんなのなんて、考えもしてないと思うし。弟なんかには、嫌われちゃいそうだな。僕がこんな性格だからかな、弟は活発で生意気なんです。あの子はまだ子供なんだけど、絶対にストレートだと思う」
「分からないよ。いや、弟がどっちかってことじゃなくて、親が君のこと大事に想ってるなら」
「先輩だって想われてたのに」
「俺のとこは、俺が思ってるより薄っぺらかったのかも」
「そんな、」
「それに、自分から告白したんじゃないし。姉貴は俺のせいで実際人生狂ったし」
「それは先輩のせいじゃないと思いますけど」
「俺のせいだよ」
「先輩のせいにして、おねえさんは勉強に集中しなかっただけじゃ」
 二ノ宮に目を開いても、すぐに力ない笑みで溶けるマシュマロみたいにまぶたを崩した。
「俺のことがなければ、集中する気になってたんだ」
「そんなの言ってたら、先輩が身動き取れないだけです」
「でも、親もそう思ってるんだよ。俺のせいだって。もちろん俺は、こんな状況になって君とか智也に出逢えた。そこは大切にしたいけど、家にいると弱くなるんだ。選んだ道を信じられなくなりそうになって、行き場がなくなったみたいですごく怖くなる」
 いつだって思っている。二ノ宮には、あまり弱い面はさらさないでおこう。この子は俺を先輩として頼ってくれているのだ。情けないところを見せて、頼りないとか陰気だとか思われ、離れていかれたくはない。だから話題のあつかいかたには気をつけようと──
 思っているのに、どうしてだろう。この子の前だと言葉が生々しくなって嘘がつけない。
「遠くに、行っちゃうんですか」
 しばし沈黙が長引いたあと、不意に思い設けない方向から入った切り口に、二ノ宮を向いた。
「もし、家を出たら」
 二ノ宮は手すりを握りしめて、向こうの灰色の壁に目を据えている。俺は視線をまばたきに乗せて足元に落とした。もし、家を出たら、遠くに──
「……たぶんね」
 二ノ宮が息をすくめるのが聞こえて、彼の横顔に目を戻した。彼はぎゅっとまぶたをつむっていた。
「僕、先輩がいなくなっちゃったら──」
 途端、俺を目を剥いた。光が見えたわけではないけれど、二ノ宮が目尻を素早く手の甲でぬぐったからだ。
「二ノ宮──」
「ご、ごめんなさい」
 みぞおちが、鳥肌が立つぐらい、きつく絞られた。刹那、息ができなくて、そのあと鼓動が激しくこぼれ落ちていった。智也を見つけた。深井を見つけた。俺を必要と言ってくれた人は初めてではないけれど、二ノ宮の反応は、もっと切実で誰より俺の聖域に踏みこんでいた。
「……いるよ」
 こう言わせてくれる人が、ずっと欲しかった気がする。俺だって、自分に非があると認めるように遠くに消えたくはない。けれど、ここにいると途方もないカマイタチに頬も腕もぼろぼろになっていきそうで、逃げ出したい願望を捨てられなかった。わずかに肩を震わせていた二ノ宮は、俺の綻び出た言葉に顔を上げる。
「え……」
「もし離れても、結局、何か引きずって帰ってきそうな気もするし。ごめん。それぐらいの気持ちは味わってるんだよ。けど、きっと俺はこの町にいる。弱い意味でも、強い意味でもね。君も、この町にいる?」
「え、あ──はい。引っ越しとかもしたことないし、これからも、たぶん」
「じゃあ、ずっと、ときどき会えるね」
 二ノ宮は潤みを名残らせる瞳を開き、「ずっと」とひと言もらす。俺は照れ隠しに咲って、肩をすくめる。
「違うかな」
「せ、先輩がいいなら。僕は」
「俺はいつでもいいんだ、会えなかったりするのも単に委員の用事とかだし。俺の気持ちは気にしないで。俺のほうが君が心配なんだよ」
「僕」
「俺とつきあってれば、どのみちゲイかもってうわさは立ってくる。むごいデマもあるかもしれない。俺は君を傷つけたくないし、嫌われたくもないんだ。そう考えると、何なら今のうちに離れてもいいって思う」
 二ノ宮はじっと俺を見つめ、ふと睫毛を下げると声を落ち着けた。
「先輩が、そうしてほしければ」
「俺は、そりゃ、耐えてほしいよ。でも、そんなの俺の都合だし。やっぱり巻き添えはつらいよ。君に家族のこと話したのは、こう言いたかったのもあるんだ。家族だって、その巻き添えには愛想を尽かした」
 率直な言い方に、二ノ宮の瞳は電撃を受けたように硬くなった。
「それぐらい、ひどいんだ。ゲイに味方をした応報は。それでもいいって言える奴もいる、智也とか深井とか。でも、そうじゃない人が多いだろうし、しょせんそれで当たり前なんだとも思う。君も自分の気持ちで選んでほしいんだ。いろんな現実も踏まえて」
 二ノ宮はかろうじて睫毛を何度か痙攣させると、うつむいて自分の日陰に染まる手を見つめた。その横顔は、けして無表情でもなく追いつめられていたが、どんなふうに当惑しているのかは分からなかった。
 いらない殺傷は受けたくないとヒイてしまっているのか。そう言われても進みたいと思ってくれているのか。彼の心を測りかねた俺は、見守る瞳を外して本音をおぎなった。
「あとになってつきあいたくないって言われるのが、一番つらい」
 二ノ宮ははっと俺のほうに顔を巡らせた。くせっぽく跳ねた前髪の毛先が反動を残す。
「俺とつきあってれば、君は傷つくよ。それを分かっておいて、考えてほしいんだ」
 慎重な口調の俺をしばらく見ていた二ノ宮は、不意に眉も瞳もかたくなに縛るときっぱり言った。
「傷つかないです」
「え」
「今の僕が傷つくとしたら、先輩に拒絶されたときです。先輩が僕とこうやって話してくれるなら、僕はほかで何があっても平気です」
 慮外の強靱な言葉に、まぶたを押し上げていく。俺の瞳がまっすぐ通っても、二ノ宮の瞳は揺らがない。
「先輩が味方でいてくれるなら、どんな悪口も僕の傷にはならないです。そんなの、どうでもいい人たちが言うことだし。僕はどうでもいい人より、大切な人に焦点を合わせたいから」
「大切……」
「今、僕が怖いのは、先輩に嫌われちゃうことです。それが起こらないなら、贅沢は言いません」
 俺の目は二ノ宮に向いていたけれど、視覚が絶されて真っ暗闇を見ていた。
 何で。どうしてこんなに強い子が俺なんか──
「僕は先輩のそばにいます。先輩を失くしたら平気じゃないから、……愛想尽かすとか、見捨てるとか、自分のためにもできないです」
「二ノ宮……」
 自分の無意識のかすれた声で、視覚がよみがえった。彼はいつのまにか、いつものはにかんだ笑みをにじませていた。
「僕は桐島先輩とかみたいに強くはないし、先輩にちょっと冷たくされたら簡単に落ちこんだりするんだろうけど。そのぶん、先輩に優しくされたらあっさり幸せになるんだろうし。ほかの人がどう言ってても、僕の気持ちは先輩で決まるから。何があっても大丈夫です」
 二ノ宮を見つめていた。何かが心の奥からふくれあがってきた。爆心地からいっぱいに放射していく、爆発の輝きのように。
 どうして、俺はこんなにいつも弱いのだろう。でも思ってしまう。俺のほうが、この子を失くすわけにはいかない。この子がそう思ってくれるのなら、俺は非常階段を降りて逃げ出したりするわけにはいかない。この子が生活していく空間にいたい。
 信じよう。智也、深井、香野──もちろん二ノ宮、この人たちは、様々な中傷の恨みを俺に向けたりはしないと。俺だって、引け目は感じなくていい。どうでもいい奴には言わせておけばいいのだ。
 そのときチャイムが鳴り、二ノ宮ははたと顔を上げても、俺はほうけていた。「先輩」と二ノ宮に心配そうに声をかけられて、我に返る。
 つい照れ咲いなんかしてしまいつつ、「ありがとう」と彼の黒い瞳に素直に言った。二ノ宮は礼を言われる理由が分からなかったのか、睫毛を上下させる。俺はその表情に微笑んで自然にその頭を撫でると、「行こう」と俺に触れられて淡く頬を色づかせる彼を、ドアの中に連れこんだ。

第百五章へ

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