非常階段-105

恋について

 教室ではそろそろ受験の空気が厳しくなっているのだけど、相変わらず俺は、週末には深井家におもむく。
 もちろん芽さんに話しかけるためもあるけれど、もうひとつ、俺は深井と受験勉強に励むことにしたのだ。家じゃまともに勉強もできないと愚痴っていたら、彼女が提案してくれた。
 思わずまじろぐ俺に、深井はおじさんとおばさんの了解も取って、にっこりとする。働いて、横道に家出とかはしない。このあいだの二ノ宮の想いでそう決めた。だったら勉強はできたほうが便利で、しばらく甘えていいものか悩んだものの、結局深井の協力を仰ぐことにした。
 場所はいつもダイニングのテーブルだ。彼女の部屋には行かない。俺だって気が引けるし、密室でふたりきりになるには彼女も俺に完全に“異性”という意識を捨てられていない。対象のはずなのにそうではないのを割り切るのは、けっこうむずかしいみたいだ。
「まだ、そんなに無邪気に友達あつかいしないでよね。そういうのって、一番刺激的なんだから」
 転びそうになった彼女の腕を平気でつかみ、「大丈夫?」とか覗きこんだとき、そう言われた。臆面したあと、しゅんと謝った俺に、「悪いのはあたしなんだけど」と彼女は慌てて補足も入れていた。
 でも、深井の気持ちは分かる。賢司にときめいて俺もそんなふうに感じ、自分を責めていた──こんな反応したって、相手には絶対届かないのに。それを話すと、深井はちょっと切なそうに微笑んでいた。
 ともあれ、深井は俺より成績もずいぶんいいし、この勉強法は有意義に影響してくれそうだ。一階に家族がいる。音を立てて意識されたくない。そんな気配を消す警戒を解放されるだけでも、神経が脇に逸れない。
「受験勉強を男の子とやるなんて考えてもなかったよ」とくすりと咲いを噛む彼女に、俺もうなずく。このあいだは、「智也も誘ったらどうかなあ」とか言って思いっきり嫌な顔をされ、家ではできないくつろいだ大笑いもしてしまった。
「お邪魔します」
 秋晴れの青空の元、なめらかになった風が肌や髪を涼ませていく。熱気で蒸していたアスファルトやコンクリートの匂いも軽くなり、夏場には家に引っこみがちだった住人ともすれちがいつつ、日曜日の午後、俺は今日も入り組んだ住宅街を進んで深井家にやってきた。
「今日は何持ってきたの?」
 俺の肩のベージュのリュックを一瞥し、深井は俺を明るい玄関に招き入れる。髪を下ろす彼女は、今日は黄色の長袖シャツに迷彩柄のミニスカートというすがたをしていた。俺は薄手の黒いプルオーバーにブルージーンズだ。
「英語と国語。もうじき中間だろ」
「あー。そっか、五教科固めとかないとね」
 おじさんの靴もおばさんの靴もある中に、スニーカーを脱いで廊下に上がる。
 いつのまにか、ここの家の匂いも気にならなくなった。カレンダーではすでに十月のなかばだ。
「そういや、カシスは元気?」
「え、まあ。何で」
「最近、俺が来ても唸ってるとかなくなったような」
「ああ。覚えたんでしょ。塩沢が来てくれるようになって、三ヵ月だもん」
 三ヵ月。廊下の角を曲がりつつ、ふと痺れるような苦い感慨が胸に染みこむ。階段のところで、ドアへと引き返そうとした深井を呼び止めた。
「進展なくて、ごめん」
 深井は急な台詞に目を開いたものの、すぐ“三ヵ月”という言葉に俺が反応したのは察した様子だ。
「ううん。塩沢は責任感じることないよ」
 と言われても、どこかではこんなに難航するとも思っていなかった。簡単なことだと見縊っていたつもりはないが、三ヵ月も変わりないほど、自分が無力だなんて予想したくはなかった。
 まあ、向こうは何年も引きこもってきたのだ。乾涸びてしまった土地を、森で潤そうとしたら、まず地道に土を耕さなくてはならないように、数ヵ月で恵みを望もうなんてせっかちなのだろうか。
 芽さんは深く傷に沈みこんでいるわけで、焦るのは禁物だと想う反面、やはりこちらの面も案じてしまう。
「迷惑と、思われてないかな。思われてたら、来るほど逆効果だろ。何か、そう思われてる気もする。音だって立てないんだ」
 妖精の羽が透かす光のように、軽やかな陽光が射す階段へと首を捻じる。壁一枚で接するダイニングでは物音がしている。深井の重いため息が聞こえて目を戻すと、「あたしも」と彼女は頬を髪に陰らせて、フローリングに伏目になっていた。
「兄貴の気持ちは分からない。塩沢が来て嬉しいか、鬱陶しいか。別に何とも意識してないか」
 言われて気がつく。それもあるかもしれない。俺が話しているのは聞こえつつも、聞いていなかったら。けっこう冷遇だが、俺は正直、芽さんが優しい人だという話に実感は持てていない。深井は俺に目を上げると、弱い笑みを作った。
「塩沢には、自分を責めちゃうようなことさせてるとは思ってる。でも、塩沢が悪くて兄貴は応えないんじゃないんだ」
「俺が追いつめてたら」
「会いにきてくれる人を追いつめてきてるとか見るようにしたのは、あたしたちだよ。もし兄貴がそれほどになってたとして、いつか塩沢を傷つけたら、ほんとにごめんね」
 息苦しく咲う深井の瞳を見つめ、いったん視線を足元に彷徨わせた。とはいえ、俺が悪化させているという事実の可能性はありうるわけだ。だとしたら、俺はここに来るのが怖い。
「芽さんの力になりたいと思ったけど」
 リュックの肩紐を握りしめ、もどかしい口調で低くつぶやいた。
「力を貸してほしいって思われることが貴重なのは、こないだ二ノ宮と話してよく感じたよ。あの子はすごく俺を必要としてくれてる。あんなふうに思ってもらえるのって、稀なことだよな。芽さんまで俺をそんなに強く思うなんて、むずかしいかもしれない。いくら力を貸したいってこっちが思ってても、力を借りたいと思ってもらえないというか。そのときは、俺のほうこそ謝るよ」
 顔を上げると深井はじっとこちらを見つめていて、俺はぎこちなく笑みを作った。さいわい、深井は怒っていたのでなく、思いつめていただけのようで、俺に咲い返すと首も横に振ってくれた。「塩沢がよければ行ってあげて」と言った彼女に二階を仰いでうなずくと、身を返して階段をゆっくりのぼっていった。
 今日の話も、とりとめなかった。二ノ宮や家族や、智也や香野のことを思いつくままつないでいく。二ノ宮のことを話すときは、異様に胸の中が高揚して、息継ぎのためにちぐはぐな沈黙がよく入ってしまった。
 あの子の瞳とか、髪とか、腕とかがちらつくと息が苦しくなって胸がいっぱいになる。うすうす予感もあるが、あの初恋のとき、俺を振りまわした暴走する情感はない。当時より制御できるようになっただけだろうか。よく分からない。
 でも、そのへんは詳しく語らなかった。遠く感じさせて、ますますこのドアがぶあつくなったらいけない。相変わらず室内には音も気配もなく、話を切り上げた俺は、立ち上がってリュックの肩紐に腕を通した。そして陽当たりの中を立ち去ろうとしたが、不意に思ってひと言問うてみた。
「芽さんは、自分を勇気づけてくれる人が欲しいとは思いませんか?」
 今日のデザートは、カスタードクリームが挟まれたワッフルケーキだった。スナック菓子でじゅうぶんなんだけど、とは思っても、厚意に対してそんなのは言いにくい。バニラエッセンスも香りよくておいしいのだけど、めいっぱい甘い。
 俺と深井は国語と英語の予想範囲をひと通り頭に書きこむと、十六時を過ぎた頃、風が心地よさそうなのでサンデッキに出てみた。
「毎週、週末は時間つぶさせちゃってごめんね」
 雲も流れ去った空には青が透き通り、陽射しと涼風が芝生とサンデッキの木の匂いを凪がせている。
 俺と深井はカシスの小屋に面する手すりぞいに腰をおろした。カシスははたきみたいなベージュの尻尾を振り、サンデッキに前足をかけてくる。
「構わないよ。いつもヒマだし」
「桐島と遊んだりはしないの」
「あいつもデートがあるし」
「……そういや物好きがいるんだっけ」
 手すりと向かい合う深井は目つきを白けさせ、膝を舐めてきたカシスの頭を撫でる。
「塩沢は、二ノ宮くんとデートしないの?」
 手すりに背中を預ける俺は、飲んでいるときに驚かされたように思わず喉を詰まらせる。
「で、デートって」
「違うの?」
「そんなんじゃないよ。そのうち、休日とかにも会えるぐらい打ち解けたいとは思ってるけど」
 風に髪をなびかせながらこちらを向いた深井は、彼女を意識させないよう、広い肩を引き寄せる俺に淡く微笑んだ。
「何かいいね」
「え」
「あたし、好きな人とかいないからさ」
「……そうなのか?」
「桐島がそうなんじゃないかとか、マジで思わないでよね。どうせ彼女いるわけだし」
「まあ。……そうだな」
 深井の横目から目をそらすと、かすれた青のジーンズの脚をサンデッキに放った。夜毎軋んで伸びた身長に合わせ、いつのまにかけっこう長くなった。
「普通、女のほうが早いって言うのにね。桐島も塩沢も片想いでは済ましてないじゃん」
「お、俺は好きとかまだそんなんでは」
「なるでしょ、そのうち」
「分かんないよ。智也は智也で変わってるし。別に俺たちと較べることはないんじゃない?」
 深井はカシスと腕をじゃれあわせながら、「そうだね」と大して納得しないままの口調で答えた。
 俺は手すりによりかかって、頬や髪の間に秋風を通す天を仰ぐ。手すりといっても、俺の背中の下半分をささえるぐらいで、寄りかかりすぎるとカシスのほうに落っこちる。
 カシスの鎖が金属の蛇みたいに音を立てるほかは、思うより静かだ。
「桐島の彼女って、見たことある?」
 深井をちらりとし、努めて冷静に返した。
「ないよ」
「あいつって、やっぱ見た目では選ばないのかな」
「一応、外見から始まったみたいだけど。自分よりガキっぽい女は嫌だとは言ってた。わりと与えられるほうが好きらしいよ」
 深井は手すりに両腕を重ねると、そこに顎をあずける。カシスにくんくんとされて、俺はちょっと身を引いてしまう。
「ムカつくけどさ、あいつって本当の恋とか見分ける力がすごいありそう」
 深井を見、智也を思い返すと何となくうなずけた。「いいよなあ」と深井は自分のほうにカシスを呼びながら、しみじみと息をつく。
「あたしなんか、うまく恋愛できるか見当もつかないよ。何回もダメにしそう」
「理想のタイプとかはあんの」
「あたし、けっこうブラコンだから」
「……芽さん?」
「うん。ほんとに優しいの。それは誰にでもなんだけど、特にあたしには甘かったしね。確かに強くはないけど、守ろうってときには守ってくれたし。その無理してるすがたが、この人の力になってあげなきゃってこっちも強くさせるというか」
 ガラス戸のひさしを見あげ、いつか見た芽さんの写真を漠然と思い出した。あの容姿を想うと、深井の語る芽さんのイメージは、霧の中で感じる水蒸気のように多少つかめた。
「もう、違う人になってるのかもしれないけどね」
 深井の陰った睫毛を振り向いて、黙りこんだ。ぱたぱたと尻尾を振るカシスのほうからそよ風がすりぬけ、俺は手すりにもたれなおすとつぶやいた。
「俺、やれるだけやるよ。でも、これ以上は無理だって感じたら、そのときはごめん」
 深井は俺に顔をあげると、何とか気丈を繕って咲った。
「いいの。塩沢には、二ノ宮くんができたんだし。兄貴のために時間を割きすぎる必要はないよ」
「俺は芽さんとは話してみたいんだけどな。片想いだ」
 そうくすりとすると深井も咲い、「兄貴ももったいないことしてるよね」とベージュの毛並みに首輪が隠れがちなカシスの喉をさすった。カシスは気持ちよさそうに黒い瞳を細め、俺もそんなふうに涼んだ風に身を任せて細目になる。
 深井はそう言っても、俺にはよく分からない。俺はどちらを気をかけたいのだろう。芽さん。二ノ宮。だからこそ、芽さんに会いたいと思う。彼がどんな人か知って、どんな気持ちを抱くかはっきりすれば、感情も分別できそうだ。
 二ノ宮の心が取り返しがつかなくなってきているのは、やはり俺のうぬぼれた錯覚でもないようなのだ。あの子が傷つく可能性が出てくる前に、俺は自分の気持ちをきっぱり見極めておかなくてはならない。

第百六章へ

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