同じ服の匂い
「おかえり。待ってたのよ」
その日は、三日間の中間考査が終わった金曜日だった。
三年生になって試験は毎回ずつ手応えが出てきていて、安堵の中で帰宅すると、突然そばのリビングの扉が開いた。スニーカーを脱ぐ動作をどきりと止めて顔を上げると、目に入ってきたのはかあさんだった。
鉢合わせかと一瞬にして空気を抜かれたみたいに俺は畏縮したものの、かあさんはまじめな顔で、そんな思いがけない言葉をかけてきた。
「は……?」
「話があるの。いいかしら」
「え、まあ、……いいけど。すぐ?」
「服は着替えてきなさい」
表情や声にどことなく、久しく見なかった母親の威厳がある。
話。何だろう。いや、やはり高校の進学についてか。もう面倒は見たくないとか。まさか勘当──
転がり落ちるような不安に脳内を真っ白に冷えこませながらも、小さくなってかあさんとすれちがうと、軽い手提げとひとまず部屋に向かった。
あの試験前の電話以来、かあさん──というか、家族の誰とも口はきいていない。勉強という口実が通用して、余計に閉じこもれたから、顔もろくに合わせていない。
そういえば、勉強のあいだは音楽を聴きっぱなしだったので、俺が聞こえないあいだに家族が何か相談していたのはありうる。あのかあさんの深刻な面持ちはただごとではなさそうだった。
やっぱ高校に行かせる気はないとか言われんのかなあ、と緊迫のあまり寒さを錯覚して震えそうな軆に私服をまとわせると、恐る恐る一階に戻った。
「お昼ごはんは食べる?」
「え、……いや。いいよ」
客人あつかいなのか気遣いなのか、かあさんはリビングで俺に紅茶を淹れて待っていた。時刻は十一時をまわったところだ。雪乃ねえちゃんもたぶん試験中なのだが、どうやらまだ帰っていない。「じゃあ座りなさい」とかあさんは向かいのソファをしめした。
初めて生徒指導室に呼びつけられた、普段はまじめな生徒みたいに、長いこと座っていないソファにこわごわ腰かける。いつもと違う洗剤で洗った服でも着ているような、落ち着きない身動ぎがおさまらない。
紅茶は香りのいい湯気を立てているが、食道が塞がっていて、食べ物どころか呼吸もよく通らなかった。しばらく、自分の膝を見つめて黙りこんでいたかあさんは、ふと立ち上がってダイニングの食器棚の引き出しをごそごそとしてくると、帰ってくるなり持ってきたものを座卓の真ん中に置いた。
俺はその粗末な紙を見、途端、胸倉をつかまれたようにきつく息をすくめた。ノートでも破いた再生紙の切れ端には、毒々しい真っ赤な殴り書きが走っていた。
他人を巻きこむ病原菌野郎!
とっとと消えちまえ!
こわばった喉に体温が蒼ざめ、しかし、頭は真っ白に炙られていくような気がした。嘘。何。何でこんなのをかあさんが──。
鮮紅の文字だけ焼きついて、視界が急速に色褪せ、吐きそうに全身に響く鼓動は息づまった感覚に遠のいていく。指先が震えかけて、何とかこぶしを握った。
かあさんの筆跡ではないのは分かる。というより、ほかに心当たりのある筆跡でもある。いつもの臭いがする文字だ。いや、もちろん二ノ宮ではない。この文字は、例えばこんなことも書いた。
“エイズ野郎!”
背後の通りを、車が過ぎていく音がする。
「このあいだ、数学の教科書を持っていったとき、靴箱に入ってたの」
引き攣った動作でかあさんに顔を上げる。かあさんは睫毛を伏せて、その走り書きを見つめている。その頬は寒い夜の月のように蒼白く、膝で握りしめられる手は心なしか二年前より細い。
「これ──」
「べ、別に何でもないよ」
どもっていても、嘘ではなかった。俺が今、心臓を動顛させているのは、こんなのをかあさんに見られたことにだ。中傷をもらうの自体はたいして久しぶりでもない。
でも、他人を巻きこむ病原菌──その毒ガスのように瞳にひりつくその言葉は、智也や深井の顔をよぎらせ、気にやまないようにしているみぞおちをつらぬいて、呼吸を引きちぎる。
「ごめん、びっくりさせた?」
「柊、」
「気にしなくていいよ」
つい口走ったが、何を言っているのだ。家族が俺を心配などするはずはない。むしろ、ここまではっきり言われながらまだ分かっていないのかとか言われるに違いない。聞きたくなかった。
「……その、お、俺は気にしないから。何言われても。こんなん、」
立ち上がって座卓の紙をもぎとろうとした俺の手を、かあさんの手が素早く止めた。どきんと心臓がつづまる。
かあさんは俺に顔を上げる。手の甲に体温が染みこんできて、息遣いが唇でかすかに震えた。
子供の頃は俺の手をすっぽり包んだ手なのに、今は俺の骨ばった手のほうがかあさんの手を包めてしまいそうだ。
「……ごめんね」
「えっ」
「どうしてかしら。こんなことしか、切っかけにならないなんて」
かあさんの瞳が、沸騰しかけた水面のように滲みかけて目を開く。かあさんは俺の手をぎゅっとつかんだ。
「柊がつらい想いをしてたのは、少し雪乃にも聞いてたはずなのにね。この目で見ないと、深刻さも分からないなんて」
視線が狼狽えて心臓がざわつく。
何。何だ。
俺は何を言われているのだ。
「かあさん……?」
「この手紙を見て、本当にショックだったの。柊が勉強してる三日間、おかあさんも考えてたわ。認めたくなかったけど、でも、それは真実じゃないのよね。おかあさんたちは、柊にこんなひどいことを書いてくる子と同じことをしてたんだわ」
かあさんは紙切れを一瞥し、胸苦しくうつむく。俺は瞳も声も失い、手をつかまれたまま中腰がかって動けない。
「ほんとに、ごめんなさい。人がやっていることを見て『ひどい』と思わないと、自分のひどさにも気づかないなんて。ごめんね。私は柊の母親なのにね。世間の人たちがこんな態度を取るなら、だからこそ、家族ぐらいかばってあげなきゃいけなかったのに」
こめかみがほのかに頭痛をおびてくる。何だろう。これは、明け方近くの、とりとめのない浅い夢だろうか。
でも、かあさんの体温が俺の体温に流れこんでくる感じは揺るぎない。かあさんは俺に顔を上げると、ひりひりした笑みを何とかこぼした。
「柊に信じてもらえないのは、覚悟してるわ。でもね、おかあさんは柊にとまどうのはやめるわ。やっぱり、おかあさんは、柊の味方でいたいもの。味方でいていいって、いてあげなきゃって、やっと分かったのよ」
笑みと一緒に、かあさんの瞳から頬には涙がしたたっていく。そして俺は、その涙のしたたりに合わせるように腰から力を抜かし、膝を崩してフローリングにへたりこんでしまった。かあさんは慌てて手を放すと、ソファを立ちあがってかたわらに駆け寄ってくる。
「柊、」
「……ほんとに?」
「え」
「ほんとに、そう思ってくれんの?」
瞳を湿らすかあさんは、かすれた声で放心しかける俺にまぶたを押し上げると、俺の頭を撫でて即答した。
「もちろんよ。こう思えるようになって、おかあさん自身ほっとしてるのよ。柊を嫌いにならずに済んだんだもの」
至近の所作には、懐かしいかあさんの匂いがした。俺はかあさんに顔を仰がせ、転んで膝をすりむいた子供のように泣きそうに、眉の弧も目の中もひずませる。
「お、俺がそんなんじゃなかったほうが、って思ってない?」
「柊の人生は柊のものだもの。おかあさんたちを気にして、媚びるように生きる必要はないわ。柊が自分で自分を受け入れて、あんなこと言われても負けないで生きていけるなら、誰にも何も言えないわ。おかあさんはね、そういうところも心配だったのよ」
「え、」
「もしそういう人間として生きていくなら、あんなひどいことも避けられないから、……柊に必要以上に傷ついてほしくないの。親だもの。でも、こんなに強い子に育ってくれてたのね」
かあさんは俺の頭を撫でて、自然に胸の中に抱き寄せた。俺はわずかに息を飲んでも、すぐその暖かさに肩をやわらげて、覚えている匂いにほぐれていける。しかし、痙攣した声はいくつかの名残る不安を小さくこぼした。
「……孫とか」
「いいのよ、できたとしても好きになった人との子ではないんでしょう」
「俺なんか、どっかに消えたほうがよくない? 死んだほうが──」
「そんなことになったら、おかあさんは柊じゃなくて同性愛を憎むだけだったわ。そばにいて、柊が生きているだけでじゅうぶんだってことを、おかあさんたちに教えてほしいの」
鈍く疼く喉元に、睫毛を伏せた。まだ質問はあった。言いたいこともあった。でも、もう声が追いつかなくて、代わりに震えた目尻から深い熱があふれていった。かあさんの服の匂いは、今でも俺の服と同じ匂いだ。
「ほんとにごめんね。ひとりでつらい想いをさせて」
かあさんは俺の頭を撫で、一度鼻をすすった俺は、何となく恥ずかしくなり、柔らかい胸から軆を離した。
「今は、そんなにひとりじゃないけどね」
ほてった目をさりげなくぬぐって肩をすくめると、かあさんはまろやかに微笑んだ。
「あの担任の先生ね」
「とか、友達もいるし」
「……そうね、お休みの日にはどこか行ってるわね」
「ひとりは男でさ。でも友達だよ。そいつは彼女もいるから」
「……そう」
「あとひとりは女の子。あと、まあ、ほかにもひとりかふたりか」
「もう、おかあさんたちなんかいらないかしら」
「そ、そんなことは、ないけど」
ばつが悪くてそっぽになりながらもそう言うと、「よかった」とかあさんは咲って息をついた。俺はかあさんに目を戻すと、ややまじめな顔つきになった。
「とうさんとかも、そう思ってくれてんの」
かあさんも俺を見て面持ちを神妙にすると、やはりさすがに首を横に振った。
「分からないけど、たぶんね。とりあえず、おかあさんは柊の味方よ。そうしたいって信じられたわ」
「……うん。ありがと」
「お礼なんていいの。おかあさんのほうが、当たり前のことをしてなかったんだから」
哀しく咲ったかあさんに、俺もわずかに咲い返していると、がちゃ、と不意に玄関で物音がした。俺とかあさんはそちらを見、目を交わして言わなくても雪乃ねえちゃんなのは分かり合う。
雪乃ねえちゃん。ちょっとやばい。たぶん泣きっ面が残っている。でも向こうを向くくらいしかできずにいると、「ただいまあ」と案の定雪乃ねえちゃんのかったるそうな声がした。
普段はそのまま部屋に直行なのに、この日に限ってリビングのドアを開けて、ブレザーの制服すがたを現す。
「あ、あら。おかえり」
腰をあげたかあさんは、さっと座卓の紙切れをポケットにしまう。それでも、動作を見取れた雪乃ねえちゃんは怪訝そうにしたが、俺を認めてさらに驚いた。それに続き、「お邪魔しまーす」と雪乃ねえちゃんのあとから同じ制服の巻き毛の女が顔を出した。
「え、何。男じゃん。あんた、兄貴なんかいたの」
「……弟よ。中三」
「何だ。最近の中学生って発育いいのねー」
「そいつはやめておいたほうがいいわよ」
そっけなく斬った雪乃ねえちゃんに、「そんな気ないよ」と巻き毛女は頬をふくらます。
「でも何でー? 性格悪いの?」
「さあね」
そのふたりの様子に目を開いて、ぽつりと思う。
友達ができたのか。……よかった。
「かあさん、何かお菓子ある?」
「キッチンのいつもの棚にあるならね」
「あーあ、冬までに彼氏欲しいなあ」
「夏までに、って台詞はどうなったのよ」
雪乃ねえちゃんは巻き毛女を廊下にうながすと、自分も廊下に出、階段のそばのドアからキッチンに立ち寄ると、がさごそして二階に行った。
話し声が遠ざかったあとで、俺は自分がぺったり床に座りこんでいたのに気づいた。バカっぽく見えたかな、と気にしつつ立ち上がると、かあさんの目線を楽に追いこしてしまう。かあさんの瞳を見下ろし、俺は天井を軽く瞥視した。
「ねえちゃんのことは、悪いと思ってる。その、受験のこと」
かあさんは俺を見上げると、けしてお世辞ではなさそうに微笑した。
「柊のせいじゃないわよ。お昼ごはん作るから、ここでゆっくりしてなさい」
「え、いいの」
「柊の家なのよ。それに、隣で女の子の話し声がしてたら落ち着かないでしょ」
俺は実際こうるさい天井に苦笑いをこぼすと、「そうだね」と思わずガキっぽい口調で言ってしまった。最近は智也や深井に対する荒削りな言葉遣いしか口にしなくなっていたから、変な感じだ。
かあさんは笑みをなだらかにすると俺にソファにしめし、俺は本当に久しぶりにソファにくつろいで、食事ができあがっていく匂いの中をただよった。
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