非常階段-108

光めいて

「芽さん。こんにちは」
 智也か二ノ宮か、かあさんの理解をまず誰に話そうか、けっこう悩んだ。ひとりで喜べばいいことではあるが、深井や香野にもぐずぐず言って心配はかけた。一応、ひと言でも断っておきたい。
 あの夜、ベッドに仰向けになると、どのみち二ノ宮には月曜日まで会えないのを認めた。智也にはその日のうちに電話することができたから、やっぱり彼に知らせようかと考えた。けれど、そういえば今週は土曜日に深井家を訪ねるのだ。家族の拒絶に引きこもってしまった芽さんを想っていると、やがて、まず芽さんに報告しようと決めていた。
 だから、今、階下で別れた深井にもひとまず何も話さなかった。餌を投げられてしっぽを振る犬の本能並みに、玄関で真っ先に口をすべらせそうになったけれど。
 ガラス戸と向かい合う板張りのドアには今日もよく陽が当たり、床に揺りかごのような陽だまりができている。
 俺の声に相変わらず反応はない。遠くにカシスではない犬の鳴き声を聞きながら、硬い廊下に腰をおろした。
「すっかり涼しくなりましたね。長袖着てます? 俺は長袖ですね。ここんとこ天気もいいし、ちょっとでも雨戸開けて空とか見てみればいいのに」
 アイスブルーのジーンズの脚を廊下に伸ばし、白と黒の切りかえの長袖シャツの上体は壁に預ける。前髪が暖かい陽射しに暈を滲ませている。
「俺は昨日で、試験も終わったんです。けど、これからはたくさん勉強しないと。受験もあるし。毎週来れなくなってくるかもしれないけど、そのときはごめんなさい。三年生は文化祭には参加しないから、ほんと、これからは大した行事もなく勉強ばっかりなんだろうな」
 とはいえ、口調がいつもほど滅入っていないのが自分でも分かる。勉強なんかしたくてもできない状態なのを痛感するだけで、理解以前に苦痛だった。しかし、それは改善のきざしを見せたのだ。
 俺は落ち着いた色合いのドアを振り向く。
「いつもここでは、暗いことばっかり言っててすみません。深井たちには勇気づけてやってほしいって言われたのに、ぜんぜん、俺が弱くて、そんなうつわじゃなくて。でも、今日は違うんです。芽さんに一番に話すんですよね。何となく、そうしようと思ったから。家族のことです。あ、深井たちじゃなくて俺のですよ。昨日、かあさんが俺のこと分かってくれたんです」
 ドアの中に物音は立たない。それはじゅうぶん覚悟してきたつもりなのに、やはり期待も少なくなかったのか、がっかりしてしまう。それでも、白い壁にもたれなおすと天井を仰いだ。
「いきなりで、驚きましたけどね。まだちょっと信じられない。でも、たぶん嘘じゃなかった。何か、こんなふうに家族の気持ちを無条件で読めるのって久しぶりだ」
 嫌がらせを見てかあさんが反省したこと、俺が悪いのでなく自分が当然の態度を取らなかったと言われたこと、そしてゲイである俺を信じてくれたこと──「まあ」と俺は膝を抱えて、少しドアに首を捻じった。
「突然すべてがうまくいったわけでもないです。とうさんはそんなの知らないし、雪乃ねえちゃんもそもそも家庭に興味とかなくなってきてるし。でも、かあさんだけでも味方についてくれたのはすごく嬉しいです。心強いというか。ゲイとして生きていこうとしたら、いろいろ嫌がらせとかあって。それが心配だったっていうのは、言われなきゃ気づかなかった。親ってそういうことも考えるんですね。芽さんのおじさんとおばさんも、そういうのを心配して初めは否定したのかも。ストレートのほうが、そりゃ中傷はないですしね。まあ、かあさんが言ってくれたほど俺は強いわけじゃなくて、今こうできてるのは、智也とか深井のおかげなんです。あいつらがいて、俺もやっと自分を信じられた。男を好きになってもいいんだって」
 俺の声はいつも空中に吸いこまれていく。外では犬が鳴きやんでも、鳥がさえずったり車が通ったりしている。それでも静かなほうで、背後が無気配なのは聞き取れる。
「芽さんは、どうしてずっとこもっちゃってるんですか。出てくるの怖いんですか。俺の伝え方が足りないのかな、出てきたらいきなり態度変えるとか、絶対にないのに。みんな、芽さんを受け入れる準備はできてるんですよ。いまさらとか、そんなふうには思わなくていいと思う。出てきたくないならしょうがないけど、少しでも出てきたいと思ってるなら、そうしてみてください。みんな喜ぶと思いますよ」
 本当はこのあたりはいまだにどんな言い方がうまいのか分かっていない。ひかえめすぎると出てこなくてもいいと言いたげだし、勧めすぎると脅すみたいだ。第一、芽さんがどんな理由で外界を遮絶しているのかもはっきりしていない。相変わらず家族に怯えているのか、分かっていても出るに出られないのか、こちらは知らない問題があるのか──
「これは、俺のかあさんが言ってたんだけど。俺なんか消えたほうがよくないかって訊いたんです。俺がいなきゃそんな葛藤とかしなくてよかったんだし。でも、かあさんはそんなことないって言いました。俺が生きてそばにいるだけでいいってことを教えていってほしいって。たぶん、ストレートじゃない息子なんかいらないとか思って、いざ俺を失くしてみて後悔するとか、そんなことにはならないようにしてくれってことですよね。芽さんも、きっとご両親にそう思われてると思う。会えなくなって、失くしてみて、普通に存在してる大切さみたいなのに気づいて、失くすのに較べたら理想通りなんてどんなにちっぽけな望みか気づく、というか。うまく言えないんだけど。とにかく、ご両親は芽さんに無茶なものは求めてないですよ。そのままでいていいって、顔を合わせてくれるならもう余計なものは望まないって。親って、そういうふうに想ってくれるものですよ。今は俺、きちんと言えます。おじさんもおばさんも深井も、芽さんの敵じゃない。芽さんが顔を出してくれる以上は何も望んでない。ストレートになることも、いきなり社会に放り出すことも。あ、それって見切ったってことでもないですよ。それが芽さんなんだって、受け止めたんだと思う」
 ──一階に降りると、マカロンが待っていた。プレーンとチョコレートがある。見た感じさっぱりしていそうだと手に取ると、香りが強かった通り、かなり甘かった。「甘いな」と渋みの名残る紅茶を飲みながらつぶやいてしまうと、「甘いの嫌いなの?」と向かいの深井は口にプレーンを放る。
 ちなみにおじさんとおばさんは出かけたそうで留守だったが、外のサンデッキでカシスは物音を立てている。
「嫌いってわけじゃないけど、特に好んでは食べないかな」
「でも、毎週ちゃんと食べてるじゃん」
「出してもらってんのに。ほんと、あんな気い遣ってもらうほどのことしてないのにな」
「もてなしたいんでしょ」
「じゃあ、スナック菓子とかでいいって言っといてくれよ」
 深井は肩をすくめると、チョコレートマカロンを口に入れた。俺もカカオが香るひと口を投げこむ。もちろんまずいということはなく、舌触りもしっとりしている。こんなふうにいつもよさそうな品だから、余計に残せない。
「兄貴はどう?」
「ぜんぜん。今日はちょっと期待してたんだけどな」
「何か切り札あったの」
「かあさんのことを話したんだ。俺のね。昨日、かあさんが俺のこと受け入れてくれたんだよ」
 カップを手に取りかけていた深井は目を開き、俺はどんな顔をすればいいのか、とりあえずあやふやにでも咲った。「ほんと?」と深井はカップをテーブルクロスに戻す。
「うん。何か、すごい嬉しかったよ」
「そりゃ、そうだよね。え、いきなりだね。説得とかしてたの」
「いや。でも切っかけはあったよ」
 数学の教科書を届けてもらったことから、まだとうさんや雪乃ねえちゃんとは何も変わっていないことまで話した。深井は真剣に聞き入ってくれて、聞き終わると複雑な伏目で椅子にもたれかかった。俺はいつのまにか香ばしい湯気を失った紅茶で喉を潤した。
「嬉しかったぶん、ずいぶん深いとこまで家族をあきらめてたんだなあって感じたよ。理解して当然だって何も感じないとかはなかったんだ。味方でいるって言われて、やっぱり、すごくほっとした。まあ、完全にあきらめなかったからだよな。あきらめてたら、いまさら何だよってはねつけてたかも。素直に喜ぶ期待も多少残ってたみたいだ」
 照れ隠しに苦笑した俺を深井はじっと見つめた。俺はその瞳を見つめ返すと、テーブルに身を預ける。
「誰に一番に話そうって、智也とか二ノ宮とか考えた。俺、みんなに愚痴ってただろ。深井にも言いたかったし──あ、おじさんとおばさんにも一応伝えといて」
「……うん」
「香野にもひと言言っておこうと思う。でも、まずは芽さんに知らせようって思ったんだ。芽さんにも俺んちのことは話してる。何度もあの家はもうダメだって話してた。なのに分かってもらえる日が来て、何か、芽さんに一番知ってほしい気がしたんだ」
 深井は俺を見つめると、「ありがとう」と凍えて固まった人が毛布をもらったようにほのかに微笑んだ。俺は首をすくめると、プレーンマカロンをひとつもらう。
「でも、反応なかったけどな」
「……そう」
「ほんと、どうしたらいいんだろ。情けないや。何もできなくてごめん」
「ううん。あたしたちのほうが塩沢に頼っちゃって」
「何か、分からないんだ。芽さんって閉じこもってたいのかな。もう、何にもしたくないというか。受け入れられるとかどうでもよくなってるのかもしれない。そういう気持ちに進むのはないとは言えないと思う。俺も考えたし。もう学校も生きていくのも投げ出したいって」
 視線を手元にうつろわせた。この口ぶりほど過去形になったわけでもない。
 非常階段は降りないと誓ったけど、誓いは誓いで、降りたくなるような気分にならなくなったとは言えない。これまでの記憶、巻き添えにされる人たち、断続する嫌がらせを思うと、不安定な逃避願望に彷徨い出そうになる。
「そうだとしたら」という深井の声に、はっと顔を上げた。
「兄貴のことは──」
 思いつめる彼女の硬い頬に、俺は笑みをほぐした。
「そっちがその気ならこっちも取り合わないという考えはしないよ。でも俺、やっぱりカウンセラーとかではないし。いつか、自分の力じゃダメだって限度は感じるかも」
「……そう」
 うつむいた深井に謝ると、彼女は笑顔を取り繕った。カシスが外で何やら鎖の音を立てている。
「ま、今のところはまだここに来たいと思うし。限界を読み取るには芽さんの状態を知らない。ただ、ちょっずつ家でも勉強できるようにもなるかもしれないから、毎週は来れなくなるかもしれない。芽さんにも断っておいたけど。それは──」
「もちろん。塩沢の生活は塩沢のだもん」
「智也とも勉強するしね」
「あいつが」
「同じ高校に行きたいから。智也にも言わないとな。高校は行かせてもらえそうだって」
「まだ言ってないんだ」
「昨日電話で言おうかとも思ったけど、芽さんに先に言おうと思ったし。あいつ、週末の夜なんか家にいるかなとか思って」
「……彼女ね」
「うん。だから、月曜日に言うよ。二ノ宮にも、家族にも理解されないこと話して怯えさせたから言ってあげないと」
 そう、二ノ宮に家族のことを愚痴ってしまったのは、やはり今思うと後悔を否めない。あんな話はあの子に家族を警戒させてしまうだけだった。たとえ、俺さえ味方についていればいいと言われたとしても。俺のこの体験を話し、彼が家族に勇気を持てるようになるといい。
 深井は紅茶をすすりながら俺を見つめると、何だか気だるそうに天井に目を放った。
「二ノ宮くん、か」
「ん」
「何か、彼にはあたし複雑になってきてるんだよね」
「えっ」
「兄貴──やっぱり、塩沢にはその子ができたから、顔出すの気が引けてきてるのかも」
 思いがけない言葉に俺が答えを狼狽えさせると、深井はこちらに目を戻して、自己嫌悪も綯い混ぜてばつが悪そうに咲った。
「塩沢が悪くないのは分かってるよ。ただね、兄貴は気が弱いから」
 俺は浅くなった紅茶の水面に目を落とし、智也との話を思い出した。二ノ宮と親しくなっても、芽さんのところに行くのは残酷かもしれない──
「俺はどっちかと深い仲になる気とかはまだないんだ。それでも可能性は否定できなくて、だったらどっちか選んだほうがいいんだろうな。……けど分かんないんだよ。特に、芽さんが、判断するにはどんな人か知らないし」
 カップを取り上げて冷めた紅茶を飲み干す。深井はこちらを黙って見ている。
「ごめん」
「ううん」
「でも、二ノ宮が出てこなきゃよかったとは思わないんだ。俺はあの子を大切にしたい」
「……うん。そういえばさ、今日は勉強は」
「あ、持ってこなかった。家のことの話が長くなるかなって」
「そっか。でも、じゃあ、おとうさんとおねえさんのメドはないんだね」
「だな。とりあえずは、これまでのことをかあさんに話していけたらって思ってるよ。かあさんが消化したあとで、とうさんとかねえちゃんにも開いていくって感じで」
「進展していける糸口があるっていいよね。うらやましいな」
 深井は緩く微笑むとカップを空にし、「おかわり淹れてこようか」と俺のカップも覗く。俺がうなずくと、彼女はカップを連れてキッチンに行った。
 俺はときおりカシスの音がするガラス戸のレースカーテンを向く。午後の陽射しがレース模様に透かし織られ、頬や髪に降りそそぐ。
 夜には、芽さんはここに降りてきて食事をしたりしているのだっけ。不思議な感じだ。
 お湯をそそぐ音に、紅茶の香りが流れてこんでくる。
 糸口。ここにだってあるはずなのに、芽さんがそれを引こうとしない。何でだろう。臆病なのか。捻くれているのか。俺のせいだというのもなくはない。本当に、どんな気持ちを抱く人なのだろう。
 もしいつか顔合わせたらどんな感じなんだろうな、と目を細めて椅子にもたれかかっても、漠然とした心象の中しか揺蕩えなかった。

第百九章へ

error: