非常階段-109

誇れる生徒

 月曜日の朝のかったるい教室に、智也のすがたはなかった。智也が休むのなんて見たことがないけど、サボるのならいくらでも見たことがある。彼女とホテルに泊まったままサボりとかかな、と頬杖をついていたら、ホームルームのあと、堂々と香野とすれちがいながら彼はやってきた。
 ドアのところで小突いてきた香野にやんちゃに咲って、智也は一時間目までのゆとりに俺の席にやってくる。「あのおばさんに朝飯作らせられてさ」と愚痴る彼に俺は微笑み、「話があるんだ」と前もって断っておいた。
 智也がしばたいたときにチャイムが鳴り、彼は一時間目のあいだはうずうずするハメになる。今月の俺の席は、中央列の一番後ろで、同じ列の前から二番めの智也はよく窺えた。遊びにいきたいのに宿題をさせられている子供みたいだ。授業が済むと光速で飛んできた智也に、俺は臆しつつもかあさんのことを話す。
 聞き終えた彼はじっと俺を見つめ、「長かったですねえ」としみじみ言って、俺の頭をぺしぺしたたいた。
「でも、君の親だからいつかは、と俺は信じていました」
「え、そ、そうだったのか」
「いや、これは雰囲気に流された台詞だ。そっか。ふうん。へえ」
「とうさんとねえちゃんは相変わらずなんだけど」
「でもいいじゃん、進歩に変わりはない」
 こくんとすると、さっぱり青く晴れた窓を見やる。気恥ずかしくて躊躇ったのだけど、見下ろしてくる智也に顔を上げた。
「智也のおかげだ」
「え」
「智也が数学の教科書、一応親に頼めばって勧めてくれただろ。霞谷に叱られるほう取ってたら、こうはならなかった」
 智也は俺を見つめると、「んー」と上目になって処理中の機械みたいにしばらく止まって考える。
「そうだな。否定はしない」
 俺は笑みをこぼすと、にぎやかなクラスメイトを見渡す。みんな、それぞれに笑ったり話したりしている。そういえば、俺は雑踏の中にいるときのように、何でもない人間になりたかった。今、そうなりかけている。
「いろいろ、智也たちのおかげだと思ってる。分かってくれないって完全に見切って道外してても、かあさんとこうはなれなかった。二年のときまでみたいに、ひとりだったらこんな日はほんとに来なかったかも」
 照れ咲いすると顔を伏せ、次の授業の教科書を引っ張り出す。
「あと、香野と二ノ宮にも話そうと思うんだ。でも、人にはどうでもいい話かな」
「別に他人でもないからいいだろ」
 智也は隣の女子の空席に手をついて寄りかかる。
「香野はぜひお前の母親と面談したいとか思うだろうし」
「あ、香野とは改めてきちんと話したいってかあさんも言ってた」
「二ノ宮はもっと単純に喜ぶさ、お前を苦しませるものが減ったんだ」
「うん──。というか、あの子の親にだって受け止める資質はあるかもしれない。それに賭けようって思わせたいんだ」
 智也は首をかたむけて俺を眺めると、くすりとして詰襟を無造作に引っ張った。
「そんなふうに受け取るかな」
「え」
「情が厚かったら、自分ちにもこれが当てはまるなんて打算的なことは考えないよ。きっと、ただ、お前が喜んでることを喜ぶさ」
 智也にまじろぎ、二ノ宮の心象を淡く胸に溶かすと、「うん」とうなずけてしまった。そうだ。きっとあの子は、まず俺のことを喜んでくれる。
「こっちから連絡取ってもいいかな」と気にすると、「喜ぶかビビるかだろうな」と智也はちょうど割りこんだチャイムに時計を振り返った。
 昼休み、俺は二ノ宮の靴箱を探し当ててメモを放りこむと、前もって予約を入れておいた香野と生徒指導室で落ち合った。家のことで話したいとは言っていたから、彼はけっこう深刻そうに俺を迎えたが、ひと通り聞くとほっとした笑みをほどいてくれた。
 段ボールのにおいがむせるここも、明るい陽が射しながらもそろそろ涼しくなってきている。廊下にぱたぱたと駆け足が抜けていく中、「そうか」と香野は感慨深そうに椅子にもたれかかった。
「お前の家のことは、ずっと心配してたんだよ。しかし、俺が出しゃばればいいものでもないからな、訊きづらくもあって」
「そうですか。全部よくなったってわけでもないけど、きざしが見つかったってことで」
「そうだな。俺も安心できるよ。おかあさんも──ずいぶん悩まれたんだろうな」
 香野は何秒かつくえの縁を見つめると、俺に苦笑いを見せた。
「お前は気を悪くするかもしれないが、分かるよ。そうぱっと受け入れられないのは」
「かあさんは、先生と一度話したいって言ってました」
「本当か」
「はい。先生は理解してて、親の自分は理解してないって、何か──情けないというか。そういう気持ちもあったみたいで」
「そうか。うん、俺もそうさせてもらえるならぜひ話したいな」
「先生もいろいろあって理解するようになったって、よければ話してください。親も人間で、個人的な感情はあるもんですしね。そんなに自分を責めなくていいって」
「お前が言ってたって添えてな」
 にやりとした香野に俺は咲って、ため息をつくと椅子に力を抜いて口調を深めた。
「こんな日が来るとは思ってなかった。いきなりだったし」
「何がきっかけになるか分からないな。そうだ、その手紙は──」
「あ、いいんです、言わせておけば」
「だが」
「誰かは分からないんです。ただ、いつも筆跡が同じってだけで。巻きこむって、俺の周りに悪口が向かってることだと思うから、けっこうずしっと来たけど」
 言ったあとで、そういえば香野にはこのあたりは口にしないようにしようと思っていたのを思い出した。智也に言われた、香野はきっと気にしていない。とはいえ、口にすると実際のところどうなのか臆病になり、香野を盗み見てしまう。彼は床に眼つきを苦くして、ため息をついていた。
「俺もそれなりに把握してる」
「……先生も、言われてるんですよね」
 俺の弱気な口調に、香野は努めて笑みを作ってくれた。
「お前に限って言われることじゃないさ。桐島を目にかけてるって言われた時期もあったし、ほかにもな。俺の態度はそう取られやすいみたいだ」
「でも、特定の生徒を差別するってほうはないし、そんな、成績とかは公平なのに」
「そういう人間は、どこに行ってもどうしようもないんだ。だからこそ、社会に出る前にきちんとしてやりたいんだが、教師が注意したって逆効果なのが痛いところだな」
 香野は苦笑をもらしたあと、それを引き締めて俺を正視する。
「嫌がらせもなくなったわけじゃないんだな」
「減ったからいいことですよ」
「……とはいってもな」
「完璧になくすなんて、時代的にまだ無理だし。大丈夫。気にしないでください」
 香野の正視に正視を返してきっぱり言うと、彼は瞳を奥からやわらげてじっくり微笑んだ。
「おかあさんの言う通りだ」
「え」
「俺もお前みたいに強い生徒が持てて、誇りだよ」
 俺は目を開いて、ついで頬を熱っぽくさせると、「誰も味方がいなきゃ、そう思いもできないけど」と肩をすくめた。
 決まり悪くて言った台詞ながら、本当にそうだ。智也、深井、二ノ宮、香野、そしてかあさん。俺は味方ができるごとに自信を強くしている。好きな人が認めてくれる自分なら、信じてみようと思えるのだ。
「お前ならきっとこれからも仲間を増やせるさ」と別れ際に香野に肩をたたかれ、俺ははにかみわらった。

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