君のおかげで
放課後は、智也とは二階の階段で別れて非常階段に寄り道した。いつも二ノ宮と会うのは第一棟の二階、彼の教室の並びの非常階段だ。
荷物を金属の地面に置くと、ちょうど金具があたって響く音が立ってしまった。涼しい日陰には、今日も身軽な風が抜けている。しばらく錆びた手すりにもたれてその匂いを感じていたが、なかなか来ないので俺は階段に腰をおろした。
手紙がきちんと届かなかったのだろうか。何か用事があったのか。あんまり遅いならあきらめて帰らないとな、と風にそって天を仰ぐ。
こうしてぼんやりひとりでここにいると、よぎる風にちらつく前髪のように記憶もよみがえる。二年生のときのことは、今でもやっぱり思い出したくない。
未来に関してはずいぶん強くなったと思う。これから生きていく道は、もうだいぶん信じられる。非常階段を降りずに普通に。そうしたい俺を支えてくれる人もできた。
しかし、過去に対してはぜんぜんダメだ。あの忌まわしい記憶さえ許し入れられる度量を、自分の心に感じない。
裏切られたり、イジメられたり、突き放されたり、ああいう記憶を負った自分の脳が俺は怖い。あの経験たちを振り返れない。
なのに毎日思い出しているのは、つきまとわれているからというだけだ。みずから立ち止まり、身を返して、受け入れる勇気はない。消せるものなら消したい。いつまでこうで、いつから色褪せた記憶として思い出しても鮮血を感じなくなるのだろう。
いつか、過去に対しても強くなれるのだろうか。未来には頼りにできる光を見つけられた。でも、過去は真っ暗なままだ。過ぎたことだからそれでいいのか。分からない。それでもいいのかもしれないけど、俺は毎日嫌な記憶を掘り起こし、すかさず膿に沈もうとする今の自分の精神構造が嫌いだ。耐えられない。立ち直れば執拗な記憶を遠のけるのなら、立ち直りたい。
そのためには、過去をゴミ箱に捨てるような真似はしてはいけないだろう。きちんと埋葬し、土に還るように自然と風化させる。忘れたいと思うあまり、かえって忘れられないような悪循環は、そうやって脱するのだ。
ところが俺はまだ、あの記憶に触ることにすら嫌悪を覚える。いくら墓穴を掘ろうが、柩を用意しようが、抱きかかえてやらないとそこには収められない。よく分からないけど、たぶん、まずは長い時間が必要なのだ。
「あ、先輩」
不意にドアの開く音にそんな声が重なり、かえりみると二ノ宮だった。「あ」と無造作に座り直した俺に、わずかに息を切らす二ノ宮はちょっと恥ずかしそうに咲う。「ごめんなさい」とドアに身をすべりこませた彼は、そっとドアを閉めた。
「遅くなっちゃって。何か、クラスの話合いが起きて、全員つきあわされてて。手紙に気づいたのも、今帰ろうとしてからで」
俺はうなずき、彼の小さな息切れを訊くまでもなく納得する。
「俺のほうがいきなりだったから。ごめん」
「そんな。嬉しかったです」
言ったあとで二ノ宮ははにかみわらうと、「いいですか」と俺の左隣を窺う。もちろん俺は彼のために空間を空ける。とはいえ、そう幅の広い階段でもないから、ここにこうして並んで座ると、いつも彼の匂いを感じてしまってどきどきする。
「先輩のほうが話したいっていってくれたの初めてだし。あ、初めてのときは、よければだったし、先輩が決めてくれたのかな」
「いや、まあ、あれは君が誘ってくれたからで。そうだね。初めてだ。よかったかな」
「はい。僕のほうからばっかりで、やっぱ先輩はそれにつきあってくれてるだけなのかなとかも思ってたから。ほんとに、……すごく、嬉しかったし。ほっとしました」
至近距離で微笑んだ二ノ宮に、俺は浮わつきそうな心臓を隠して何とか笑みを作った。彼のほうが落ち着いていて、俺のほうが意識したガキっぽい反応を起こすようになっている。
手提げを俺の手提げのかたわらにやった二ノ宮は、「何かあったんですか」といつものくせっぽい前髪を揺らしながらこちらに向き直った。
「え」
「お話って」
「あ、ああ。まあ──」
何の話だっけ、と一瞬UFOに誘拐する光のように真っ白に思ってしまったが、そうだ。
「家のことでさ。報告、というか」
「家」
「かあさんが俺のこと分かってくれたんだ」
きょとんと目を開いた二ノ宮に、さすがに何度も話して要点をまとめられてきた話を繰り返した。
まばたきながら聞いていた二ノ宮は、しだいに睫毛を膝に伏せ、視線を上履きになずませていった。涼しい風に頬や髪をさすられながら俺が最後の言葉を切ると、しばし沈黙が置かれ、「そうですか」と二ノ宮は陰った口調でつぶやいた。
「すごいですね」
「え」
「僕なんか、ぜんぜん。知られるのを考えただけで怖いです」
きっと、二ノ宮は単純に喜んでくれる。朝の智也の言葉もよぎったけれど、無論彼が自分に照らし合わせて俺の話を聞いたのがおかしいとは思わない。というか、初めは俺はそういうふうに聞かれるだろうと予想していた。
「俺も自分で話したわけじゃないよ。最悪なかたちで知られたと思う、それでも分かってくれる日が来たんだ。だからさ、君んちだって大丈夫だよ」
「……僕んちがどうっていうのは、どうでもいいんですけど」
「え。あ、あ──そう。じゃあ、何だろ。何か心配増やすこと言っちゃった?」
とまどいながら愛想咲いで彼を覗きこむと、二ノ宮は水気に揺るぎそうな瞳を引っこみ思案に向けてきた。
「邪魔じゃ、ないですか」
「は?」
「だって僕、先輩のおかあさんとか桐島先輩とかみたいに先輩を支えられないし。僕が励ましてもらうばっかりで、何か、……重荷というか。もうたくさん味方ができたなら、ただ同じだから話せてた僕とか、………」
言いながら自己嫌悪が胸に滲んできたのか、二ノ宮は睫毛の上に前髪を垂らして目をかばってしまった。
「ごめんなさい。先輩がそんな冷たい人って意味じゃなくて。僕、ほんとに、先輩に嫌われるのが怖いんです。重荷とか思われるなら、」
「思わないよ」
苦笑混じりの俺の言葉に、二ノ宮は不安を溜めた泣きそうな黒い目を上げてきた。
「思うわけないだろ。かあさんが味方になったからって、ひとり味方を減らすとか、そんなのしないし、できない。何て言うか、君は君だし──君しか俺に与えられないものだってある。それに俺は、ただ同じゲイだからってだけで君とこんなふうに過ごしてるんじゃない。やっぱり、君がいい子だなあって思うからつきあいたいと思うんだし。ゲイでも、嫌な奴だなって思ってたら引いてるよ」
俺は微笑み、自然と手を伸ばして風で彼の目にかかった前髪をといてやった。二ノ宮はびくんと肩を揺らすと頬を染め、今度はその顔を隠そうとうつむいてしまう。
「大丈夫だよ」
それでも、俺の言葉を聞いてくれているのは分かる。
「邪魔じゃない。それに、支えてくれてるし。俺の言葉が励みになるなんて、そんな支えってないよ。今の俺は君のおかげでもあるんだ」
二ノ宮はそっと俺に視線を向ける。俺が笑みをこぼすと、やや躊躇ったのち、彼もおもはゆさでぎこちなくも笑みを返してくれた。俺はくすりと笑みを噛むと、空を見やって肩をすくめた。
「俺も君に嫌われないために、頼りになる奴になりたいって思うよ。なのにごめん、不安にさせる言い方して」
「い、いえ。僕が勝手に思っただけで。でも僕、先輩みたいにうまく強くなれなくてどんどん距離が開いていくのかも。それでもいいですか」
「はは、俺もそんな急には強くなれないよ。弱いとこも暗いとこも、まだたくさんある。君より先に進んだとしても、無理に急いで強くならなくていいよ。俺は待てるし、待っててあげたいって思うから」
二ノ宮は熱っぽい潤みを瞳に名残らせながらも俺を見つめ、小さくこくんとした。
俺は思わずまたその頭を撫でたりしそうになったが、今回は理性がきいて慌てて手を金属の地面に抑える。自分のよく分からない反射神経に、俺もちょっと頬にほてりを覚えて目線を持てあました。
本当に、俺はどちらにかたむくべきなのだろう。芽さんには力になってあげたいと思う。でも、限界が来たらすっぱりあきらめるべきだと感じる。二ノ宮にも力になってあげたいと思う。だが、自立してほしいから肝心なところではただ待とうと思う。
分からない。俺の気持ちはどちらにあるのだろう。あるいは、どちらにもないのか。
「僕も、できるだけ先輩の力になれるようにしたいって思ってるんです」
ふと沈黙を破った二ノ宮に、俺ははたと顔を戻す。二ノ宮は背筋を伸ばして、正面の空中を見つめていた。
「まだちっとも、思い通りにできないけど。これから大変なのは僕より先輩のほうだから、気持ちのゆとりになるようなことしてあげたいなって。でも口だけで、できずに受験終わっちゃうかもしれないけど。そのときは、ごめんなさい」
わらびみたいな角度で気弱にうなだれた二ノ宮につい俺は咲うと、「もうなってるよ」と優しい口調で彼の瞳を瞳に吸い寄せる。
「君も高校に行くんだろ」
「え、あ、はい。たぶん」
「俺は正直、高校行かずに働く道も考えてたんだ。でも、君が普通の生活をしていきたいって言ってたから、じゃあ俺もこっちで頑張らないとって思った。三年後、また同じ学校に通えてるといいなって」
二ノ宮は開いた目をゆっくりしたまばたきで何度か切る。
「同じ……」
「迷惑かな」
「いえっ、まさか。……いいんですか」
「うん。君のおかげなんだ、絶対に非常階段は降りないって決めたのは」
瞳をやわらげる俺をじっと見つめた二ノ宮は、また泣きそうになって視線を伏せるとうなずいた。彼が嬉しくて未完成な肩を震わせているのが分かる。
俺は涼しい空に息をつく。
不思議だ。自分をそこまで想ってくれる人が現れるなんて、一年前にはまったく実感を持てなかった。二ノ宮に限らず、智也やかあさんにだって、そんな気持ちはある。
少しずつ、現実が彩りを帯びていく。こんなことは、魔法みたいにありえないことだと思っていた。全部ここを降りなかったおかげなんだよなあ、と脚を伸ばす非常階段を見下ろしてから、俺はひとり微笑を綻ばせてもう一度二ノ宮を見守った。
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