宿る優しさ
「気味悪いなあ、あんたが勉強に励んでるなんて」
「普通、母親ってのは、子供のこういう光景を喜ぶもんだぜ」
「別に楽しくない眺めだとは言ってないけど」
「ふん」と生意気にそっぽをした智也はシャーペンを持ち直し、参考書をめくっていた俺は笑いを噛んでしまう。
十一月に入った日曜日の昼下がり、昨日深井家に行った俺は、昨日デートを済ました智也と桐島家にいた。
灰色っぽい雲が吹きおろす風はずいぶん急に冷たく、俺はジージャンを羽織ってここまで来た。空中にも道路にも落ち葉が目立っていたものだ。くつろいだ服装の智也のおばさんが淹れてくれた紅茶も温かく、香りのよい湯気を立てている。
「しかし、柊くんもよくこんな息子につきあってくれるわね」
「え、まあ。楽しいし」
「こいつにはもったいない親友だわ」
「うっせえなあ、俺たちの勝手だろ。つうか、教科書って日本語とか現代語とか使ってないから嫌いだ」
「数学は使ってるぜ」
俺は笑いを噛むと、ほどよく渋い紅茶をすする。深まった秋のおかげで、指先や喉がほぐれていく感じが心地よい。
「数式は宇宙人語に思えてならん」
「宇宙人の会話って音楽に近いのよ」
「何でそんなん知ってんだよ」
「テレビで言ってたわ」
「くだらねえ口突っ込んで、俺にそんなに受験に失敗してほしいのか」
「落ちたら働くだろうから、それはそれでありがたいわね」
母親かしらぬ発言で笑ったおばさんはキッチンに行き、シンクの食器を片づけはじめた。智也は座卓に頬杖をついて仏頂面だが、彼だって、おばさんが必要以上の圧力を受けないよう気遣っているのは分かっているのだろう。相変わらずうらやましい親子関係だ。
俺たちが向かい合うベランダに面して明るい座卓には、教科書やノートが散らかっている。そう、今、俺と智也は受験勉強をしている。確かに俺は家でも勉強しやすくなりかけていても、とうさんや雪乃ねえちゃんがいる休日の居心地の悪さは解消されていない。
それに、今回は智也がつきあってくれと誘ってきたのだ。「俺の学力なんかあてになんないよ」とは断ると、「俺よりはマシだろ」と智也はぶっちゃけた返答をよこしてきた。
「深井も入れたらよかったのに」
「落ちてでも勉強しないほうがマシだ」
英文に眉を渋めるまま智也は即答し、俺はカップを本やノートの隙間に置く。三十秒で解読をあきらめた智也は、読み終えた週刊誌みたいに英語の教科書をテーブルのそのへんに放った。
「第一、深井が来ないだろ」
「こっちが深井の家に行ったら、」
「やだね」
さえぎって殺し屋のように無表情に斬った智也に、俺は息をついて参考書の無機質な文章を眺めた。
「お前と深井って、ほんと仲悪いよな。深井も智也を混ぜたらって言ったら嫌な顔してた」
「俺は単にほかの女の家に出入りして、いかがわしく思われる切っかけを作りたくないだけでもある」
「昨日どうだった?」
「そのへんぶらついてた。金がないからさ。高校になったらマジでバイトしたい」
「あの高校ってバイトOKだっけ」
「禁止されてようがこっそりやる」
「はは、そっか。──高校か」
俺は文章から空中にボールみたいに目を放り投げると、憂鬱なため息を吐く。
「やっぱ、不安なんだよな」
「不安」
「新しい環境に行くのに、変わらない部分があるだろうって分かってる。伏せることはできないだろ、もう──精神的に。どうせこのランクなら同じ中学の出身者がけっこういる。嫌な奴と同じ高校になる可能性もある。新しい敵だって出てくる」
智也が俺に向けている視線の種類を確かめるのが怖くて、俺は下目でフローリングを見つめるまま咲った。
「贅沢だよな。高校に行けないかもって焦ってたときは、普通に高校に行ければじゅうぶんだって思ってた。なのに、高校は行けるだろうってなってくると、突っ込んで考えてわざと不安を探してる」
キッチンでは、おばさんが水音を立てて食器をすすいでいる。俺はカップをたぐりよせると、唇を寄せた。さっきより熱が舌にちょうどよく、甘味が胃にまろやかに溶けこんでいく。智也はドラムスのスティックの要領でシャーペンをまわしていた。
「嫌味な奴ってのはどこにでもいるんだよ」
香ばしい水面から顔を上げると、智也は頬杖で視線は適当な斜めにくれていた。
「もちろんゲイ嫌悪で嫌がらせしてくる奴もいるだろうけど、大半は攻撃したいだけの奴なんだと思うぜ。揚げ足取ったり邪推したりして、相手を追いつめるのが好きなんだろうよ。そういう奴は、さらっと受け流すほうが身のためだ。成果のない戦いなら逃げるほうが賢い。ムキになって相手したって、疲れるだけだし、最悪だとたたかれるまま自分に悪いイメージ持って壊れてくる」
智也の瞳は何か暗がりを見つめているのだが、何を見ているのか俺には分からない。
ただ、彼もさんざん攻撃を受けてきたほうではあるのだ。深井が言っていた、片親だから常識が分かっていないと言われていた──。
「そういう奴がどこにでもいるのは割り切って受け入れて、ただ相手にしなきゃいいのさ。敵の言うことに振りまわされることはない。確かに同性愛っていうのは、敵なんか絶滅させて一般的に受け入れられるべきだ。でもさ、同性愛抜きにしても、みんなが自分の考えに同感するわけないとは思うだろ」
「……うん」
「分からない奴は、要するに自分と合わない奴なのさ」
智也は指先でプロペラのように操っていたシャーペンを止めて、ノートに置く。
「こっちが悪いってわけじゃないし、あっちが悪いわけでもない。ただ、違うんだよ。同性愛に関して言えば、どっちかっつうと非はあっちにある。だから柊はもっと自分を信じていいんだぜ。合わない奴に無理してつきあう必要はないのぐらい、個人の自由だ」
智也はこちらを正視してにっとして、そのやんちゃな笑みを俺は黙って見つめ返す。
智也の意見はいつも深い。彼は経験からしか言わないからだろう。智也が過去を受け入れてそこから学んでいるように、俺もいつかは強くなれるのだろうか。
俺はほのかに咲うと、湯気が淡くなるカップを戻した。
「智也はすごいよな」
「ん」
「俺はそんなに強くないし。説得力もないから。どうしてもあの子をうまく勇気づけてやれない」
粗熱の取れた紅茶をがぶりと飲んでいた智也はまじろぎ、俺の情けない笑みを見る。
「二ノ宮?」
「ああ。それも不安のひとつなんだ。あの子を置いて卒業しなきゃいけない」
「同じ高校に行くって契ったんじゃないのか」
「……契るって。二年後だろ」
「休日に会えばいいじゃん。放課後とかもあるだろ。近いんだし」
「まあ──」
言い濁る俺に智也は楽しそうに教科書に身を乗り出すと、にやにやと顔を覗きこんできた。
「離れたくないんだろ」
智也の瞳を瞳に受けた俺は、ナイフが刺さってぱっと服に広がった血の染みのように頬を熱した。
「ば、バカ、そんなんじゃっ」
「あー、図星」
「違うっ。そ、その、……何というか、別に、……もういいよ」
「すねるなよ。いいじゃん、あいつのこと好きになっても」
智也をちらりとすると、むくれてガラス戸にそっぽをする。レースカーテンの裾で、かすれた陽射しがただよっている。
キッチンの水音は、そういえば止まっていた。
「まさかまだ寺岡──」
「違う」
「じゃ、芽さんか」
俺は怒った目をぴくりと震わせ、言葉を持て余した挙句まぶたを脱力させてしまう。そう──かもしれない。智也は、今手をつけた紅茶を俺より先に飲みほしてしまった。
「芽さんにもときめくわけ」
「……いや。会話もしたことないし」
「じゃあ、いいじゃん、二ノ宮で決まりだ」
智也にもどかしい瞳を向けると、首をすくめて前髪に隠れる。
「前、智也が言っただろ。二ノ宮とそういうことになったら、芽さんのところに行くのはやめたほうがいいって。頭では、そうしたほうがいいって分かる。けど、できそうにないんだ。同情だよな。でもやっぱり、好きな奴ができたからさよならって、そんなことできないよ。たとえ応えてもらえてなくても」
智也は俺を観察し、かたわらをおばさんが通りかかる。「楽しそうね」と言ったおばさんに、智也は野良猫を追いやるような仕草をする。おばさんはふくれっつらを見せたものの、それ以上の邪魔はせずに自室に行ってしまった。
俺はカップの紅褐色の水面に自分の目を見ている。智也は両腕を座卓に預けると、仕方なさそうに微笑んだ。
「優しいな」
「……え」
「褒め言葉だぜ。俺は好きかどうかよく分かんねえ奴に情かけるなんてできない。かけたとしたら、それはそいつがそうとう可哀想に見えたとか、かなり見下した感情でだ」
「俺は別に芽さんを可哀想とかは、」
「うん。だから、そこは俺とお前の違いなのかな。お前は俺より優しいんだ。弱ってる人は助けてやりたいって、私情抜きで思える。すごいよ」
智也の柔和な瞳を見つめ、気恥ずかしくなって無意味に首をかたむけてしまう。智也は俺のガキっぽい反応に咲うと、シャーペンを取って参考書を一瞥した。
「高校も大丈夫だよ」
「え」
「もしダメだったら、それは周りが全員頭が悪かったってことだ。その場合は無視で済ませ。お前自身を見たら、軽蔑すべきだなんて思う奴はきっといないよ」
智也を見つめた。彼がお世辞なんて言っていないのは分かる。それでも俺は、高校でも痛い目を見るのだろう。なのに、俺が素直に彼の言葉にこくんとできたのは、どんなことがあってもこいつが味方であることは変わらない貴重さを信じられたからだ。
本当に、俺はこいつと同じ高校に行けなかったら危ないかもしれない。「じゃあ合格のために宇宙語を解読しようか」と彼が特に苦手な数学の教科書を手に取ってにっこりすると、今度は智也のほうがげんなりしてため息をついた。
【第百十二章へ】
