非常階段-112

緩やかな和解

 つねづね話題にのぼっていた、かあさんと香野の面談が今日行われた。俺は同席せず先に帰宅し、誰もいない家のリビングでソファで仰向けになっている。
 ときおり子供のはしゃぎ声や車の走音が静けさの中をすりぬけていった。
 あの試験が終わった日のあとにも、かあさんと話す機会は何度か持っている。智也のこと、深井のこと、二ノ宮のことは恥ずかしくて避けたが、芽さんのこと──そして、それ以前のこと。
 体罰や暴力も受けたことがあるのを話すと、かあさんは心臓をもがれたように固まってショックを受けていた。ともあれ、ひと通りのことは話したから、かあさんは香野ともわりと話は通じたと思う。
「どうしてかしら」
 一年生のリンチのことを話したとき、かあさんはぽつりと言っていた。夕暮れの光がレースカーテンからたなびくリビングで、雪乃ねえちゃんは部屋で、とうさんはまだ帰っていない。向かいのソファに腰かけるかあさんは、夕食を作らなくてはならないのだが、真っ白に砕けた頭がまだまとまらないようだ。
「そういうことをされるかもしれないって、分かってたから否定してたなんて。分かってるなら、だからこそ守ってあげようと思わなかった自分が情けないわ」
 ああいう経験は、相変わらず思い出すと不快で、できるなら嫌味の手紙のように破り捨てたくなる。語って負担のかかった心のまま虚脱していた俺は、かあさんを見ると息をついた。
「治ると思ってたからじゃない?」
 かあさんの怯えたような目が来て、小さく笑みを作る。
「俺も思ったことあるから構わないよ、治せるんなら治さなきゃって。でも治るとかじゃないんだ」
「……ええ」
「今、分かってくれたんなら、これまで否定してたことは気にしなくていいよ。とっさには、そう捕らえて普通なんだ。しょうがなかったんだよ」
 言いながら、これは寛大ぶった台詞に感じた。かあさんも納得しきれないようにうつむいた。
「まあ、しょうがないなんて、人に言われたら許せないけど。まあ、そうなんだ。かあさんだけじゃないんだよ。とうさんもねえちゃんも──賢司、だって、離れていった」
 かあさんはまぶたを開いて、俺を凝視した。
「学校で話してるんじゃないの」
「ないよ。あいつは俺のこと知った途端、近寄ってこなくなったんだ」
 かあさんの驚いた反応は演技でもなさそうで、俺も意外さを覚えた。賢司は分かっていると思っていたのか。いや、賢司がどんななりふりを取ったかなんて考えなかったのかもしれない。
「……賢司くんが」
 かあさんは重苦しい口調でつぶやき、俺はソファを座り直して背筋も伸ばした。
「あいつがそういう奴だったってより、やっぱ俺がショッキングだったんだと思う」
「でも、……信じられないわ」
「いいんだ、別に。智也って奴ができたのは話しただろ、あいつが理想的な友達でいてくれてる。ま、言いたかったのは賢司さえ俺を分かってくれなかった、というか。ほんと、かあさんだけ変だったってことはないんだよ。今は分かってくれてるだけでも、かあさんは賢司とかとは違うよ」
 かあさんは俺に目を上げると、泣きそうな潤みをごまかすように微笑んだ。
「おかあさんのほうが、柊を励ましてあげなきゃいけないのにね」
 ぼんやりそんなことを回想していると、玄関で物音がして身を起こした。かあさんだと思ったのだが、ドアを半開きにして訝しそうな顔を覗かせたのは、雪乃ねえちゃんだった。
 紺のジャケットを着た冬の制服すがただ。つい恐縮した俺を見つけて、やや面食らった雪乃ねえちゃんは、ちらりと奥のほうを窺った。
「かあさんは?」
「え」
「靴がないわよ。車も」
「あ、ああ──学校」
「は?」
「……俺の学校。中学だよ。ちょっと担任と話しにいったんだ」
「ふうん──」
 雪乃ねえちゃんの細目は何か続けそうで俺は構えたが、何も言わずにドアを閉めて、足音は二階に遠ざかっていった。かあさんは、ずいぶん俺を知ろうとしてくれるようになった。しかし、雪乃ねえちゃんはいまだにこんな感じだし、とうさんも苦々しくそっぽをしている。
 まあ、かあさんに言ってはいる、無理に理解させようとはしなくていい、自分から分かってくれないならそのときはそのときでいい──。とりわけ、雪乃ねえちゃんの怨みが難解なのは承知している。一番まともに巻き添えを食らった挙句、受験を失敗に導きさえされたのだ。
 右脚だけ床に下ろして左脚はソファで折り曲げ、立てたその膝に頬を当てていると、まもなくかあさんが車の音を立てて帰ってきた。十七時を過ぎてかたむきかけた陽射しが橙々を透かし、座卓には俺の影が伸びている。そろそろ、この時間から聴こえていた虫の声も少なくなった。
「ただいま」と現れたかあさんは、落ち着いた桃色のアンサンブルを着てほのかに化粧し、ついでに買い物をしてきたのかふくろを下げている。「おかえり」とかあさんの微笑に決まり悪く咲い返した。
「話してきた?」
「ええ。ずいぶん話してたわね。買い物を急がされたわ」
 苦笑したかあさんは、ビニールをがさがさ言わせて奥に行く。そして生ものだけは冷蔵庫に片づけると、左脚を下ろして姿勢を正す俺がいるリビングに戻ってきた。
「今、ねえちゃんが帰ってきてた」
「靴があったわ。何か言ってた?」
「別に。かあさんの靴がないの、ちょっと訊いてきただけ」
「そう。香野先生、雪乃のことも気にしてくださってたわ」
 かあさんの頬には、夕暮れの暖色が溶けこんでいる。その色合いを見つめながら、初耳だと思った。香野は俺に雪乃ねえちゃんについて言ってきたことはない。かあさんは俺の正面に腰かけると、微笑んだ。
「いい先生ね」
「結婚してるよ」
「智也くんって子がそういう子なんですってね」
 思わず笑ってしまうと、「まあね」と悪戯に首をすくめる。
「どんなこと話した? 俺が、どんなことされたかとかかな」
「そういう話はしなかったわ。担任になろうとしてくれたこととか、二年生や一年生のときの先生のこととか。何でそんなに尊重できるのかってことも聞いたわ」
「昔の生徒」
「ええ。柊が話すのを勧めたって」
 俺は照れ咲いに紛らして、視線をそらす。
「香野だって、いろいろあって学んだから、あんなに分かろうとしてくれてるんだよ」
「そうね。ちょっとほっとしたわ。でも、やっぱりすごい先生ね。あんなに気丈な人も少ないわ」
 かあさんのそのさりげない言いまわしに、深くうなずけてしまう。そうだ。あんな先生なんて次元ではない。あんな人自体が貴重だ。
「榎本とかのことも聞いたんだ」
「少しね。どちらかといえば否定的だったって。そういえば、体育の先生のこと話しちゃったけど」
 俺はぎくりと冷や汗を感じたものの、睫毛を軽く伏せると力なく咲った。
「もう、いいんだ」
「先生も柊の気持ちに任せるっておっしゃってたわ。ただ、自分が同僚として謝ってはおくって」
 とっさにいまさら蒸し返されるのを恐れた俺は、こわばった鼓動をほどいて息をついてしまう。もちろん、香野が謝ればあいつの仕打ちを許せるなんてない。香野には、連帯責任のようなものは感じなくていいとしか言えない。
「教師とかやってる奴は、よけい俺みたいなの受け入れられないと思うんだ。だから香野はすごいよ。智也のことだって偏見しないし」
「その子、変わった子ではあるみたいね。でも、精神的に賢いって先生は言ってたわ」
「うん。あいつんちは片親なんだ」
「片、親」
「だから智也も智也で、いろいろあって俺のこと分かってくれてる。深井って子だって、おにいさんのことがあったんだし」
 ジーンズの膝のすりきれた青に目を据えていた俺は、首筋に忍びこむ夕影を避けるようにうつむいて、笑みをもらした。
「何か、そう考えると少しつらいけどね。ちょっと普通じゃない、つらい想いした人じゃないと、俺のこと分かってくれないのかって」
「それは違うわ。人の痛みが分かる人が理解してくれてるのよ」
 俺が顔を上げると、かあさんは穏やかに微笑んでうなずいた。俺もちょっと明るく咲えると、「そうだね」とうなずく。
 ぬくぬく生きてきた奴が分かってくれないのだ。そして、心を成長期の骨のようにずきずき痛ませながらたくましくさせた人が、痛みを知っている人が、俺のことを分かってくれる。
 ただ、こう言ってつらいのは、とうさんや雪乃ねえちゃんもさしあたり前者に該当してしまうことだ。確かにふたりは、俺が傷ついていることを見ようとしない。
「ごはん作ったあと、もうちょっと話しましょうか」と言われて俺がこくんとすると、かあさんは着替えて夕食作りに取りかかった。俺はソファにもたれ、薄暗くなっていく天井を見つめて暖かい匂いを嗅いでいた。
 とうさん。雪乃ねえちゃん。それでも俺は、かあさんだけでも分かってくれたことで、この家庭を許しかけてはいる。
「いいおかあさんだな」
 涼しく晴れた翌日、朝のホームルームのあと、俺の席に立ち寄った香野にはそう言われた。窓際側の前から三番目の俺は顔を上げると、朝陽とざわめきの中、ばつが悪く咲い返した。
「ここまで来るのは、長かったですけどね」

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