非常階段-113

受験勉強

 十一月も下旬になると、空を切る寒風に合わせて、勉強が厳しくなってくる。受験というより、とりあえず期末考査だ。模擬や抜打ち、定期外の試験もときおり実施されていそがしかったから、よけい中間との間隔が狭く感じられる。
 平日はさすがに家で勉強に励むものの、週末の習慣は変わらない。廊下の陽だまりで、あてもなくドアに話しかけ、そのあと一階のテーブルで深井と勉強する。
「毎週ここに来るの、無理してない?」
「別に。深井に勉強教えてもらえるし」
「そろそろ追いつかれちゃって皆伝だよ」
 笑って参考書の問題の答えを大学ノートに書きこむ。授業で使っているのとは別の、個人的に用意したノートだ。このぶあつい参考書は、解答欄は用意されていてもそりかえりで書きにくい。
 ちなみに、この翌日智也に会うときもある。彼とは勉強のときもあれば、息抜きに遊びにいくときもある。彼のおかげで、ひとまず受験ノイローゼにまで悩まされる心配はなさそうだ。
「深井とは、志望校違うんだよな」
 今テーブルに広がっているのは、社会の公民だ。社会は徹底的に暗記勝負だ。二年生の歴史も、一年生の地理も、記憶に頼ればたぶんあんまり考えなくていい。
 どうしてだろう。嫌なことなら野菜ジュースみたいな新鮮な味と色で覚えているのに、こういうものはいくら憶えたつもりでもいざというときあやふやになる。
 クリームレモンのプルオーバーを着る深井は、ノートをさかのぼる手を止めてうなずいた。
「塩沢もあれぐらい行けると思うよ。実力はあったんだもん。今までは気持ちが不安定だったってだけで」
「そこ共学だっけ」
「うん。塩沢の志望校もでしょ」
「ああ。でも冒険して落ちるより、受かるランクで気楽にやりたい気もする。勉強ぐらいね」
 瞳の色合いを止めた深井に、俺はとがったシャーペンの芯の先に目を落とす。
「高校に行けば、すっかりなくなるとは思ってない」
 おじさんとおばさんは、俺の背後のリビングでテレビを観ている。ふたりは気を遣って音量をさげてくれているが、外のカシスや風はたまに音を立てている。
「自分で考えて、開けてくる子も多いと思うけど」
 ノートを置く深井を向いてわずかに咲うと、左手で薄塩が香ばしいポテトチップスをもらった。いつかのリクエストのおかげで、ようやく気を遣ったお菓子はひかえられるようになった。
「それを期待するなら、ランク高い優等生ばっかのとこも考えものだろ。低すぎてもたたかれそうだけど」
「あたしんとこは、そんな高くないよ」
「でも、智也が行く気ないし。あいつは、今の志望校に合わせてしか勉強してないんだ」
「あいつが勉強ね……」
「智也は頭いいよ。ただ、普段はやらないんだ」
「まあね。分かる」
 そこがムカつくと言いたげな深井の仏頂面に噴き出すと、炭酸がざわめくコーラをひと口すすった。スナック菓子にはやっぱりこういう飲み物ながら、十二月になればふたたび暖かい飲み物を注文するようになると思う。今日だってけっこう冷えこんでいて、リビングからの暖房が足元をおぎなっている。
「やっぱ、あいつと一緒がいい?」
「そりゃあね。楽しいほうがいいし。深井は、何か俺と一緒がいい理由とか」
「学校別々になってもさ、二ノ宮くんには会うんでしょ」
「えっ。ま、まあ」
「おにいちゃんとは、そこまでのつながりってないよね」
 俺はいささか面食らってまたたいたあと、すねたような深井の頬杖に微笑んでしまった。
「来るよ、ちゃんと」
 深井は俺にちろりと目を向け、頬杖を下ろすとため息をつく。彼女がたぐりよせた飲み物は、白い陶器のカップにそそがれた、甘い湯気がただようミルクティーだ。
「無理はしなくても、」
「来たいんだ。芽さんとか深井に邪魔だって思われたら引っこむけど」
「あたしはそんなことは思わないけどさ」
「芽さんに同情してるとか、そんなんじゃないんだ。俺が役に立てるなら力を貸したいと思う。それって、愛情がなきゃ持っちゃいけない気持ちかな」
 俺のゆとりを持った正視に、深井は瞳は返しても言葉は返さない。
「芽さんにお前なんか役に立たないって言われたら、そのときは消えるよ」
「受験終われば、ここに来たって勉強ってメリットはなくなるでしょ」
「勉強教えてもらうだけにここに来てるんじゃないよ。勉強は、まあ、おまけだ」
 テーブルの真剣な励みを見渡し、「言い方悪いかな」と咲いを補足する。深井もなぐさめようとした小犬に頬を舐められたように少し笑みを作った。
「ほんとは、二ノ宮くんと会ったりしたくない?」
「まあ、ね。会ったことないけど。でも、ここに来たいって気持ちもあるよ。俺が欲張りなのかな。俺は来たいから来てるんだ」
「嫌になったら、ほんとに無理しないでね」
 どこか婉曲さのある深井をとまどって見つめた。もしや、もう来るなと言いたいのだろうか。しかし、俺の瞳にそんな猜疑を読み取ったのか、深井は恐縮を綯い混ぜた瞳と早口で継ぎ足した。
「初めて来たの夏だったでしょ。おにいちゃん変わりないし、うんざりしてきてない?」
 目を開いたものの、そうか、と内心つぶやいて椅子にもたれる。まったく成果があがらず、すでに四ヵ月だ。無論うんざりはしていなくも、さすがに無力感が重くのしかかるときはある。
「こんなに拒絶されっぱなし、とも思ってなかった。でも、芽さんの傷の深さ、みたいな問題だろ。俺はつきあってあげたい。時間をかければ何か変わるなら、かけたっていいじゃん」
 自分への言い聞かせも含めて気丈に言うと、深井の大きな瞳は驚きをこめて俺をじっと見た。その潤った瞳に照れ咲うと、悪戯な言葉を加える。
「智也っぽい台詞だ」
 深井もちょっと落ち着いた笑みをこぼすと、「うん」と睫毛を伏せて息をついた。手元のミルクティーの水面が吐息に押され、揺れて匂い立つ。
「塩沢がそう思ってくれてるなら、あたしも何か言うつもりはないの。けど普通、痺れ切らす頃だしさ」
「分かってて来るようになったんだ。俺もそんなに身勝手じゃないよ」
「うん──。でも、塩沢はこの家に構うより、自分ちがうまくいきかけてもいるし。おばさんと話したりする時間、欲しくない?」
「かあさんもここに来るのは賛成してるよ。どうせ、休日はとうさんとかねえちゃんがいて、あのふたりとの気まずさは相変わらずだし。あ、そういやかあさん、深井のおじさんとおばさんと話したいって言ってたよ」
「え。あ、まあ。それはいいと思うよ。ね」
 俺越しに深井がリビングに呼びかけると、一応聞こえているのか、ふたりはそれぞれにうなずいてくれる。それをかえりみた俺はほっと微笑み、深井に向き直った。
「かあさんは、おじさんとおばさんにすごく感心してるんだ。けっこう、俺んちのほうが深井んちと交流続けたいかもしれない」
「そ、そう、なのかな」
「うん。深井こそ、高校別になって俺がここに来ていい?」
「それは、もちろん」
「よかった。まあ、ひとつ甘えさせてもらうと、毎週ってのはきびしくなるかも。でも、最低でも月に一回は来るよ」
 深井は俺の瞳に瞳をやわらげるとうなずき、「二ノ宮くんもほっといちゃダメだよ」とやんちゃに片目をつぶってくれる。咲ってうなずかせてもらうと、確かに卒業すればあの子とは外で休日に会う機会が増えるだろうと思う。
 学校の外で、私服で会って、果たしてどこに行くのだろう。俺の家か、彼の家か。いや、思いきって町の外か──。
 あれこれ妄想はたくましくてひとり頬なんか染めても、それは志望校に合格して安心したあと、じっくりやればいい。落ちてショックなんか食らっては、それどころではなくなるだろう。
 だからとりあえず、参考書をめくると、ここは受験勉強に気を取り直すことにした。

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