非常階段-114

守りたい

 その日は、期末考査があさってに迫った、天気のぐずつく日だった。手提げに折りたたみ傘は仕込んできたが、降り出すのは午後だそうで三時間目の体育は外で行われた。
 体育の授業は嫌いだ。東浦の顔で、必ず記憶が忌まわしいめまいを起こす。体罰や、皮肉や、あの眼──考えれば、現在あいつが俺にそういうのを突き刺すのはなくなった。
 智也が言うには、ビビりだしたのだろうということだ。冬場でも汗と狭さにむさくるしい更衣室で制服に着替えた俺と智也は、話し声が入り混じる廊下に出た。
「一応、社会はゲイへの差別はやめましょうって方針だろ。もし事が表にばれたら、あいつが不利だ。でも、お前に告発の能力がないから、好きに偏見してた」
 智也は肩に体操服をつめこんだリュックを引っかけ、俺は肩紐に右腕を通す。
「でも、今、柊には味方がいる。もしかすると、何か言い出す勇気を持つかもしれなくて、手出しはやめた」
「あいつって、良くも悪くも直情のような」
「そうだな。クビをかけてもお前を偏見したら、ある意味男らしかったのに」
 すれちがいざまの女子をよける俺は、智也の嗤笑にどううなずけばいいのか肩をすくめる。曇り空のおかげで景色が蒼みがかる今日は、窓の光もとぼしく明かりが灯っている。
「反省してやめたんなら、許せたかもしれないのに」
「許さなくていいさ、あんなん。どうせ三ヵ月後には他人だ。お前の記憶はなくならないけど、体育の授業が強制的に思い出す切っかけになるのはなくなる」
「状況が変わるだけで、気持ちまで変わるかな」
「えぐらなきゃ傷もケロイドぐらいには落ち着くだろ」
 俺はため息をついて肩紐をかけなおすと、「ケロイドね」と智也と渡り廊下に曲がった。騒がしい生徒たちは、だいたい冬服の上に上着も羽織っている。俺と智也もそうで、俺は例年通り紺、彼は黒だ。鋭い風につんざかれる外気に、室内までもう暖房なしでは冷えこんでいる。
「かなり痛かったんなら、ケロイドぐらい残るのは受け入れるしかないな。あー、ところで四時間目って移動教室じゃね」
「理科か。試験前だから、どうせ教室だろ」
「そっか。あー、試験ね。試験のいいところなんて、午前中で帰れるってことぐらい──んっ」
 たそがれて窓を見やった智也が、突然前髪を揺らしてぱたっと立ち止まり、俺も一歩先で足を止めた。
「何?」
「あれ──」
「ん」
「いや、あれって、二ノ宮じゃないか」
「えっ」
 慌てて智也が指さしたほうを見ると、風になびく色合いの悪い芝生の中庭には人影があった。何人かの男子生徒で、薄暗さに目をこらすと、確かにそのうちのひとりが二ノ宮だ。
「ほんとだ。何? 友達か」
「でもなさそうだな」
 渋く眇目になる智也をちらりとし、俺はその数人──四人に目を戻す。確かにいわゆる“囲み”っぽい険悪さがここからでも感じ取れる。ひとりが何か言い、二ノ宮は畏縮しきって首をかたむけ、何かを小さく返した。うっすら白い息が、髪や上着の裾をはためかせる風に、すぐすがたを奪われている。不意に智也に肘で突かれ、はっと彼を向いた。
「な、何?」
「『何?』って何?」
 背後で生徒たちが行き交う中、俺たちは顔を合わせる。ぽかんとしている俺に、智也は物音を感知した動物の耳みたいにぴくりと眉を上げた。
「行かないのか」
「えっ」
「えっ、って。けっこう薄情だな」
「お、俺が口はさむことか」
「違うといいけどな」
 俺は口元をこわばらせ、その言葉の含みを飲みこむと、反論できずにうなだれてしまう。違うといいけど──それ以外に、あの子が因縁などつけられる理由があるだろうか。彼が俺とつきあいがある事実は、うわさに流れてきている。俺は肩紐を握りしめると、澱みかけた心を締めくくる息を吐いて智也を向いた。
「代わりに試験のポイント聞いとけよな」
 智也の瞳の中は、俺の真剣な直視に笑みを返す。
「寝てなきゃな」
「………、じゃあ深井に訊くよ」
「聞いとくって。冗談分かれよ」
「お前はほんとに寝そうだろ」
 舌打ちした智也は、約束は守る目配せとにやりとすると、肩をたたくついでに俺のリュックを盗んで行ってしまった。生徒たちに紛れこんだその背中を見送ると、ガラス越しの四人に視線をすべらせる。
 奥の頑丈そうな奴につめよられて硬直する二ノ宮を見ると、みぞおちに重く綯い混ざる焦りで、その場に躊躇してしまう。
 もちろん助けたい。あの子が傷つくのは見たくないし、あの三人が許せないのも俺は身を持って知っている。しかし、俺が助けたら、変なうわさがさらに広まってしまうのではないか。
 そうなるとうわさは事実になり、余計にあの子は凝り固まった偏見に肩身が狭くなる。まさかずっとはりついて守るわけにいかないし、必然、彼は俺の目がないところで迫害を強いられるだろう。あとあとを考えたら、でしゃばらないほうがいいのかと自分が受けてきたさまざまな仕打ちが脳裏に疼いてうつむいたが、頭上にチャイムが鳴り響いて、はっと廊下を振り向いた。
 いつのまにか廊下の人気はすっかり引き、残る生徒も急いで駆け出していた。とっさに四人に目を向けた俺は、まぶたを押し上げる。二ノ宮は逮捕される犯人のごとく、強く腕を引っぱられ、校舎の向こうに連れていかれそうになっていた。
 舌打ちして走り出した俺は、乱暴な手で渡り廊下の両端にあるドアを開けて中庭に出る。
「おい!」
 無意識のまま俺が発した声に、校舎の影に入りかけていた四人は、びくっと脚を引き攣らせた。いっせいに振り返り、俺のすがたに真っ先に目を開いたのは二ノ宮だ。
 彼のベージュの上着も、ほかの三人の上着も、枯れた芝生の匂いを切り裂く北風をはらんで裾がめくれあがっている。花壇沿いにその場にたどりついた俺は、三人のバッジを見て、みんな二ノ宮と同じクラスなのを確認した。
「クラスメイトの仲間が、仲良くサボりってわけじゃなさそうだな」
 三人は見るからに上級生の俺にビビった様子をもらす。二ノ宮だけが腕をつかまれるまま俺をじっと見つめ、俺は彼には一瞬だけ優しく笑みを許した。それにほっと瞳を湿らせた二ノ宮に気づいたひとりが、俺に果敢に訝った眼をよこす。
「あ、あんた、まさか──」
「俺が文句つける状況じゃないといいんだけど」
 こんな柄じゃない眼つきや台詞が、それらしく態度にこなせているかは分からない。茶髪の生徒が俺の名札を一瞥し、声変わりもしていない声でつぶやいた。
「……塩沢」
 すると、背の高い真ん中の奴が俺を明らかな虚勢で敵視した。
「あ、あんたホモなんだろ」
 できるかぎり頭にあの親友を思い描いていた。あいつはへらへらしているようで、何だかけっこう迫力がある。
「だったら?」
 こんなふうに、そっけないひと言で相手を斬る。自分のやり方で二ノ宮を守ってあげられたらよくても、まだ俺はそこまで強くない。いつもと違う俺に二ノ宮はほっとするよりとまどっているが、あとで説明して謝ればいい。俺の背中から吹く風にも揺れない短髪で頑丈な軆の奴は、声は落ち着いているのに口調をうわずらせて言った。
「こ、こいつと気持ち悪いこと、学校でやるなよな。外でやれよ」
 切れるか流すか一瞬考え、とにかくこの場をとっとと切り上げるのを優先した。俺の知らない面を知り、不安になっているような二ノ宮に早く弁解したい。
「外ではやっていいんだ?」
「えっ」
「寛大なんだな。消えろっていう奴もいるんだぜ。殴り倒して、殺そうとする奴もいる」
 口をもごもごさせるだけで言葉を研げない三人に、俺は二ノ宮の腕をつかむ手を銃を向けるように瞥視した。
「その手を離せ」
 三人は目混ぜしあって、互いに鋭利な言葉を突き出すのを要求したが、みんな舌が引き攣れて声が喉でつっかえるようだ。結局、二ノ宮の腕を解放した。萎縮して首をすくめながら、背の高い奴が気弱にまごついた目を俺を向ける。
「あ、あんたって、ホモなんじゃないのか」
「何で」
「そういううわさだから、何か、一緒にいるこいつも──」
「俺ってホモっぽくない?」
 彼は歯切れ悪く口ごもり、吐息も感覚も奪う風に髪を踊らす二ノ宮は、俺をたたずんで見つめている。どこも授業が始まって静かだ。見まわりの教師が通りかかる気配がないか、いったん中庭に面する廊下の窓を見渡すと、三人に厳しい目見を返した。
「どっちだろうな。うわさで全部判断できて二ノ宮に因縁つけるぐらいだから、俺のことだって訊かなくても分かるだろ」
 やはり三人は、乾燥機にかけられすぎたように縮みきって何も言わず──本当は俺はこういうとき、後退って謝ってしまうタイプだ。だが、つかまれていた腕をつかむ二ノ宮を見、ここは無理にでも慣れない高圧な態度に徹する。
「いいか、俺がどっちだろうと、こいつと友達なのは確かだ。手出ししたら黙ってないからな」
 俺のぶあつい刃物のような眼と口に、「はい」と三人は敬語にまでなると、何歩かじりじり後退し、それで呪いが解けたようにいきなり動き出して行ってしまった。
 それを険しく見届けた俺は、そのすがたがなくなると急にまぶたを虚脱させてうなだれ、ため息と共に花壇に座りこんでしまった。

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