明日が来たとしても
「……あ、あの。先輩……」
「大丈夫?」
「えっ。あ、はい。……すみません」
「いや──」
膝に腕を預けてずっしり疲れてしまった笑みをこぼすと、いつも通りの顔で怯えかけた二ノ宮を向いた。
「すごい、緊張した。あれ、迫力あったかな」
二ノ宮は何秒か俺にきょとんとし、俺の処置を飲みこめてくると、苦笑いも混ぜて瞳から笑みをほどいた。
「怖かったです」
「そっか。はは、俺はダメだな、ああいうの。智也の影響があってよかった」
「桐島先輩」とつぶやいた二ノ宮に、俺は花壇を立ち上がると彼の肩をぽんとうながした。「あ」と渡り廊下を見た彼に首を振り、「いつものとこ行こう」と風のあたる頬に笑みを混ぜる。
「えと、授業は」
「俺は途中から顔出す勇気ないよ。あ、君は帰りたい? 試験前だし」
「い、いえ。あの、……そんな気分じゃないし。次家庭科で、試験科目でもないし」
「そっか。じゃあ行く?」
素直にこくんとした二ノ宮に微笑むと、彼と校舎をまわって第二棟の非常階段をのぼった。「寒いね」と殺す足音に合わせて低い声で言うと、二ノ宮はうなずく。
白い息が日陰にうっすらと浮かんでは消えていく。見上げた厚い灰色の雲はたっぷり雨を溜めこんでいそうで、いつ降り出すかしれない模様だ。
二階の階段で止まって地べたに座りこむと、俺たちは何となく顔を合わせた。
「びっくりしました。まさか先輩が来るなんて」
安堵もちらつく口調で言った二ノ宮にちょっと咲うと、「うん」と錆臭い手すりにもたれかかる。服が厚くなったので、夏服のようにその硬さは背骨に負担にならない。
「体育の授業の帰りで、渡り廊下通りかかっててさ。何か、俺のせいでもあるかなと思って」
「そ、そんな。先輩のせいじゃないです」
「ゲイってことで言われたんだろ」
「でも、先輩のせいじゃないです。何かのせいにするなら、それは僕がゲイってことのせいで」
そう言われると、俺も卑屈になれない。というより、自分の言葉に睫毛を沈ませかけた二ノ宮に、慌てて声を出す。
「そんなふうに悪く言うことないよ。ごめん、俺も──。俺のせいじゃないって思ってくれるなら、ありがとう」
俺がそうなごやかになると、二ノ宮もほのかに頬を色づかせて咲ってくれた。彼のそんな笑みを見ると、微笑んでしまう俺は、余計その源の心を傷つけたあいつらが許せない。
「嫌なことは言われた?」
「え。……ん、まあ。ほんとにそうなのかって。否定してもしょうがないし、うなずいたら、よくも俺たちの仲間面してたなって」
俺は思わず眉を動かし、上履きに瞳を陰らせる二ノ宮に首をかしげる。
「友達?」
「……はい。いや、たぶんもう違うかな」
それは思いがけなくて、視線を宙に浮かして改めてあの三人を思いかえす。
友達。そんな事実をはさんで彼らの態度を反芻すると、毒がまわるような苦い重みが呼吸に立ちこめた。
「俺、あんなこと言ってよかったかな」
「それぐらいの友達なのは分かってましたから」
「……ごめん」
「いいんです。先輩が助けてくれたことのほうが嬉しいです」
二ノ宮は気丈に咲ってくれても、どこか感触を傷ませていて、俺も自分がどうしたらよかったのか、曲げた膝にうつむいてしまう。
優しく声をかけ、偏見することはないと諭せばよかったのか。そんなのは通用しない奴らだと見たのだが、二ノ宮の友達だったとは──
しかし、あまり謝るのも二ノ宮を恐縮させそうで、ひとまず気になっているところに移った。
「君がゲイだってこと、ばれてきたんだ?」
二ノ宮は風に紛れてこちらを一瞥し、ごく小さくうなずいた。俺は複雑な目線を足元にさげ、分かっていたけど冷たい唇を噛んでしまう。そう、分かっていたことだし、たぶんそちらのほうがいいのだけど──防げるよう気を遣うべきだったかと危懼してしまう。
「守って、あげたいけど」
静けさにぽつりと絞り出した俺に、二ノ宮は目を開いた。
「今日も、ただの偶然だったし」
「そ、それは大丈夫です。慣れなくちゃ」
「でも、」
「先輩は一年生と二年生のとき、ひとりで頑張ってきたんだし。それに、僕には先輩がいるんです。何ていうか、心の中に」
二ノ宮は一度直視を躊躇わせて照れ咲っても、まばたく俺に目を戻して言葉をつなげた。
「僕は先輩より弱いけど、先輩より心強いものがあるから。何かあっても」
俺は二ノ宮の揺るぎない黒い瞳を受け、ほとんど凍えていた軆の芯に強い熱を滲ませた。瞳が潤みかけて目を伏せても、代わりに言葉で二ノ宮に気持ちは返す。
「何かあったら、遠慮せずに言っていいよ。何ていうか、仕返しは任せろとかじゃなくて、吐き出すだけで違うし。休みの日にゆっくり会ってでもいい」
頬がのぼせそうなまま言った言葉に、はたと我に返る。そうだ。彼にはこれを言っておきたいと思っていた。こちらに首を捻じる二ノ宮と、まじめに見つめあい直すと、口振りも整えた。
「ほんとに、休みの日に会ったりしよう。俺、高校に進みたいって思ってるけど、君のことはすごく心配なんだ。特にばれたんなら、ほんとに。俺が卒業したあととか考えると、俺のほうが怖くて」
いらない不安を負わせる言葉だと分かっているから、俺は視線を錆びた模様に落とす。とはいえ、大げさな心配ではない。ゲイがどんな目に遭わされるかは、俺はその血生臭さや味まで痛感している。この子があんな化膿に胸をえぐられるなんて、考えただけでぞっとする。
「君には、俺が味わった気持ちは知ってほしくない」
「先輩が味わったものなら、」
「あんなの知らないほうがいい。知っちゃいけない。だって、知らなくていいんだ。ゲイはあんなにされなきゃいけない犯罪じゃない」
頬にあたる二ノ宮の視線に俺は黙りこみ、せくぐまって、しばらく前髪だけを風に揺らしていた。そしてゆっくりしばたき、ため息でふさがっていた気管を通すと、二ノ宮に横目を向けて情けなく微笑む。
「自分のことも心配しなきゃいけないのに」
「え」
「高校になっても、またいろいろあるだろうし。もちろんそれも怖い。けど、それと同じぐらい、君を残していかなきゃいけないのが不安なんだ」
冷えた指先は壊れてしまったようによく動かない。そんな手をさしのべても暖かくないのに、俺は二ノ宮の髪を丁重にさする。
「土日とかに会ったりしよう。君が傷ついてないって知っておきたい。元気ないなら、きみの好きなとこにどこでもつきあうよ」
「先輩……」
「行きたいとことかある?」
二ノ宮は急にぎゅっと目をつぶって首を垂らすと、狭めた肩をわななかせた。「二ノ宮?」と慌てて手を引いて声を崩した俺に、二ノ宮はかぶりを振ると、「ごめんなさい」と目をこすり、真っ赤に染まった頬を気にしながらも顔も上げる。前髪に隠れたがる視線はスラックスの膝ではりつめていたが、瞳そのものは熱っぽく潤っていた。
「先輩がそう思ってくれるだけでいいです」
「え」
「ほんとに、それでいいです。先輩って四月とかにはすごい遠くて、話す機会もないんだろうなとか思ってて。なのに、今、そんなに気にしてもらえて。まだときどき信じられない」
「───」
「先輩がそう想ってくれるなら、何があっても平気です。何とも感じないってことはないだろうけど、平気です」
そっと顔を持ち上げてこちらを見つめた二ノ宮に、俺もその瞳をじっと見つめ返す。
「そばには、いてください」
「……うん」
俺の答えに二ノ宮が自然に笑みをやわらげると、俺もそれに導かれて咲えていた。
空気が通じている。俺も彼も、たぶん分かっている。でも口にはしなかった。承知しているからか、まだ早いからか──。
雨の匂いが近づいてきている。「僕も桐島先輩みたいな友達持てるといいな」と天にうごめく雲を仰いだ二ノ宮に微笑み、「持てるよ」と気休めでなく言うことができた。
だって、すごくいい子だ。俺みたいな奴にもあんな上等の親友ができた。あの三人のような奴ではない、いい親友がきっと彼にも現れる。
卒業したら、二ノ宮とはだいぶ生活がばらばらになる。俺たちに、心理的な溝ができる危機はまだなくも、その距離に立ち入って手出ししてくる奴はどうせいるのだ。
でも、彼の言う通り、気持ちがそばにあればいい。離れるのは場所だけだ。心がこんな雰囲気のままつながっているのなら、俺は安心して卒業し、望んだ高校に進学していける。
【第百十六章へ】
