非常階段-116

 執拗な傷口に悩んでいたときは、自分がこうも複雑な人間とは知らなかったと感じていた。
 けれど、最近は、自分はこんなに単純だったのかと思うこともしばしばだ。それが率直に現れているひとつが成績で、受験をひかえる者として、期末考査はなかなか満足できる結果だった。
 こうして毎週末、深井家に来れるのも、結局は深井が勉強に協力してくれてこそなのだ。やってきて俺が庭を覗くと、カシスはすっかりこの顔か匂いかを覚えていて、尻尾も振ってくれる。
 俺と深井は学校でも口をきくけれど、特によくつるんでいるというわけでもない。口をきかない日もあるぐらいで、「試験どうだった?」とライトオレンジのニットにフェードブラックのスカートを合わせた深井は、この機会に尋ねてくる。
「思ったよりよかったよ。下がるとこまで下がってたから、上がって当然ってレベルだけど」
 玄関の緩い冬陽の中、スニーカーを脱ぐと、中綿の黒いジャケットにブルージーンズの俺は慣れた足取りで廊下に上がる。この家の空気に感じる匂いとか、ときおり通りかかる物音とか、そういうものにカシスが俺に懐いたようにすっかりなじんだ。
 しかし、ここに来ている肝心の問題は、依然として黙りこくって変化のきっかけすらない。
「芽さんはどう? 今週」
 こごえた髪を無造作にはらって俺が訊くと、いつも通り深井は首を振って薄暗いため息をついた。毎週少しずつ、空まわりした期待にがっかりするより、“やっぱり”と承知していたあきらめが重くなる。
 とりあえず話しかけるだけでは、やはりダメなのだろうか。力になりたい。その俺の気持ちが芽さんに鮮烈に伝わる方法を取るべきなのかもしれない。
「何か飲む? 寒かったでしょ」
「ん、ああ。部屋の前で飲もうかな」
「あそこ冷えるよね。ごめんね」
 そう言った深井の睫毛の角度とか、瞳の色合いとか、声の感触は学校ではありえない陰りを帯びていて複雑に黙りこむ。取っつきのない虚しい状況が長引き、彼女は俺が何をダシに嫌になるか不安に恐縮しかけているようだ。
「あたしたちは、一度兄貴を裏切ったしね」
 今でもよく思う。なぜこんなに人を思いやれる家族まで、芽さんは拒絶するのだろう。出るに出られなくなっているのか。キッチンに移り、くすんだ冷気に宛てられてきた服をさすりながら俺が問うと、カップにお湯をそそいでティーバッグを香らせる深井は、そう答えた。
「いまさら理解されても、お世辞にしか聞こえないんだよ。病院に行こうなんて、最低な提案までしちゃったし」
 ドアの脇で壁にもたれる俺は、誰もいないリビングに首を向ける。おじさんとおばさんは留守のようだが、俺が来るまで深井はここにいたのか、暖房はしっくり行き届いている。そそがれるお湯の音と、ガラス戸に体あたる風音以外、静かだ。
「ゲイってことで病院行きにするのは確かに残酷だけど。あの状態になった芽さんを病院に連れていこうと思ったことはない?」
「………、手に負えないからほかに預けるって、兄貴は見捨てられたって感じるかなって。そんなこともないのかな」
 ティーバッグを下ろしてスプーンでカップをまぜる深井のそばには、カシスの小屋に面した窓がある。そのレースカーテンにそよぐ弱い光は、所作に揺れる深井の髪を添い流れている。
「俺、カウンセラーと話そうかと思ったことはあるんだ。スクールカウンセラー。でも、ドアの前でやめた。友達でも家族でもない奴にすがるほどみじめになりたくないって。ほんとはそんなんじゃなくて、いいものなのかもしれないけど。どうすれば前向きになれるかとか、そういう助言はしっかりしてると思う。でも、何か嫌だった」
 こちらを向いた深井の視線に、俺は床にうつむいて口を澱ませる。あの頃、俺は酸欠した心が閉塞し、自分が孤立に病みかけていると分かっていた。それでも、呼吸に必要なのは医者ではないと感じた。
「智也は、俺といると楽しいって言ってくれる。カウンセラーは、ただの患者にそんなの言わない」
 深井は無言でそばに来ると、カップをさしだした。俺は冷たい指先にじわりと陶器を受け取ると、熱には気をつけて香ばしい甘味をすする。
「俺は、医者じゃないとできないことを必要としてる人が、病院にいけばいいって想う」
「兄貴はどうなんだろ」
「芽さんに必要なのは、鎮静剤打てる技術じゃないだろ」
 俺の冗談に苦笑いっぽく咲い返した深井は、「そういえば」と俺と向かい合うテーブルの縁に腰を預ける。
「医者は腫瘍を取り除くことはできるけど、かわりに埋める新鮮な臓器は持ってないってどっかに書いてた。病人にほんとに必要なのは、医者以上に臓器提供者なんだよね。血液型とか合った、抵抗の起きない。あたしたちは、兄貴の中の抵抗を起こすんだ。あとからどんなに繕っても、初めがああだった」
「あとから、ずいぶんやってると思うぜ」
「でも、初めって大きいよ。兄貴はあの性格だし。自分を好きじゃない相手に取りこむなんて無理な人なのに、あたしたちはあんなに拒否しちゃった。怖がって当然だよ」
 ──淡い湯気がたなびくカップを連れて、芽さんの部屋の前に立った。冷えこんだ軆に、飲んだ紅茶の熱がじっくり染みこみかけている。陽の当たるドアを見つめていると、緩いため息がこぼれ、揺らめいた紅褐色の香りが静けさにただよった。
 何とも言えない重さで、深井の悔やむようなあきらめるような影を思い返し、ゆっくり喉を開く。
「芽さん──」
 正直、ここに来るのが怖いと感じるときはある。嫌ではないが、怖い。俺はここで、たいてい毎週、自分の情けない無力さに打ちのめされる。芽さんや深井のためになれば、と本気で思っているのに、手抜きなんてする気はないのに、要領よくできなくて何も進展しない。
 俺の声にドアの向こうは物音ひとつの反応もなく、そのたび俺は自信を失くす。自分は芽さんの支えに向いていないのではないか──。
「寒く、なりましたね」
 取り留めのない言葉を落とし、ドアの脇の壁に背を当てたまま廊下に座る。ジーンズ越しにも冷えきったフローリングを感じ、紅茶をすすって欠けた体温を補う。
「十二月ですもんね。そういや、期末考査終わりましたよ。深井に聞いたかな」
 曲げた膝にカップを乗せ、次第に鎮まっていく波紋を見守る。何をどうすれば、芽さんの足音はこちらに動いてくるのだろう。
「でも、これから受験が本番になるんですよね」
 ひとつ言えることは、俺は医者ではない。仕事で嫌でも芽さんを無視できないわけではない。
「いそがしくなりますね。俺にも芽さんにもそっちのほうがいいのかな。ほんとに力になりたいと思ってたんだけど、そんなの芽さんには迷惑だったみたいだし」
 残酷な打診かもしれない。ガーゼの下に本当に傷口があるか、指ではじいて確認するようなものだ。なければいいけど、本当に怪我していたら──
「俺、ここに来るの、やめましょうか」
 ちょうどあたりは静かで、聞いていたら聞こえたと思う。物音も、まさか声も返ってこない。聞こえたのは、カップを握りしめた俺の上着の衣擦れぐらいだ。胸に食いこんだ真空のような現実に唇を噛みしめる。
「……芽さんが俺をどう思ってるかなんて、ぜんぜん答えがないことが答えになってんのかな。俺は、それでもいいですよ。俺は芽さんと話してみたかったんですけど。うまく話せるかは分からなくても、それでも」
 壁に虚脱して虚ろに天井を仰ぐ。ガラス戸と向き合って、繊細な光は満ちているのに、爪先の感覚は冷たく消えている。
「俺ばっかり愚痴って、芽さんの気持ちは聞いてあげられなかったですね。俺には話したくなかったのかな。でも、俺じゃなくても、いつか誰かに気持ちは話したほうがいいですよ。そしたら絶対、楽になれる。俺じゃなくても、芽さんには家族がいるんですよね。芽さんは、俺の環境がマシとか思ってるのかもしれないけど、俺は芽さんのほうがうらやましいです。俺がこんなふうになれるまで、すごい時間がかかったこと、忘れないでくださいね。俺は芽さんより強いとかそんなことはないんです。つらくて、事あるごとに死にたいって思う自分が嫌いだったときもあるんです」
 だるい腕を下ろして、紅茶を床に置いた。カップの底が暖かかった膝にひたいを当て、あてもなく立ちのぼっては消える湯気のように言葉を喉に紡ぐ。
「今も、自分が好きかは分からない。ここに来ると、すごく情けなくなる。芽さんの力になれたらって思ってるのに、思うようにできなくて。勝手にしゃべってるだけで、ほんと役に立てなくてごめんなさい。まだぜんぜん、自分の整理もできてないからでしょうね。今までここで話したいろんなこと、どうしても怖いんですよ。一年のときからのこと、すごくはっきり憶えてる。その、しつこい記憶力。死ぬまで忘れられないのかって思うと、もうやめにして、死にたいとか思って。自分の人生を受け入れられてない自分が、すごく──」
 みぞおちが暗い疼きにつっかえて、膝を抱えた。反応はない。何をしているのだろう。そういうことではないか。俺だってどこかでは、こんなのを話して、わざわざ陰気な苦痛を蒸し返したくはない気はする。
 暗がりに顔を埋めて、長いあいだ動かなかった。肩だけ震えているけれど、特に絞り出す涙もない。むしろ喉がからからで、浅い呼吸にべたべたした口の中がとどこおった。
 甘かったのか。たぶんそうだ。引きこもりだ。俺にできる程度の努力でどうかなるはずがない。あきらめが黒インクの染みのように胸の中に垂れこめてくる。この扉を開くには、知識や情感や努力でなく、もっと宿命的な共鳴がいるのだ。
 深井への弁解をもやもやと手探りし、だるく立ち上がろうとしたときだ。
 がちゃ、とひかえめな音がして肩をこわばらせた。え、と心臓に走った動揺に狼狽えていると、暖かい空気が冷えた足元に絡みついてくる。ついで、この家の匂いに通じる、でも少し特有を帯びた匂いもただよってきた。
 俺は強直した喉に息を止め、恐る恐る顔をあげて、崩れた前髪の奥で目を開く。

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