非常階段-117

きっとこれから

 開けられたドアの向こうには、背の高い、細身の、髪だけぼさついた男の人がいた。見下ろしてくるその目に、俺は居竦まってしまう。
 ものすごく、虚ろなのだ。環境汚染の川に浮かんだ死骸の魚のように濁っている。けれど、そのぶん、攻撃や威嚇もいっさい欠けていた。そして、そういう哀しい感じが、今日のあの深井の瞳に酷似していた。
 白い肌は青く透け、フェードブルーのシャツにカーキのスラックスを合わせている。
 そしてなぜか、一瞬思い出したのが、あの教育実習生の白城だった。もし壊れそうな印象がなければ、あの人みたいな、穏やかで淑やかな人であるようにも思えた。
「あ……、あの、め、芽、さん?」
 艶のない瞳は、何も発さない。そのまま石化しそうになったが、はっとして、カップを蹴飛ばしそうになりつつ凍えた脚で立ち上がった。やはり彼のほうが背が高くも、思ったより首を反らせる必要はない。部屋には明かりがついているが、彼の肩幅が影になってよく窺えなかった。
「は、初めまして。その、俺」
「寒い、だろ」
「はっ?」
「ここは」
「あ、あ──」
 息づいた精彩はなくも、その声はどことなく予想通りの、優しい落ち着きを名残らせていた。
 心臓がつまずきそうなぐらい駆け抜けて痛い。
「寒い……そ、そう、ですね。けっこう」
「……入れば」
「えっ」
「ここは、暖房きいてるし」
 ぽかんと突っ立ち、遺跡に感嘆する観光客のように芽さんを見あげてしまう。
 そんな。嘘だ。いきなり──
「な、何で」
「嫌なら、」
「い、嫌じゃないですけど。芽さんが、いいんですか」
 芽さんは俺を硬い目でちらりとし、背光性の花のように視線をうつむけた。
「ごめん」
「えっ」
「もう来ないって言われたからって、………」
 芽さんのこけた頬を見つめ、打診が通じたらしいとようやく飲みこむと、思わずほっと微笑んだ。それが苦笑に見えたのか、芽さんは恥じ入った視線を前髪にひそめる。
 俺は腰をかがめて、緊張にほてった指でカップを持ち上げた。視界の端に階段がちらついたものの、一応ここは、芽さんは“俺に”ドアを開いたと判断しておく。
「そういうつもりで言ったんです」
 芽さんのくすんだ瞳は、俺を映してゆっくり一度まばたく。
「俺こそごめんなさい」
 瞳を通して咲った俺に、しばらく躊躇ったのち、芽さんも笑みの残像のように少し瞳を霞ませてくれた。咲えないみたいな笑みだけど、貼りつけたわざとらしさはなく、そういえばいつか見せてもらった写真の中の名残もほのかにある。まだ残っているのだ。深井たちにつながる、暖かい血が残っている。
 俺は医者ではない。金をもらうのだから治してやらなくてはならないとか、そんなのではない。俺は自分の意志や感情でここにいて、心という内臓を芽さんに与えることができる。
 もう来ない。この台詞で、俺は義務に縛られているわけでなく、うつろうかもしれない自分の気持ちでここに来ていると暗示したつもりだ。とはいえ、俺が芽さんのすべてを満たす必要もなさそうだ。笑みが乾涸びきっていないこの人は、肉親の心も受け入れられる切っかけを秘めている。
 運命に賭けずに、俺の努力にも応えてくれた。試すようなやり方をしてしまったけど、俺はこの人に変化が欲しかったのだ。やっと機会が巡ってきた。
 部屋に招いて一歩引いた芽さんに、「ありがとうございます」と断って、俺は暖房のきいた室内にそっと踏みこんだ。
 部屋に包まれてみると、一階にただよっているのとは異なってしまった匂いが濃くなった。カーテンどころか、雨戸も締めきられ、匂いにはこもったような感じもあれ、鼻をつく異臭はない。
 広さはなくも、質素な部屋だった。何かが散らかったり、ばらまかれたりはしていない。壁や天井は白いまま、床はフローリングの木目のままだ。智也はもとより、俺の部屋よりさっぱりしているかもしれない。
 芽さんはドアを閉めると、ベッドに歩み寄った。俺は芽さんを目で追い、何歩かそちらに近づいた。
「俺の話、聞いてくれてたんですね」
 芽さんは俺を振り向き、やましそうな伏目で首をかたむけた。
 その髪はぼさつきがあるものの、ワックスをかけすぎたようなべとつきはない。室内に体臭が染みついていることもないし、そういえば髭がむさくるしいこともない。夜中にいろいろ済ましているというのは、本当のようだ。
「初めは、耳を塞いでた」
 芽さんは俺の目を見ずにベッドサイドに腰かけ、やつれた細身をぐったりさせて、ベッドを軽くきしませた。足音、衣擦れ、息遣い、暖房の唸りやため息も響いている。あのドア防音効果でもあったのか、とも疑いつつ俺は芽さんのかたわらに行く。
「でも、少しずつ」
「それでいいですよ。たぶん、かなり驚かせましたよね」
「…………、ほんとに、いいのかな」
「えっ」
「勉強、いそがしくなるんだろ。こんなときに話すようになっても」
「あ、大丈夫ですよ。あれは、何というか、言ってみただけだし」
「でも、」
「まあ確かに、余裕ってわけでもないから、毎週来るのはきつくなるかもしれませんね」
 あまり強がれずに言うと、芽さんは首を垂らし、「けど」と俺は急いで気持ちをおぎなう。
「受験は卒業で終わっても、芽さんとはそのあとにもゆっくりつきあっていけるんですし。ドア開けたいと思ったとき、開けてくれてよかったんですよ」
 頭をもたげた芽さんは、深井と色合いのよく似た瞳に俺を捕らえる。俺はちょっと照れ咲いすると、ベッドスタンドに冷めたカップを置かせてもらい、芽さんの隣に腰かけた。
 それをじっと見届けた芽さんは、ため息に重ねて素足にうなだれる。
「君の話は亜里紗に聞いてた。作り話かと思ってた。君が来て家族が怖くなった。役者を仕立てあげてまで僕を引きずりだしたいのかって」
 アリサ。アリサって誰、ととっさに思ったが、深井の名前だ。
「でもそこまで、」
「するわけないって分かってても、悪いことしか考えられなくて」
 芽さんの口調がおぼつかず聞きとりにくいのは、だいぶ人と対話していないせいだろう。耳を澄ましてかぼそい言葉を取り留める俺は、その心理を反芻して苦く噛みしめる。
 きっと、悪いことしか考えたくないのだ。裏切られたときのために。
「深井たちが理解してること、分かってるんですね」
 芽さんはもつれかかった前髪の合間に俺を見る。こう近くだと、深井に感じるシャンプーかボディソープの匂いを芽さんにも感じる。同じものを使っているのだ。
 足元に澱む暖房が、凍えた体温をほどいていっている。芽さんは緩く睫毛を伏せると、「分からない」と頼りない吐息とつぶやいた。
「え」
「理解、してるんだろうね。でも、信じられないんだ」
 芽さんは細く削られた顎の線を見つめた。そういうすがたかたちは十九になる男だと感じさせても、彷徨う視線やもろい口ぶりに俺との年齢差は浮いてこない。陽に当たらなかったぶん植物は育たないように、内面的な成長は止まっているのだろうか。
「ほんとに、理解してますよ。絶対です」
 芽さんはかすれた笑みをこぼすと、カーキの綿布の下で骨ばる膝を握りしめた。
「いまさら、どんな顔をしたらいいか分からなくて。毎日、もっと早く部屋を出てればって思いながら、いつまでも出られなくて、時間だけが過ぎていって。五年……かな。分かってくれてるんだとしても、もう僕には合わせる顔がない」
「深井たちは、敵じゃないんですよ」
「味方だと思うよ」
「なら、」
「でも僕が、味方だってみんなを信じて、応えることができない。どうしてもできないんだ。話すのが怖い。僕を想ってくれてる人たちだって頭では分かってても、気持ちが追いつかなくて、怖くてたまらない」
 俺は柔らかいシーツの上でこわばる。芽さんの思いつめた睫毛を、どう見ていたらいいのか分からない。
 応えられない。寄りかかれないということだ。やはり、深井たちの初めの反応がこびりついて離れないのだろうか。
「話して、拒絶されたのが、やっぱり重たいんですか」
 気まずく身じろいで尋ねると、芽さんは床を彷徨っていた視線をぼんやりと一点になずませた。くぐもったため息の拍子に、流れた髪がかすかにささめく。
「理解するって言ってもらえたとき、さっさと一階に降りてればよかったのかもしれない。でも、あの頃は意地になって、絶対家族には心を開かないって誓ってて。今はあの告白した日を思い出してつらくなったり、いらいらしてきたりはしない。自分が情けないだけだよ。あれぐらいで、自分や家族をここまで引きずりこんで」
「後悔、してますか」
「みんなに申し訳ないと思う。何のために部屋にこもってるのか、長すぎてよく分からなくなるときがある。ただ家族を受け入れられないって、その気持ちはいまだに鮮明で古ぼけてない」
 芽さんが伏目で語る声は、霧雨のようにおとなしい。どう声をかけても部屋を出ない。だったら、そういう過酷な心情を抱いているのは、ある意味当たり前なのに、いざ聞いてみると本気でそんなに思いつめるのかとまごつく。無造作にベッドを座り直すと、くたくたのシーツの匂いがした。
「俺には、ドア開けてくれましたね」
 芽さんは俺を見、黙ってうなずくと言葉は視線を向けた空中に消した。
「他人だからですか」
「………、君だから」
「ゲイだから、じゃないんですね」
 芽さんは少ない笑みを口元にもらすと、まぶたを伏せた。
「ごめん」
「え」
「君に好きな人がいるのは分かってるから」
 俺は電気を受けたみたいに、どきりと肩をこわばらせる。
「す、好きな人というか、」
「あんまり、同性愛とか意識しないでほしいんだ。今は自分がゲイだってことより、部屋を出られないことに悩んでる」
 芽さんの冷静な口調に、さいわい俺のほてりかけた動揺も落ちついてくる。芽さんはそっと俺を見ると、色褪せながらも微笑を向けてくれた。
「君には、そういう感情はないから」
「…………、俺も、まあ。そうかも」
「人を好きになるなんて、僕にはできるかどうかも分からない。僕のそういう部分は死んでるかもしれない」
 芽さんの張りつめた表情に黙りこくりかけても、ここで口をつぐんだらその不安を肯定するような気がして、俺は慌てて言った。
「お、俺もそう思ってましたよ、二ノ宮に会うまでは。その、好きなのかとかまだ分からない相手だけど。友達だって、智也に会うまではあきらめてた。芽さんにも誰かいると思うから……というか家族がいるから。まずは俺から慣れていってください」
「すぐ話せるか、分からないよ」
「ゆっくりでいいですよ。俺も芽さんのペースにつきあいたいから」
 こちらを見つめて、どことなく表情をやわらげた芽さんに、俺も照れ混じりに微笑み返す。俺にとっても、こんなふうに咲わせてくれる人は貴重だ。笑みを交わせる相手は、今はそう気軽にあふれていない。
 時には本気で勘繰った。このドアの向こうに人間がいるのか。気配も物音もなく、ぬいぐるみに話しかけるより虚しい自分がバカバカしくなった。学校を何度もそうしたいと思ったように、芽さんを途中で投げ出したいとも思った。
 でも、できなかった。よく分からないけど、その非常階段を降りたら、後悔しそうだった。事実この日を迎えてみると、智也や二ノ宮に出会ったときのように、やめなくてよかったと感慨が染みこむ。
 俺としても、この人に一歩近づけたことを大切にしていきたい。俺だって、すぐ、うまく、芽さんの力になれるか分からない。もしかすると、ぜんぜんなれないかもしれない。
 でも、とりあえずやってみよう。そうしたいと思うから──友達になれる人とは、もちろん親しくなったほうがいい。

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