近づく卒業
冬休みが近づいてきたある日、靴箱に久しぶりにメモが入っていた。
お互い期末考査でばたばたして時間が取れなかったから、俺も彼のことは気になっていた。その日は昼食を手早く済ますと、一緒にパンを食っていた智也に冷やかされながら、俺は急いで非常階段に向かった。
人目につかないよう、昼休みの廊下のざわめきに紛れて、素早くドアに身をすべりこませる。すると、すでにそこには同じ学生服の背中があった。
「あ……、」
振り返ったのは、もちろん二ノ宮だ。俺のすがたを見ると、ほっとしたように咲った。変わらない笑顔になごみながら咲い返すと、俺も隣に並んで、冷たい手すりにもたれる。さすがに冷える場所だが、やはりここは落ち着く。
「久しぶりだな」
「そう、ですね。いそがしかったですか」
「放課後のほうが、受験勉強でいそがしいや。試験中は落ち着かなかったかな。二ノ宮は試験どうだった?」
「平均点は取れました。先輩は」
「うん、俺もけっこう。勉強してたから」
二ノ宮と話すのは、中庭でクラスメイトに囲まれているのを助けたとき以来だった。あれから教室で大丈夫かを問うと、二ノ宮は一応こくんとしたものの、やや首をかたむけた。
「ただ、あの三人とは話さなくなりました」
「そっか……。孤立とかは」
「ってほどじゃないです。みんなに何かされてるわけでもないし」
「そっか。ごめんな。あのとき、やっぱでしゃばったかなとも思って」
二ノ宮はかぶりを振り、「あのときは嬉しかったです」と言う。
「自分では言い返せなかったし」
「あの三人が何か言い触らしたりとかしてない」
「それはないみたいです。あの、たぶん、先輩が怖いんだと思いますけど」
ちょっと咲って、「実際はそんな怖い奴じゃないんだけどな」と錆びた手すりに体重を緩くかける。芯まで冷えこんだ風が髪を揺らしていく。
「逆効果で悪いことになってないならよかった。もし何かあったら、言ってくれよな。できるだけ力になるし。って、もうすぐ卒業だけどな」
俺の苦笑いを見つめ、二ノ宮は少しうつむく。「どうかした?」と覗きこむと、彼は淡く桜みたいな色を頬に溶かして首を振った。その頬の色を見ていると、二ノ宮はそっと顔を上げた。
「卒業……」
「え」
「卒業しちゃうん、ですよね」
「あ、……まあ」
二ノ宮の視線がうつろい、「すみません」となぜか謝ってくる。「何で」と俺は努めて微笑みかけ、「卒業に何かある?」と優しく訊いてみる。二ノ宮は俺の瞳を見つめ、かすかに哀しそうな色合いを混ぜる。
「ひとりで、頑張ろうと思ってるんです」
「えっ」
「先輩が学校に来なくなっても、ひとりで。それに、先輩は卒業しても、外では会ってくれるって言ってくれてますし。ほんとにひとりぼっちになるわけじゃないですよね」
「……うん」
「でも、やっぱり不安になるときがあって。非常階段に来ても、来年からは先輩に会えないとか、つらくて」
「二ノ宮……」
「ごめん、なさい。引き止めてるみたいですね。こないだ、強そうなことだって言ったのに。試験でしばらく会えなかっただけで、こんなになっちゃうなんて、ダメですね」
二ノ宮の細いため息が白く揺れる。俺は少し考え、「そんなことないよ」と言葉を選びながら二ノ宮の頭を撫でた。彼は肩をぴくんと揺らして、俺を見上げる。ゆらゆらする瞳と瞳が重なる。
「そういう弱音、吐いてくれたほうが俺は嬉しい」
「先輩……」
「そのために知り合ったんだし。平気だとか大丈夫だとか、無理しなくていいんだ。つらいことがあったら、俺にぐらい本当の気持ち話して。俺はきっと、君のつらい気持ちを分かってあげられるから。どんな話でも聞くよ」
二ノ宮はわずかに瞳を濡らして俺を見つめる。「なっ」と微笑んで頭をぽんとしてやると、二ノ宮は睫毛を伏せ、素直にうなずいた。俺は二ノ宮の髪から手を引くと、手すりにもたれなおす。二ノ宮もそうして、すると肩が触れ合いそうに近づく。
すぐ左に、二ノ宮の軆がある。頭撫でるとか馴れ馴れしかったかな、といささか心配になる。でも、たまに──本当にたまに、つらいのに咲ったりしてる二ノ宮を見たりしたとき、いっそ抱き寄せて胸に顔を伏せさせてやりたくなるときがある。
この気持ちは何だろう。彼を守ってやりたい保護者のような気持ちだろうか。それとも、芽さんが言ったように──
いや、考えない。考えすぎて、二ノ宮と気まずくなるのが俺は怖かった。この子は俺なんかを支えにしてくれているけれど、実は、俺のほうがそう思ってもらうことで支えられているのだ。
二ノ宮のために、高校にもきちんと行こうと決心できた。この子が非常階段を降りずに生きていきたいと思うなら、俺も同じようにレールから逃げ出さないで生きていたいと思った。
二ノ宮をひとりぼっちにしたくない。そばにいてやりたい。俺が遭ってきたような目には合わせたくない。そういう気持ちがあることで、二ノ宮との関係はじゅうぶん成り立っていると思う。
そのあとも、試験や冬休みのことをとりとめなく話した。二ノ宮は年末年始、家族で帰省するそうだ。冬休みには会えそうにないな、と思ってあえて何も訊かなかった。
俺のほうも、今年は一緒に帰省しようとかあさんが言ってくれているのだ。じいちゃんとばあちゃんの電話での寂しそうな声も耳に残っている。ただとうさんと雪乃ねえちゃんがなあ、とこっそり息をもらしていると、あっという間に予鈴が鳴る時間になってしまった。
「三学期、また一緒に昼飯でも食おう」
非常階段を抜け出すと、慌ただしい廊下をしばらく並行する。別れ道の階段でそう言った俺に、二ノ宮は嬉しそうにうなずくと制服の波に紛れていった。
受験の真っ只中で、一緒に弁当なんて余裕があるか分からない。けれど、そんな時期だからこそ、二ノ宮との雑談でほっとできればいいなと思う。
腰に手を当てて息をつくと、俺も急いで三年の教室に戻ることにした。
【第百二十章へ】
