非常階段-12

林間学校【3】

 夕食もキャンプファイアも、山登りから進歩しない鬱屈した緊張に気を取られて、ただぐったり疲れた。歯医者に行くより気が重かった入浴は、そのあいだに位置していた。一時間のみ貸切る浴場前に並びながら、通夜に参列でもしているかのような陰がどうしても滲んでいたのか、隣の賢司が入浴して大丈夫かを気にしてくる。
「え、でも」
「体調、悪いんだろ」
「え。あ、ああ、まあ」
「山でも熱で転びそうになってたしさ」
 賢司を見つめ、なるほど、と秘かに辻褄に納得してしまった。あのふらつきも発熱も、賢司は病気だと解釈していたのか。病気──病気、なのだろうか。
「堀川に言ってやろうか」
 目立ちたくなかった俺はかぶりを振りそうになったが、とっさに巡った邪推に立ちどまる。もしそれで賢司が、大したことのない病気ならあのときの発熱は何だったのだとか思ったら──「柊」と案じる賢司に覗きこまれ、びくんと肩を引く。そして、それ以上賢司の刺激の強い瞳に見つめられていたくなくて、「訊くだけ訊いてみようか」と曖昧に咲った。
 そういうわけで、俺は入浴は免れた。代わりに部屋で濡れタオルで軆を拭き、着替えておくのは命じられた。「そういう場合は、おかあさんに連絡を書いてきてもらうんだぞ」と賢司の後押しに負けた堀川は、俺をひと足先に部屋に帰した。
 もしこれで賢司の全裸を見、そのつもりはないのに何か起きてしまったら、死刑宣告だった。あの夏の夢が余計に暗雲をかきたてる。さらにそれで夢精したのが執拗にこびりつく。最悪の事態しか予想できなかった。さいわいそれは避けられたわけだけど、これから待っているのは、恐らく暗いトンネルのように長い夜だ。
 火の粉が蛍みたいな炎をふたクラスずつで囲み、班の出しものなりゲームなりさせられたキャンプファイアが終わると、二十一半頃に生徒たちはそれぞれの部屋に帰りついた。消灯の二十二時までに、慌ただしくて決めるヒマもなかったベッドをじゃんけんで割りあてる。後半でようやく勝てた俺は、二段目を逃して一段目の右奥のベッドを取った。
「消灯二十二時なんて早すぎるよなー」
 運の強い賢司は早々に俺の真上を取ったけれど、まだ寝ない今のうちは、俺のベッドに腰かけている。室内は、消灯までは冷房をつけられて涼しかった。フルーツビーンズを口に放りこむ賢司がそうぼやくと、「いいじゃん」と向かいの二段めの笹原が、窓から頭を出す犬みたいに顔を覗かす。
「授業中も寝てる君はいいだろうがな」
「家だったら起きてるぜ。けど今日は五時──」
「はいはい」とその下のベッドでかばんをあさる福井が、聞き飽きたため息を混ぜる。
「半に起きたんですね」
「まじめに寝る奴のために、起きてる奴はあんまうるさくすんなよ」
「まじめねえ」
 俺と頭を向き合わせるのは、そうもったいぶってつぶやいた森本だ。B班の三人はなじみのないクラスメイトたちで、じゃんけんのときには一緒に盛り上がったけど、こういう雑談になると自然に輪は分裂している。「柊はどう?」と賢司は隣の部屋の物音を感じる壁にもたれる俺を振り返る。
「寝る?」
「分かんない。起きてるっていうか、寝れないかも」
「はは。俺もだ」
「そう言いつつ、塩沢って修学旅行んときはいつのまにか寝てたよな」
 スナックバーをざくりと咬み折る森本がにやつくとみんな失笑し、俺はむくれてシーツにそっぽをする。「まあ」と賢司は肩をすくめた。
「寝れるなら寝ろよ。病気っぽいならさ」
 彼を見るとうなずいておき、塩味のコーンチップスを頬張る。窓を見やると、入浴のかわりに使ったタオルがハンガーで冷房に重たくなびいている。「にしても、昼の山登りで女子共うるさかったよな」とふくろを破いた福井の文句に話題がそれる中、そうなんだよな、と森本の言葉に棚に飾られほこりをかぶった人形のように虚脱する。
 小学校の林間学校のときもそうだった。俺は初めのうちは眠れないわりに、ひとり、ふたりと寝ていくうち自分も寝ている。もちろん、眠れるものならぐっすり寝たい。だけど、正直寝るのが怖い。眠るなんて最も無防備な行為をみんながいるこの部屋でやり、何が大丈夫だと保証してくれるのだ。
 自分が寝言を言うのかは知らないけれど、最悪の場合というものはしょせんありうる。ぬくぬくまくらに頬をうずめ、賢司の名前なんか言ってしまったら。おかしな夢を見て、それに囚われ、明日ばれそうな失敗をやってしまったら。
 それに、思い浮かべるかもしれない心象への嫌悪感に、俺はまだ自慰処理をしたことがない。溜まったこいつが、この夜に限って、限界だと自然処理を行おうと脳を刺激したら。
 逃げまどってはつまずく不安の種は、底なし沼から泥水をかきだすようにキリがなく、見つけるたび恐怖と言っていい焦りとして生い茂っていく。
「塩沢は?」
 突然かかった声に顔をあげると、四人の視線がこちらに集中している。
「は?」
「だから、今のクラスに好きになってよさそうな女子っていると思う」
「えっ。あ、……いや」
「だよなー。はあ、あのクラスは女子に関して貧乏くじだ」
「ほんとほんと」
「あ、じゃあこん中だったらどれがいい」
 福井がかばんを探って雑誌を取りだすと、「違反だー」と笹原は鉄棒で前まわりでもするように身を乗りだし、「落ちたらしゃれにならないぜ」と森本は新しいお菓子とそちらに移る。賢司は俺を見返り、ベッドにのぼって隣にもたれてくる。
「ほんとに」
「え」
「めぼしい彼女はいないって」
 賢司を向き、「ほんとだよ」と頬に曖昧な笑みをふくませてうつむく。賢司は俺のコーンチップスのふくろに手を突っこみ、所作にかすった彼の匂いに、熱が疼いてふくろを取り落としそうになる。壁際で軒下のように陰ったそこで、ひとつかみ奪ったコーンチップスを口に入れる賢司を、ちらりとする。
「賢司は」
「え」
「賢司は、今のクラス、いるのか」
 賢司は俺を見るとくすりとし、「話聞いてなかったな」と頭を小突く。どくんとこめかみが脈打ち、頬を隠す。
「いないって言ったじゃん」
「そ、そう」
「ま、正確には作れないんだ」
「え」
「こないだ白杉しらすぎから電話があったんだよな」
「白、杉……」
「ほら、俺が小学校のとき気になってたという」
 一瞬、瞳孔が真っ白に心停止した。唇が冷たく震え、けれどそれは噛みしめて賢司を向くと、彼は照れたように伸ばした膝をさすっている。
「遠距離なんて、どのぐらい持つか分かんないし、言い触らさないでおこうと思ってるけど。ま、柊にはな」
 視線を頭ごと下に垂らした。真っ白に硬くなったものが、さらさらと風に壊れて、感覚を失くしていく。でも、それは拒絶された贈りもののように握りつぶし、息絶えそうな気力を無視して笑顔を造る。
「よかったじゃん」
 賢司は俺を向いて幸福そうに咲い返すと、仕草で三人に混ざりにいくのをうながした。何も考えずに従い、ベッドを降りて向かいのベッドに移る。
 手足の感覚がざらざらしていた。呼吸が軋んで頭痛しか聞こえない。猛禽が死肉をさらうように、一気に脳髄を掠奪されたようだ。みんなの中で嘘みたいに咲えながら、どんどん心と軆が古い壁紙のように剥がれていく。
 表と裏が引き裂かれ、心と瞳が切り離されていく。賢司のあの満たされた笑顔が、たっぷり深い傷口を伝わせる。でもその鮮やかな血の痛みが、よく分からない……。
 何なのだろう。俺はいったいどうしたいのだろう。賢司に女の子ができて、なぜこんなに苦しいのだ。
 俺は男を求めたりしない。賢司だって友達だ。ならば何にもないはずだ。むしろ祝福したいはずだ。なのに剥ぎ取られてゆいいつ残った傷口が、こんなに大きな口で悲鳴を上げている。
 こうしてみんなの中にいるほど、途方もなくひとりだ。みんながすごく遠い。手を伸ばして触れられるところには、誰もいない。
 俺はみんなと違う。だからどうせ、触れられたら嫌われる。何も失くしたくなければ闇に冷たく孤立し、距離に気づかれないよう嘘を叫ぶしかない。相手にはすぐ近くにいるかのように聞こえるよう、喉が引き裂けるぐらいに無理な声を押し出す。
 吐血が反響する。誰にも本当のことは言えない。でも、“本当のこと”とは何なのだろう。
 ばれなければいいのか。受け入れてほしいのか。何が必要なのだろう。もっとうまく演じられればいいのか。それとももっとうまく──素直になれればいいのだろうか。

第十三章へ

error: