非常階段-120

ひとりじゃない

 冬休みは、智也に会ったり深井家に出向いたり、もちろん勉強したりでいそがしかった。
 智也もさすがに遊びに行こうとは言わず、仏頂面でシャーペンをかじっている。だけど、深井とも勉強していた俺が教えたりする必要もなく、「うぜー」だの「だるー」だのぼやきつつ、しっかり正解を書いている。「やっぱり勉強しないだけだったんだな」と言うと、「あーん?」と不思議そうに言われた。
「赤点ばっかだったのに、いきなりすげー高得点」
 俺がそう言うと、「そうかねえ」と智也は参考書をめくる。今日の勉強場所は、暖房が心地よい智也の家のリビングだ。おばさんは仕事に出ている。生温くなったカフェオレをすすりながら答え合わせをすると、勉強しまくってきた俺と、ぎりぎりまでふざけていた智也の正解率は変わらなかった。
「あー、ここ間違ってんじゃん」
「でも、過去分詞とか分かってる感じなのがすごい」
「分かってることは分かってないぜ」
「……それがまた。まあ、これだったら同じ高校行けそうだな」
「マジで? じゃあこれ以上勉強せずに、」
「遊びには行かないからな」
「まじめ野郎め。あーあ、年末年始はヒマだなあ。柊は結局、田舎帰るんだっけ」
「かあさんがそうしろって言うから」
 智也は舌打ちして、「今年もまたかあさんとふたりで雑煮かよ」とむくれる。
「智也は帰らないのか」
「母方はどっちも死んでる」
 父方は訊くまでもないので、「そっか」と俺は参考書をめくって次のページに進む。
「柊は家族と帰って大丈夫そう?」
「微妙。車の中とか気まずそうで怖い。かあさんが気は遣ってくれると思うけど」
「こっち帰ってきたら、連絡くれよな。お年玉で遊びに行こうぜ」
「いや、だから勉強──」
「気晴らし気晴らし。一日くらいあっていいだろ。ほら、そこの神社の合格祈願に行けばいいじゃん」
「合格祈願か。そっか。それはいいかも」
「な。よしっ、一日確保」
 ガッツポーズの智也に苦笑しながら、「じゃあ次はこのページな」と参考書をめくる。「はいはい」と智也はシャーペンを握りなおし、俺たちは集中力をかき集めて受験勉強に励んだ。
 その日は十八時頃に切り上げて、真っ暗になった寒空の下を帰宅した。そっと家に上がると、リビングには人が気配がしたけど、黙って二階に上がろうとする。
 シチューの匂いがする、と思っていると、「柊」と呼び止められてびくっと振りかえった。暗い階段の下にいたのはかあさんで、まるで声の主が幽霊じゃなかったみたいに安堵してしまいながら、「何?」と一段降りる。
「帰ってきたなら、『ただいま』くらい言ってちょうだい」
 かあさんを見つめて、以前までだったら鬱陶しかった当たり前のお小言に泣きそうになってしまう。「ただいま」と素直に言うと、かあさんは「おかえりなさい」と微笑んだ。
「それとね、柊に電話があったわよ」
「え、電話」
「深井さんっていう女の子。確か、柊が毎週行ってるお宅よね」
「うん。深井から? 何だろ」
「折り返し電話が欲しいって。携帯電話の番号を聞いておいたわよ」
「あいつ、ケータイ持ってたっけ」
 首をかしげながら、かあさんにメモと電話の子機を受け取ると、部屋に戻った。
 まずは明かりをつける。相変わらず暖房機具がなくて寒い部屋だ。でもリビングはねえちゃんとかいるだろうし、と荷物をふとんの上に放ると、ついでにベッドサイドに腰かけた。
 子機をつかんでメモの番号を押すと、電話を耳にあてる。
『はい、もしもし』
 二、三回のコールのあと、ちょっと久しぶりな深井の声が耳に流れこんできた。
『塩沢?』
「えっ。何で分かったんだよ」
『登録しといたから表示が出るもん』
「あ、そっか。ケータイなのか。深井ってケータイなんて持ってたっけ」
『へっへー、今年のクリスマスに買ってもらっちゃった』
 クリスマス。そういえば、俺の家はクリスマスに家族揃っては何もしなかった。去年もそうだった。ただ、今年はかあさんが料理は作ってくれて、とうさんとねえちゃんがいない隙に、俺はケーキとチキンをご馳走してもらった。
「で、何。電話なんて」
『あ、そうだ。えっと……あのね』
「うん」
『びっくりしないでね』
「ああ」
『こないだ、塩沢が兄貴に会ってくれたでしょ。それだけでも、すごい感激だったんだけどさ。それだけじゃなかったの』
「え……」
『兄貴がね、一階に降りてきてくれた』
 俺は寒さに身じろぐのを止めて、空中にまばたいた。
 一階に、降りてきた。芽さんが。それは、つまり──
『クリスマスはね、毎年兄貴の部屋の前にはプレゼント置いておくの。毎年、一応部屋に持ちこんでくれてたんだけど、お礼はとかなくて、それっきりだったんだよね。今年のプレゼントはセーターだったんだけど、そしたら今日、それ着て、あたしたちがいるのに一階に降りてきてくれたの』
 しばし、ぽかんとしてしまった。ただ、芽さんを思い返した。あの日の内気な瞳やぼさついた前髪がよぎる。
 一階に降りた。部屋を出た。家族の前に現れた。
 だんだんそれを理解してくると、胸がそわそわする感じがして、知らずに笑みがこぼれてくる。
「マジで?」
『マジだよ』
 深井の口調は確かだ。本当なのだ。芽さんが家族をやっと受け入れた。もう一度信じようと踏み出してくれた。
 あんなに怖がっていたから、部屋を出るのはもう少し先だろうと思っていたけど。無論、できることなら早く家族にもその顔を見せてあげてほしかった。だから思わず、芽さんの勇気に感動すら覚えてしまう。
「すごいな。芽さん、頑張ってくれたんだ」
『うん』
「よかったじゃん」
『塩沢のおかげだよ』
「いや、俺、先週行かなかったぐらいだし。先週はほんとごめん」
『いいよ、時期が時期だもん』
「普通に朝とかに降りてきたのか?」
『普通といえば、普通にテレビ観てた。両親もいたけど、あたしの名前を一番初めに呼んでくれたんだ。「亜里紗」って。その声が、すごい久しぶりで……兄貴の声聞いたのなんて、ほんとに、何年かぶりで。泣いちゃったよ』
 言いながら、また深井の声が涙に震える。あふれた感情が鎮まりきっていないのだろう。
『それから家族揃って大泣き。バカみたいでしょ。でも、泣くことしかできなかった。兄貴も泣いてたよ。何回も「ごめん」って言ってた。謝ったりしなくていいのに』
 何となく四人のその光景が浮かんで、よかった、と俺は心を撫で下ろす。深井も、ご両親も、今度こそ芽さんを受け止めてあげられたのだ。
『すごく嬉しかった。また兄貴の顔見れてほっとした。想像より痩せてたし、髪とかも自分で切ってたみたいでぼさぼさだったけど、やっぱり何かが兄貴のままでさ』
 鼻をすする音がして、『泣きっぱなしでごめん』と言われて「いや」と俺は答える。
「泣くよ、それは。俺なりに事情に関わってきたし。分かるよ」
『ん……何か、何だろ。塩沢には、ほんとに、ありがとう』
「『ありがとう』は芽さんに言えよ」
『うん。兄貴にも言った』
「そっか……」
 耳元に嗚咽が混ざる。そんな声を聞かされると、こちらまで涙が滲みそうになってしまう。
 深井にも、おじさんやおばさんにも、話はたくさん聞いていた。芽さんがドアを開けるなんて、あの家の人の誰もが絶望していた。自分たちの受け止め方が悪かったせいであるだけに、罪悪感で希望を禁じているようだった。
 ようやく、解放されたのだ。五年間だ。五年間、家族みんなどうすればいいのか苦しみつづけ、やっともう一度家族になれた。そんな出来事に、ほんの少しでも俺が携われたなんて信じられない。
「よかったな、深井」
『うん……』
「芽さんって優しそうな兄貴だよな。これからもっと仲良くなって、どっか行ったりしろよ」
『うん』
「俺も、力になれたんならよかった。でも、勝手にひとりでしゃべってただけなんだけどな」
 笑ってしまうと、笑い声に釣られて深井も咲った。
『普通なら嫌になってくること、塩沢は良くしてくれたと思う。ほんとに感謝してる』
「あんまり言うなよ。照れるじゃん」
『言わせてよ。嬉しいんだもん』
「んー、まあ、そしたら俺も安心だな。勉強にも本腰入れられるし。あ、明日ぐらいに行こうとは思ってたんだけど。いいかな」
『もちろん。来てよ。おかあさんたちも、塩沢にお礼言いたいって言ってた』
「そっか。じゃあ、明日行くよ」
『うん』
 それからいっとき雑談すると、また明日、ということで電話を切った。
 何だか感慨深かった。このあいだの芽さんを改めて思い出し、家族と和解したいって気持ちはあったみたいだもんな、と思う。俺だけにかろうじてドアを開けたくらいだと思っていたし、急展開に驚きもあるけれど、好転に変わりはない。
 明日俺も芽さんと話そう、と何となくわくわくしながら決めると、冷えてきた手で荷物をたぐりよせ、勉強道具を引っ張りだした。
 翌日、俺の家は大掃除だった。俺は自分の部屋を手早く片づけると、昼食をひとりだけ早く食べて家を出た。
 曇った冬空からの風が冷たく、首を縮めてしまう。
 深井たちは祖父母は近所に住んでいるそうで、帰省はしないらしい。深井家には深井もおじさんもおばさんも、カシスもいた。
 何だかんだ、ここに来るのは芽さんがドアを開けてくれた日以来で、二週間も経ってしまった。おじさんとおばさんには改めて礼を言われ、俺は慌てて首を振った。「ほんとに何にもしてないんで」と照れ咲いして二階に上がると、部屋にいた芽さんはちゃんとドアを開けてくれた。
「先週来れなくてごめんなさい」
 よく効いた暖房に上着を脱ぎながら俺が言うと、芽さんはかぶりを振った。
「終業式とかあったんだろ」
「はい。で、友達と勉強したりとか。友達っていうか、智也ですけど」
「今日は大丈夫?」
「大掃除、適当に済ましてきました。明日から帰省するんで、その前にここに来ておきたくて」
 並んでベッドサイドに腰かけ、隣の芽さんを見る。芽さんは首をかしげ、俺はちょっと笑ってしまう。
「深井たちに会ったんですね」
「あ、うん」
 俺の言葉に、芽さんはなぜかばつが悪そうに下を向く。
「あっさり、してるみたいだよね」
「ちょっとびっくりしましたけど、悪いことじゃないですよ」
「僕も、いろいろ考えて。今を逃したら、また何年も出れないんじゃないかって思ったんだ」
「……今、ですか」
「君にドアを開けることができたから。勢いに乗るってわけじゃないけど、その……タイミングというか」
 芽さんは、自分の言葉がしっくり来ないようで困ったふうにまた首をかしげる。表情とかはまだ堅いかな、という感じを受けた。
「また部屋に閉じこもるようになることを、『怖い』って思えて」
「はい」
「そう思えてるうちに、動かないと……僕はやっぱり弱いから。また、邪推とか不安でダメになりそうで」
「………、」
「部屋にこもってると、時間だけはたくさんあるんだ。周りには急に見えたかもしれないけど、僕は君に会ってから一階に降りるまで、すごくたくさん考えた」
「考える……」
「君も悪いこととか、そういうの考えすぎるくらい考えるって言ってたけど。分かるよ。僕も悪い可能性を考えすぎて、当たり前のいい方向まで信じられなくなったりする」
「……はい」
「先週、君が来なくて。それでいっそう考えた」
「あ……ごめんなさい」
 芽さんは頭を振って話を続ける。
「一日じゅう考えて。考えてるうちに、僕もいつも嫌になるんだ。それで、いっそ死にたいとか消えたいとか思うようになる。そうしたら、もうダメなんだ。ベッドを起き上がることもできなくなる。自分がそんな状態になることが分かってるのに、それでも考えて。ひとりでずっと悩んで、君がまた来てくれる日まで、まともな自分が持つか分からなかった。そしたらどうなるんだろうって思ったら、また、引きこもると思ったんだ。先週来なかったじゃないかとか思って、ドアを開けられなくなるって。そしてまた、何年も引きこもりつづける毎日になる。そういう想像がついたんだ。そんなの考えてたら、今、まだ君にドアを開けたときの気持ちがあるうちに、踏み出さなきゃいけない気がして」
 一気に吐き出して、芽さんはちょっと息をつく。俺はじっと話を聞いている。
「みんなには、急な行動に見えたと思うけど。僕はものすごく考えた結果、そうしてみたんだ。……早かったかな」
 俺は言うまでもなく首を振り、「早いほうがもちろんいいですよ」と言った。
「深井たちもすごく喜んでたし」
「いまさら邪魔だとか思ってないかな」
「思ってないですよ。電話でも泣いてたし」
「……そっか。とうさんが、『よく出てきてくれたな』って言ってくれた。かあさんも僕のこと抱きしめてくれた。亜里紗もすごく泣いてた」
「深井の名前を一番初めに呼んだんですよね」
「一番気にして、僕のために君を連れてきてくれたりしたのは亜里紗だから。目に入ったのが亜里紗だったし。何か、自然と」
「芽さんが頑張ったことなのに、深井たちには俺まで礼言われちゃいましたよ。変ですね」
「君のおかげだよ」
「愚痴みたいなことしゃべってただけですよ」
「そんなことない。君は、僕にひとりじゃないって思わせてくれたよ」
 ひとりじゃない──。
 ほっとした。芽さんにそう思ってもらえたのなら、一番嬉しい。
 ひとりは俺も痛感している。二年生までは俺もひとりだった。自分だけがみんなと違う、汚れた存在なのかとつらかった。
 でも違った。俺は普通だし、ひとりでもなくなった。そう、ひとりじゃなくなって、また芽さんという友人に恵まれたのだ。
 そのあと、俺と芽さんは一緒に一階に降り、ダイニングで深井やおじさんたちと談笑した。テーブルは香ばしい紅茶や甘いお菓子でにぎわう。何やら慌ててキッチンに行ったおばさんをさりげなく目で追うと、涙をぬぐっていた。
 俺は一瞬視線を下げ、俺んちもいつかこんなふうに戻れるときが来るのかな、と思った。分からない。分からないけど、そうだといいな、と漠然と思って顔を上げた。

第百二十一章へ

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