ほどける冬
帰省に出発したのは十二月三十日、雪乃ねえちゃんの誕生日だった。ねえちゃんは「高校生になったんだから行かなくていいでしょ」とさんざん言ったらしいが、かあさんが許さなかった。今年こそは四人で帰りたいみたいだ。
何か悪いなあ、と思いつつ俺は後部座席のねえちゃんの隣に乗りこむ。とうさんは運転席で、かあさんは助手席だ。暖房でぼうっとした狭い車内には、雪乃ねえちゃんがぶつくさ言い続けていたおかげで、さいわい嫌な沈黙は訪れなかった。
かあさんの実家に着くと、俺はじいちゃんとばあちゃんに揉みくちゃにかわいがられた。じいちゃんが本気で貯めていたぶんのお年玉をくれたりして、思わず「いいよ」となんて言ってしまったが、「もらっておきなさい」ととうさんがぶっきらぼうながらひと声かけてきて、俺は狼狽えつつも受け取った。「大きくなったねえ」とばあちゃんは腰の具合が悪いというのに精一杯背伸びして俺を抱きしめてくれた。懐かしい気持ちになる匂いがした。
荷物を下ろして、しばしこたつで休憩すると、とうさんとかあさんとじいちゃんは墓掃除に出かけた。ばあちゃんは、かあさんに止められていたのも聞かずに、台所に立っている。
そんなわけで、動物の体温みたいにぬくぬくしたこたつには、俺と雪乃ねえちゃんが残った。ねえちゃんはずっと熱心にケータイでメールをしている。何か思ったより緊張しなくてよさそうだな、と思い、俺はぼんやりテレビに目を向けていた。
「ねえ」
不意にそんな声がした。テレビの音じゃなかったので、ん、と俺がきょろきょろすると、「バカね、こっちよ」と雪乃ねえちゃんの声が続く。俺は慌てて正面を向き、まさか声をかけてくると思わなかった雪乃ねえちゃんを見る。
「えっ、と。な、何」
「何でどもるのよ」
「……何だよ」
「あんた、受験はどうなの?」
「えっ。えーと、まあ、勉強してるよ」
バカみたいな当たり前のことしか言えない。ねえちゃんとまともに口をきくのは久しぶりだった。相変わらず研いだ針のように刺々しい。当たり前だよな、とうなだれそうになると、「学校は?」と思いのほか話を続けられる。
「学校?」
「学校ではどうなの? まだくだらないイジメに遭ってるの?」
「……まあ、ときどきあるよ」
「そう」
卓上にあったケータイが光った。ねえちゃんはメロディが流れる前にぱっと取り上げて開き、何やら作文を始める。取り残された俺は、こんもりと積まれたみかんよりテレビを観る。
背後のストーブがぱちぱちいっている。
おもしろくないトーク番組で、チャンネル変えたいなあ、と思っていると、ケータイを置いたねえちゃんが突然言った。
「彼氏ができたの」
「はっ?」
変な声で訊き返してしまった。雪乃ねえちゃんは眉を寄せる。
「何よ、その声」
「いや、え、彼氏。俺に」
「何であんたよ。あたしにできたの」
「え、あ、そうなんだ。彼氏。えと、……おめでとう」
ほかにどう言えばいいのか分からずそう言うと、雪乃ねえちゃんは思いがけず噴き出した。俺はぽかんとその笑い顔を見つめた。雪乃ねえちゃんの笑顔なんて、こんなことになる前にも、ほとんど見ることがなくなっていた。
「『おめでとう』って」
「だ、だって、おめでとうだろ」
「まあ、そうね。ありがとう」
「え」
「……ほんとに、ありがとう」
雪乃ねえちゃんはどこか噛みしめるように言う。そしてケータイを一瞥して、ふうっと息をつくと何やら睫毛を伏せた。
何なんだ、ととまどってねえちゃんのさらさらした髪を見つめていると、またいきなり鰐みたいな目でぎろりとされた。
「か、彼に言えって言われただけなんだからねっ」
「はい?」
「あたしたちが出会えたのは、雪乃の弟のおかげだろって」
「俺?」
「今の学校で知り合った友達のおにいさんなの。今の学校に行ってなかったら、出逢えてなかった」
「……あ、」
「ずっと……あんたを怨んでたわ。でも、落ちたのはあたしの実力不足よね。なのに、あんたのせいにしてきて悪かったわね」
「い、いや、別に、そんな……」
「落ちて今の学校に行ってることは、変えられないんだし。彼にも出逢えたし。あんたのこと逆怨みするのはやめるわ」
かなりつんつんした物言いだけれど、雪乃ねえちゃんなりに必死に素直になろうとしているのが伝わってくる。俺が口を開きかけると、その前にねえちゃんは繰り返した。
「ほんとに、彼に言えって言われただけよっ。家のこと話したら、一番つらいのはあんたじゃないかって。だから、そんな態度取っちゃダメだって」
「……今、そんな態度取ってるけど」
「うるさいわね。とにかくごめんねっ。あたしは元からあんたの性質なんて気にしてなかったし。ただ、学校でのうわさと受験に失敗したのが嫌だっただけで。別に、ゲイなのはいいんじゃないの。そんなに気にするんじゃないわよ」
ただただ言葉の急流に目をしばたかせる。そのとき、ケータイが踊るように七色に光り、雪乃ねえちゃんはそれを乱暴につかむと立ち上がった。
「受験、あんたは頑張りなさいよ。じゃああたし、今から電話するから。こっちの部屋来ないでよね」
そう言って、つかつかと隣の部屋に退散すると、雪乃ねえちゃんはぴしゃりとふすまを閉めてしまった。
その音に「どうしたんだい」とばあちゃんの声が重なり、とりあえず、ねえちゃんが電話をしに部屋を移ったと返しておく。それから俺は、ぼさっとみかんの山を見つめて、改めて雪乃ねえちゃんに言われたことを思い返してみた。
彼氏──に、ひとまず、感謝すべきなのか。会ったこともなく、想像もつかない相手だが。なのに俺を理解し、雪乃ねえちゃんに苦言をしてくれたらしい。友達のおにいさん、ということはねえちゃんより年上なのだろう。
大人なのかもしれない。雪乃ねえちゃんのわがままを受け止められるなんて、きっとそうとうな大人だ。ねえちゃんの年代のおにいさんなら、おっさんではないだろうが。
もう逆怨みしない。ゲイなのもいい。そんなに気にするんじゃない。
連射された言葉を反芻し、ねえちゃんも俺を受け入れてくれたのか、と一度胸で確認する。にわかすぎて信じられないが、きっと、そうだ。かあさんだけでなく、ねえちゃんも俺を分かってくれた。俺がゲイであっても、家族として、弟として、許し入れてくれた──
「どうかしたかい、柊ちゃん」
気づくとばあちゃんが隣にいて、はたと顔をあげる。
「あ、ううん。何にも」
「お雑煮ができたから食べるかい」
「うん。食べたい」
ばあちゃんはしわくちゃの顔で嬉しそうににっこりすると、台所に戻っていった。
俺はその場を座り直し、おぼろげに聞こえる雪乃ねえちゃんの声を聞く。内容までは分からない。何となく、彼氏だろうなと思った。誕生日を向こうで過ごしたがったはずだ。ねえちゃんも今は幸せなんだな、と思うとほっとした。
考えれば、車の中で気まずい沈黙にならなかったのは、雪乃ねえちゃんがぶっきらぼうに愚痴をこぼしていたからだった。あれはもしかして、沈黙を気にしてわざとだらだら言っていたのかもしれない。いや、やっぱり単なる愚痴だったのかもしれない。本当のところは分からないけど、ただ、ねえちゃんありがとう、と身に染みるように思った。
そういえば、お年玉のとき、とうさんもぶっきらぼうでも声をかけてくれたっけ。家族が、少しずつ、少しずつ、修復されはじめている?
俺が絆を引き裂いてしまったと思ってきた。だから、みんながまた家族として集まりかけているのなら、すごく嬉しい。
へへ、と思わずひとりで咲って、まだ雑煮を食べたわけでもないのに、心が柔らかに温かくなった気がした。
【第百二十二章へ】
