過去を重ねないように
三学期が始まった。受験勉強が慌ただしいながら、俺の学校生活はだいぶマシになっていた。
たいていの生徒は勉強に血眼になり、そうじゃない生徒も俺に嫌がらせしてきたりしない。これまでがこれまでだったから、話しかけられたりまではなかったが、それでも智也や深井がいてくれる。今年は久々に家族と帰省したと香野にも話すと、一緒に喜んでもらえた。
その日は智也が途中から学校をサボって、彼女に会いにいってしまった。会いたくなったら学生服のまま校門で待っているので、用務員のおじさんと雑談する仲になっているらしい。まあ、不審者として目をつけられるよりマシだと思うが。
深井は友達とつくえを囲んでいるし、俺は弁当を持って教室を出た。また昼飯一緒に食べよう、とも話していたし、二ノ宮の教室に行こうと思ったのだ。
俺が行っても大丈夫かな、と案じつつ、二ノ宮の教室に到着すると、そっと中のざわめきを覗いてみた。二ノ宮も誰かと食っていたら、おとなしくひとりで食べよう。そう思っていたが、二ノ宮はつくえでぽつんと、ひとり弁当を開いていた。
横顔もどこか陰っていて、やっぱハブられてんのかな、と心配になりながら、通りかかった後輩に二ノ宮を呼んでもらう。寒さで外に出ない生徒たちが騒がしいのは、この教室も俺の教室も同じだ。そのにぎやかさを縫って話しかけられた二ノ宮は、すぐにこちらを振り向く。
目が合った俺は、どんな顔をすればいいのか、とりあえず咲うと、二ノ宮はがたっと椅子を立ち上がって、急いだ様子で駆け寄ってきた。
「えっと、こんにちは」
「おう」
「どうしたんですか」
「いや、弁当一緒に食おうかなと思って」
「えっ。いいんですか」
「うん」
「桐島先輩は」
「彼女に会いにいった」
二ノ宮は目をしばたき、「そうなんですか」とどぎまぎと視線をうろつかせる。恋愛の話題に慣れないところは、やはり一年生だなあと思う。
「突然来ちゃってごめんな。迷惑だったら──」
二ノ宮は慌てて首を振り、俺がまだ何か言う前に、「お弁当持ってきます」と駆け足で自分の席に戻っていった。二ノ宮のクラスメイトが、ちらちらとこちらを観察してくる。そんなちょっとした注目に二ノ宮は頬を染めながら、そそくさと俺の隣にやってきた。「中庭でも行こっか」と言うと二ノ宮はこくんとして、俺たちは寒風が抜けてあんまり人がいないだろう中庭に向かうことにした。
「ほんとにごめん、急に教室とか行って」
やはりみんな暖房のある教室で昼食を取っているのか、廊下もずいぶん人が少なかった。
「いえ。嬉しいです」
「三学期になって会うの初めてだな」
「いつ先輩の時間が空いてるか分からなくて。昼休みとか、いいのかなって」
「気にしなくていいのに。さすがに昼休みは勉強してないよ」
「でも、桐島先輩と話してたり」
「君が来たら、あいつはきっと俺のこと追い出すし」
俺がそう咲うと、「先輩が何かしてるとき、僕が会いたくなっても邪魔じゃないですか」と二ノ宮は不安そうに訊いてくる。「二ノ宮が邪魔だったら、俺から弁当食いにきたりしないよ」と俺は苦笑する。二ノ宮はこちらをじっと見つめて、飲みこむようにうなずくと、「ありがとうございます」と小さく微笑んだ。
すぐに芝生が枯れかけた中庭に到着した。案の定、静かで冷えこむが、そのぶん人がいなくて好奇の視線の心配もない。並んで土だけの花壇に腰かけると、膝に弁当を開いた。二ノ宮も雑に包んでいた弁当を開いて、箸を取る。
「冬休みはどうだった?」
たわらのおにぎりをかじって、米の甘味を味わって飲みこむと、俺は二ノ宮に顔を向けて問うてみた。
「けっこう、いそがしかったです。両親の実家遠いので、新幹線とか乗って。宿題もたくさんあったし」
「はは。俺も両親の実家に帰ってた。ここんとこ顔出してなかったから、やたらお年玉とかくれてさ」
「あ、おうちの人とは、大丈夫でしたか」
俺はうなずき、雪乃ねえちゃんのことを話した。雪乃ねえちゃんのことは、かあさんも喜んでくれた。かあさんに「ありがとう」と言われた雪乃ねえちゃんは、「それより、彼氏のこと反対しないでよね」としか返していなかったが。とうさんとはまだ口こそ聞いていなくても、かあさんが俺と向かい合うよう持ちかけてくれているようだし、食事中に醤油やソースの瓶を無言ながらまわしてくれたりする。何より、俺を前にするとむずかしそうに考えこむものの、いらいらと非難するあの苦い瞳をしなくなった。
ちなみに、年が明けると父方の実家に移った。すると、あれだけ子犬みたいにやんちゃにじゃれついてきていた従妹の桃子と静香は、俺と口をきくのを何やら恥ずかしがって取り澄ましていた。早穂は六歳になり、妙に俺に懐いて、黙って足元にくっついて離れてくれなかった。「柊ちゃん、久しぶり!」と二組の叔母夫婦たちも俺が久々に顔を出したのを喜んでくれて、俺はここで受け入れられてるんだなあ、なんて感じた。
箸を進めながら俺がそんな話をすると、二ノ宮は微笑ましそうに聞いてくれた。
「いとこの子、かわいいですね。下の子も、姉妹のふたりも」
「姉妹はもともとかわいいなんてもんじゃなかったんだけどな。桃子は五年生になってたし、そういう年頃なのかも」
「クラスに好きな人とかもいるのかもしれませんね」
「えー、あいつに? でも、そんな歳か」
「おねえさんのことも、本当によかったです。僕は家族に知られるなんて、まだぜんぜんダメです」
「急ぐことじゃないよ。まあ、変にばれるより自分から言ったほうがいいのかな」
「勇気ないです。弟とかは、今でも僕のこと女々しいって近づいてくれなくて」
二ノ宮は苦笑して、たまご焼きを器用にひと口大に裂く。
「僕も嬉しいです」
「え」
「先輩は、つらい目とかひどい目に、たくさん遭ってきたから。今、そうやって周りの人が理解してくれてること」
「……うん」と俺はおにぎりをもぐっとして、ゆっくり飲みこむ。
「何だろうな。最近、いろんなことが急に変わってる気がする」
「先輩がそれだけ乗り越えたんだと思います」
「そ、かな」
「はい」
にっこりした二ノ宮に俺は照れ咲いして、「自分ではよく分かんないな」と次は脂が滲んだハンバーグを口に放る。二ノ宮はじっと俺を見つめてから、ひと口大にしたたまご焼きを頬張った。
まあ、咲えるようにはなった。それは思う。俺はずいぶん咲えるようになった。
ゲイだと感づきはじめた頃から、とにかく自分をしまいこんできた。さなぎのように殻にこもらないと、心ない攻撃が容赦なく心を貫通してきた。差別。偏見。嫌悪。積み重なる痛みは、血だまりが広がるように麻痺になり、次第に俺は咲えなくなっていた。
それが智也や深井、二ノ宮との出会いでほどかれてきている。そんなことを言うと、「咲えるようになったのは、お前自身の戦利品だろ」と智也は言う。深井もまた、「塩沢がとっとと不登校してたら、話しかけたりしなかったよ」と言ってくれる。二ノ宮も今、「先輩がそれだけ乗り越えたんだと思います」と咲ってくれた。
だけど、やっぱりみんなのおかげなのだ。非常階段を降りなかった俺がいて、初めて出会えた人たちだけど、今こうしてまた仮面をかぶらずに咲えているのは、智也たちの理解のおかげだ。
普通にしなくてはいけない。そればかり心がけて窒息しそうになって、でも結局ばれて疎外されて。だが三年生になってから、蜃気楼のように耐えても耐えても行きつけなかった場所に、ついにたどりついた。やっとありのままの自分を受け入れてもらうことができた。
長かった。入学式からずっとひとりで苦しんできた。この悪夢はいったいいつまで続くのかと気が遠くなった。高校。大学。社会に出ても、きっとつきまとって離れない。俺がゲイであることは変えられない。俺がゲイだと誰も知らない、遠い街に出ていくしかないのかと本気で悩んだこともある。
でも、今ならはっきりと言える。俺はこの中学をしっかり卒業できる。終わらないと思った滅入るような毎日は、終わったのだ。
からあげを口に運んでいる二ノ宮をちらりとした。今の俺に不安があるとしたら、自分のことではなく、この子のことだ。正直、卒業と共に連れていきたい。しかし、無理な話だ。かといって、俺があと二年留年することもできない。
俺と行動することでホモだとうわさも立っている中、ここにひとり、残していくしかない。今はまだ俺がそばについていてやれる。でも、いなくなったら、大丈夫だろうか。友達はできるのか。仲間外れにされないか。……イジメられたりしないか。
俺の視線に気づいて、二ノ宮が顔を上げる。「何ですか」とはにかみながら首をかたむけられ、俺はかぶりを振る。不思議そうな二ノ宮の頭をぽんぽんとしてやると、香野あたりに任せて期待するしかないよなあ、と秘かに息をついた。
【第百二十三章へ】
